第4部 第12話『帰りたいという異常』
タワーの崩壊後、ライガは見知らぬ街の「第六居住区」で目を覚ました。そこで暮らす男は、定期的に行われる「補正」の直後、妹のこともライガを看病したことも忘れてしまう。診療所へ来たライガは、リドラムからの移送票と、別の紋章が押された古い帳簿を見つけた。
※本作品の執筆にはAIを活用しています。
「……いつから、ここにいたんでしょうね」
男は自分でそう言って、笑おうとした。
ライガが答える前に、奥の扉が開いた。白い上着を着た職員が、薄い端末を手に出てくる。
「西側で保護された方ですね。こちらへ」
ライガは立ち上がり、受付の書類箱を指した。
「その移送票は、ここの住民のものか」
「ええ。受け入れ記録の照合中です」
「再教育対象者と書いてある」
「各地の再教育施設から移ってきた方々です。この区では、生活と治療を継続しています」
職員は隠そうともしなかった。
ライガは隣の男を見た。
「この人も?」
職員は男の袖口についた札を見て、端末を操作した。
「そうです。こちらでの生活は安定しています」
「そうだったんですか」
男は、他人の話を聞くように頷いた。
ライガは握りかけた拳を開いた。
この男は、運ばれてきたことも忘れている。受付にある書類がなければ、どこから来たのかも確かめられない。
「俺を見つけたのは、いつだ」
「当区の記録では、二日前です。保守通路から搬入されました」
「二日……」
タワーで倒れてから、すぐに運び込まれたのか。それ以前にどれだけ時間が経ったのかは、まだ分からなかった。
「外へ連絡したい。仲間が俺を捜している」
「まず診察を。通信の利用には登録が必要です」
職員が扉を開けたまま待っていた。ライガは室内を見た。
診察用の椅子と、薬品の棚。壁際には、胸ほどの高さの装置が置かれている。
ライガは男へ振り返った。
「ここで待っていてくれ」
「はい。終わったら、戻りましょう」
男は受付の椅子へ座り直した。
*
職員はライガを診察椅子に座らせた。
上着の前を開くと、下に着ている薄い服と、脇腹を巻く包帯が見えた。上着には煤が染みつき、袖口も裂けている。その下の服だけが、妙に新しかった。
「この服は、ここで着せたのか」
「ええ。下に着ていたものは血で貼りついていたので、治療の際に切りました。上着は元のものです」
職員は端末の記録を確かめた。
ライガは袖口をずらした。
腕には、サングがついている。表面は傷だらけだったが、留め具は外れていなかった。
コアを砕いた時に、白炎は使い切った。その後で変身が解けたのだろう。崩れたタワーからここへ運ばれるまでのことは、断片しか思い出せない。
職員が右手の包帯をほどく。
「傷は塞がり始めています。脇腹は、まだ無理をしないでください」
消毒液が傷にしみた。ライガは顔をしかめたが、手を引かなかった。
処置を終えた職員が、端末へ何かを入力する。
「名前をお願いします」
「ライガだ」
「帰りたい場所はありますか」
「リドラム。さっきも言っただろ」
「そこへ戻れないことで、不安や苦痛を感じますか」
ライガは職員の顔を見た。
「……何の質問だ」
「こちらで暮らすために、必要な確認です」
「ここで暮らすとは言ってない」
職員は入力を続けた。
「環境が変われば、以前の生活へ戻りたいと感じる方もいます。その不安も治療できます」
ライガは肘掛けから手を離した。
「外で音が鳴った後、あの人は妹を忘れた。あれも治療なのか」
「定期補正です。生活を妨げる記憶や衝動を、落ち着かせます」
「妹を思い出すことが、邪魔だっていうのか」
「思い出すたびに苦しむ必要はありません」
職員の声は、包帯を替えていた時と変わらなかった。
「忘れたくないと言ってたんだぞ」
「今は落ち着いていらっしゃいます」
ライガは立ち上がろうとした。
その瞬間、肘掛けの内側から金属の輪が出た。右の手首を挟まれ、身体を椅子へ引き戻される。左手を上げるのが遅れていたら、両腕を固定されていた。
「何をする!」
「動かないでください。傷が開きます」
職員は壁際の装置を椅子へ寄せた。装置から伸びる輪状の部品が、ライガの頭の高さへ上がる。
『初期登録。補正対象の設定を開始します』
ライガは自由な左手で金属の輪を押し返した。装置の支柱がきしむ。
職員が操作盤へ指を伸ばした。
ライガは左足で装置の台車を蹴った。
台車が職員の脚へぶつかり、職員がよろめく。輪状の部品が頭から離れた隙に、ライガは左手を肘掛けの下へ差し込んだ。
右手首を固定する金具の付け根に、蝶番があった。
足元の処置台を引き寄せ、その上にあった金属の盆の縁を、蝶番の隙間へ押し込む。
「止めてください」
「外せ!」
職員は解除せず、壁のボタンを押した。
警報が鳴った。
ライガは盆を両膝で押さえ、椅子に固定された右腕ごと身体をひねった。脇腹に鋭い痛みが走り、息が詰まる。
もう一度、体重をかけた。
盆の縁が曲がり、蝶番の留め具が外れた。ライガは右手を引き抜き、椅子から転がるように床へ下りた。
