第4部 第6話『拍手のない街』
【前回のあらすじ】
ネビュロスとセイジはフロスティアに残り、村人たちの封印解除に向けて準備を始めた。一方、レヴェリオがエセリアの記録を調べたと知ったヴェルミリオンは、アシュレイとともに追跡へ向かう。辿り着いたのは、かつて自らの毒で滅ぼした、無人の街だった。
※本作品の執筆にはAIを活用しています。
エセリアの中央広場に、人影はなかった。
アシュレイは端末から到着を報告し、背後の通りを確かめた。車を置いた門まで、戻る道は塞がれていない。
隣では、ヴェルミリオンが割れた石畳を見下ろしていた。
「ここで、毒を使ったのか」
「ああ」
短い返事だった。
歩く途中から、彼の呼吸は浅くなっている。タワーでの連戦で負った傷は、移動できるようになった今も、その身体に残っていた。
「座るか」
「昔話をするには、少々、趣味の悪い場所だね」
「お前が戻ってきたんだろ」
ヴェルミリオンは笑いかけて、やめた。
「……そうだった」
広場の向こうに、屋敷の崩れた屋根が見えた。
あそこから、ここへ連れてこられた。
「前に、仲間たちには話したことがある。君には、まだだったね」
ヴェルミリオンは、アシュレイへ向き直った。
「僕が、魔王と呼ばれるようになった日の話だ」
*
――かつてのエセリア。
ヴェルミリオンは、見世物小屋の檻で育った。
人間とも魔族とも違う。男か女かも分からない。客たちは好き勝手に値踏みし、笑い、石を投げた。
泣けば余計に面白がられた。先に笑ってみせる方が、まだ楽だった。
そんな彼へ、一人の貴族が手を差し出した。
「君は美しい。私の庇護下にあれば、誰も君を傷つけない」
男の屋敷には、暖かい寝台があった。
顔を隠さずに食事ができた。眠っていても、格子を叩かれなかった。
助けられたと、心から思った。
だから、男が選んだ服を着た。
笑っていてほしいと言われれば笑い、外は危険だと言われれば部屋にいた。
客人に紹介されなくても、不満を言わなかった。
守ってもらっているのだから。
男の言いつけに従っていれば、この暮らしは失わずに済む。
その信頼を、風紀粛清が踏み潰した。
ジャスティスフェイスの前身組織による捜索は、屋敷にも及んだ。
その朝、男は兵士に広場へ呼び出された。
残った兵士たちは、屋敷の中を捜し始めた。使用人の制止を押し切り、部屋の扉を開ける。
少年は、言いつけどおり部屋にいた。
外へ出なければ守ってもらえると思っていた。
「こいつだ。連れていけ」
腕を掴まれ、廊下へ引きずり出された。
主人が戻るまで待ってほしいと頼んでも、手は緩まなかった。
久しぶりに出た街には、同じように引き立てられる人々がいた。
店の奥へ隠れる者。扉を閉める者。広場へ見に行く者。
少年は助けを求める相手を見つけられず、足をもつれさせながら歩いた。
広場では、あの男が兵士たちに囲まれていた。
「屋敷に置いていたのは、この者か」
兵士が少年を前へ押し出した。
男の顔を見た途端、身体から力が抜けるほど安心した。
自分をここへ連れてきた兵士にも、ようやく説明してもらえる。
あの人なら、誰も傷つけさせないと言ってくれる。
少年は男へ駆け寄り、手を伸ばした。
「触るな!」
石畳に倒れた。
何が起きたか分からず、見上げた。
「私はこんな化け物など知らん!」
男は、こちらを見ていなかった。
兵士の顔を見ていた。
「勝手に付きまとわれて迷惑していたんだ!」
言葉が出てこなかった。
訂正してほしかった。
誰かに聞かせるための嘘で、後で手を取ってくれるのだと、まだ思おうとした。
男は、少年の目を指差した。
「これは「間違い」だ!」
美しいと言った、その目を。
笑い声がした。
男の言葉に頷く顔が見えた。
少年は、伸ばした手を見下ろした。
取ってもらえると思っていた手だった。
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
指の間から、紫色の霧がこぼれた。
何かが燃えているのかと思った。だが、煙は衣服ではなく、自分の皮膚から滲み出していた。