新しい包帯に血がにじみ、着替えさせられた薄い服にも赤い染みが広がっていた。
*
扉の向こうから、灰色の制服を着た保守員が入ってきた。片手に短い棒を持ち、その先で青い火花が跳ねている。
「座ってください。処置を再開します」
ライガは椅子の背を押し、保守員へぶつけた。保守員が棒を突き出すと、先端は椅子の座面に刺さった。
ライガはその腕をつかみ、扉の枠へ押しつけた。棒が落ちる。足で室内へ蹴り込み、保守員を押しのけて受付へ出た。
男が立ち上がっていた。
「大丈夫ですか?」
「一緒に来てくれ。ここを出よう」
ライガは出口を指した。
男は開いた診察室と、血のにじむ包帯を交互に見た。
「でも、まだ治療が……」
「怪我を治すだけじゃない。俺も、帰りたいことを忘れさせられる」
男は困ったように眉を寄せた。
「怖いんですね。でも、ここなら助けてもらえます」
「さっき、あなたは――」
妹を忘れたくないと言った。
ライガがその言葉を伝える前に、男は床へ落ちた包帯を拾い、彼の手へ当てた。
「血が出ています。座ってください」
ライガは男の手を見た。
押さえつけようとしているのではない。自分の怪我を、本気で心配していた。
診察室の保守員が立ち上がった。
ライガは包帯を受け取り、男の手からそっと自分の腕を抜いた。
「……ありがとう」
受付の台へ向き直り、移送票をつかんだ。隣の古い帳簿から、紋章と受け入れ先の載った一枚を破り取る。
紙を折って上着の内側へ入れると、男がその様子を不安そうに見ていた。
「それを、どうするんですか」
「帰り道を調べる。あなたが、どこから来たのかも」
ライガは出口へ走った。
男はついてこなかった。
*
西の門は閉じていた。
ライガは門の脇へ身体を寄せ、追ってくる保守員を振り返った。診療所から二人、こちらへ走ってくる。
門の操作盤には、手を置く形の認証部があった。その下の細い表示に目を留める。
『保守回線 JF接続規格』
ライガは裂けた上着の袖をまくり、腕のサングを露出させた。
組織のサーバーからは、既にアクセスを拒否されている。以前と同じように使える保証はない。
それでも、目の前の設備には同じ接続規格が記されていた。ライガは腕を伸ばし、ブレスを認証部へかざした。
短い音が鳴った。
『旧規格識別。保守回線、局所認証』
門の中央に隙間が開いた。
『居住区登録、未確認。再照合――』
ライガは肩を隙間へ押し込み、身体を横にして通り抜けた。脇腹を擦り、膝が落ちそうになる。
背後で門が止まり、再び閉じ始めた。
「待ってください!」
保守員が腕を伸ばしたが、ライガの上着には届かなかった。
門が閉じると、向こう側で操作盤を叩く音がした。
開くまでに、離れなければならない。
ライガは壁に手をつき、通路の奥へ進んだ。住民を連れ出すつもりが、自分一人で出てきてしまった。
上着の中には、折った紙の硬い感触がある。
ここへ人を送った経路がある。帰る方法も、どこかにあるはずだった。
*
通路の先で、白い壁が途切れていた。
床の一部がえぐれ、黒く焦げた瓦礫が散らばっている。
ライガは足を止めた。
瓦礫の一つに、タワーで見た床の模様があった。砕けた石に金属の枠が付いたまま、通路の壁へ貼りついている。
下に支えはない。それでも、石は落ちなかった。
ライガは足元の小さな破片を拾い、前へ投げた。
破片は途中まで床へ落ちかけたが、急に左へ曲がった。壁にぶつかると、そのまま壁の表面を滑り、タワーの瓦礫に引っかかった。
「……下が、違うのか」
近づきすぎないよう、その場にしゃがんだ。
床と壁の境目を目で追う。壊れた通路の奥には、縦向きに立った階段が見えた。その先に薄暗い裂け目があり、灰のような粉がこちらへ流れてきている。
自分が落ちてきた場所かもしれない。
だが、踏み込めば横へ落ちる。向こうまで身体を支えられる場所があるか、確かめる必要があった。
遠くで金属の門が開いた。
『西側保守通路。未登録者を確認』
天井の装置から音声が響く。続いて、二人分の足音が近づいてきた。
ライガは上着の内側を押さえ、移送票と古い紙があることを確かめた。
男の名前も、妹の行方も、まだ聞けていない。
あの街の全員を自分一人で連れ出すことも、今はできない。
それでも、誰もいなかったことにはさせない。
ライガは足元に落ちていた長い金属棒を拾った。タワーの枠が折れたものだった。
棒の先を前へ伸ばすと、途中から左の壁へ引かれ始めた。
引かれる位置を確かめ、壁の亀裂へ先端を差し込む。
その棒を両手で握り、ライガは身体を低くした。
帰るために、まずはこの先へ進む。
(13話へ続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
怪我を治してくれた場所が、帰りたいという願いまで治そうとする。ライガを心配する男の親切も、この街では彼を引き止める理由になりました。
持ち出した移送票と古い記録を、仲間のもとへ届けられるのか。次回もよろしくお願いします。
評価・ブックマーク・感想も、執筆の励みになります。