毒の術など、習ったことはなかった。
檻を壊すことも、兵士の手を振りほどくこともできなかった。
人間と魔族。相反する血の内に眠っていた力が、今、初めて堰を破っていた。
稀に生まれる、膨大な魔力を秘めた混血の特異点。その意味も、自分がそうだということも、少年は知らなかった。
兵士が剣を向けた。
反射的に伸ばした掌から、霧が噴き出す。
刃が落ちた。
兵士は何もない空間へ手を伸ばし、恍惚とした顔のまま、喉を掻きむしった。
周囲の者が後ずさった。
男も。
その顔を見て、少年の口元が動いた。
怖いのか。
今は、僕が。
「……なら、僕も毒になろう」
男が何かを叫んだ。
聞き取れたのに、意味を考えるのをやめた。
もう、あの部屋には帰れない。
街へ戻れば、また格子の向こうで笑われる。
守ると言った手も、今は自分を指差している。
逃げ惑う人々が、通りへ押し合っていった。
その先にも店があり、家があり、少年の知らない暮らしがあった。
もう、どうにでもなれ。
自分を笑った者と、ただそこに居合わせた者を、分けようとしなかった。
この街に残るものを、一つも惜しいと思えなくなっていた。
「お前らの大好きな、美しく正しい世界を――」
腕を広げた。
霧が、逃げる背中を追って広がった。
「僕という猛毒で、腐らせてやる」
最初の噴出は、何が起きたかも分からなかった。
けれど、今は違った。
倒れる人間を見て、それでも、もっと出ろと願った。
身体の奥から溢れる力に、力を重ねた。
兵士が倒れた。男が膝をついた。嘲笑っていた者たちが、紫の霞の向こうで崩れた。
広場の端からも、悲鳴がした。
粛清のために集められた者たちが、逃げようとしていた。
少年は、そちらを見なかった。
腕を振るうたび、霧は通りへ流れた。
閉まりかけた扉の隙間へ。開いた窓へ。
まだ誰かがいると分かる場所へ。
「……これからは、僕が笑う番だ」
逃げる足音が減っても、手を下ろさなかった。
夜が明けた時、街から人の声は消えていた。
広場には、貴族も兵士も群衆も倒れていた。
そこから逃げ延びようとした者たちも、通りや家の中で動かなくなっていた。
粛清される側にいた者も、毒は区別しなかった。
生きていたのは、ヴェルミリオンだけだった。
男の傍らへ膝をつく。
助けを求めて伸ばした手で、その顎を持ち上げた。
「もう、僕の顔を見てもくれないんだね」
返事はなかった。
ヴェルミリオンは口の端を上げ、冷えた顔から手を離した。
エセリアを出てからも、追われた。
粛清の対象として記録された顔と特徴は、別の街の兵士にも伝わっていた。
逃げるうちに、力の扱いを覚えた。
霧を狭く留めること。少量でも相手の感覚を狂わせられること。
最初は身を隠すためだった。やがて、逃げるだけでは終わらなくなった。
ある街の通りで、兵士に呼び止められた。
「エセリアから逃げた混血だな」
道行く人々が足を止めた。
ヴェルミリオンは、逃げなかった。
「逃げた? あの街を黙らせたのは、僕だよ」
兵士が剣を抜いた。
その腕を潜り、口元へ掌を添える。指の間から、紫の霧が細く流れた。
剣が落ちた。
兵士は目を剥き、自分の身体を叩き始めた。
何かを払い落とすように、首を掻き、服を引き裂く。
「やめろ! 取ってくれ! 誰か……!」
その身体には、何もついていなかった。
駆け寄ろうとした仲間へ、ヴェルミリオンはもう片方の掌を向けた。
僅かな紫を見ただけで、足が止まる。
「特等席だよ。よく見ておいで」
兵士は地面を転がり、彼の靴へ縋った。
先ほどまで見下ろしていた相手に、震える声で助けを求めた。
ヴェルミリオンは、その手を踏んだ。
「次は、君たちが見世物になる番だ」
誰も笑わなかった。
彼だけが、観客を見渡して笑っていた。
毒を追加すれば、殺せた。
だが、しなかった。震えの止まらない兵士を仲間へ引き渡し、道を空けさせた。
「帰って、話してあげなよ。何を見たのか」
その兵士たちが伝えたのは、エセリアを滅ぼしたと公言する魔術師と、姿のない何かに怯えて命乞いをした仲間のことだった。
通りの人々も、自分の見た光景を語った。
同じような噂が、彼の行く先々から広がった。
人を殺せる毒を持ちながら、すぐには殺さない。
尊厳を剥ぎ、心が折れるまで弄び、それを芝居のように眺めている。
「あれは、人の心まで食らう魔王だ」
その呼び名を聞いた時、ヴェルミリオンは否定しなかった。
彼が通れば、人々は顔を伏せた。
もう、誰も石を投げない。美しいと言ってもらうために、機嫌を取り続ける必要もない。
恐れられていれば、向こうから道を空ける。
「……なら、期待どおりに振る舞ってあげよう」
他人がつけた呼び名に合わせ、笑みを深くした。
相手が怯えるほど優雅に、嫌悪されるほど華やかに。
その笑顔の裏で、毒を浴びた者たちを一人ずつ思い出すことはしなかった。
*
――現在。廃墟となったエセリアの中央広場。
話し終えたヴェルミリオンの前を、乾いた葉が転がった。
アシュレイは、すぐには口を開かなかった。
やがて、広場の端へ目を向ける。
「捕まってた連中も、いたんだよな」
「ああ」
「そいつらも、構わなかったのか」
ヴェルミリオンの指が、手袋の内側で曲がった。
「……あの時はね」
力の使い方を知らなかった。それは本当だ。
だが、誰を巻き込もうと構わないと思って放ち続けたことも、本当だった。
「僕を笑った連中の顔は覚えている。そいつらが倒れたところも。けれど、それ以外は……ほとんど思い出せない」
アシュレイは拳を握ったまま、黙って聞いていた。
「この街に何人いたのかさえ、僕は知らないんだ」
「知る必要はない」
別の声が、割り込んだ。
ヴェルミリオンの目つきが変わった。
崩れた柱の向こうから、長い黒髪の男が姿を現す。
カイの身体。その目の奥にいる者は、彼ではない。
「動くな」
ヴェルミリオンは片腕を横へ出し、アシュレイを背後へ下がらせた。
「それ以上近づけば、撃つ」
レヴェリオは足を止めた。
「君と争いに来たわけじゃない」
「ネビュロスにも、そう言ったのかい」
指先に紫の光が集まる。
脇腹に痛みが走ったが、顔には出さなかった。
「タワーで僕らにしたことも、忘れたとは言わせないよ」
アシュレイは柱の陰へ移り、端末を操作した。
接触した位置を送り、視線を広場へ戻す。
レヴェリオは、ヴェルミリオンだけを見ていた。
「フロスティアでは、私を止めようとした。私は、あの子たちを傷つけた兵士を裁こうとしただけだ」
「止めたら、あの腕か。分かりやすいね」
「君まで、同じように傷つく必要はない」
「君が傷つけるんだろう。言い方を変えるな」
レヴェリオの表情が僅かに動いた。
ヴェルミリオンは腕を下ろさなかった。
「ここで、何をするつもりだ」
「君を魔王にした者たちの罪を明らかにする」
彼女は端末を掲げた。
「粛清の記録が残っていた。君を追い詰めた者たちは、君がこうなるまで何をしたのか。街が滅んだ記録だけでは、そこが見えない」
「それで?」
「君一人が怪物として語られる必要はない」
広場の両側に、誰もいない建物が並んでいる。
ヴェルミリオンはその一つへ目を向けた。
「僕の毒で死んだ連中も、その記録に載っているのか」
「粛清の対象になった者の名前なら」
「なら、それを置いて下がれ」
レヴェリオは端末を握り直した。
「何のために読むの」
「僕が殺した相手を知るためだ」
「君を追い詰めた者たちがいなければ、その人たちも死ななかった」
「僕の前で、そいつらの死に方まで決めるな」
声が低くなった。
「毒を浴びせたのは僕だ。君が何を証明しても、そこは変わらない」
レヴェリオは答えず、一歩踏み出した。
「止まれと言った」
紫の光が強まる。
彼女の目が、その指へ落ちた。
「手が震えている」
「試してみるかい?」
「その状態で戦えば、また傷を増やす」
レヴェリオが片手を上げた。
足元の砂が、彼女の方へ流れた。
ヴェルミリオンの踵が石畳を擦る。
「君は、ここを離れた方がいい」
見えない力が胸へ食い込んだ。
「……僕の返事は、必要ないわけだ」
深紫の外殻が、その身体を覆う。
《魔導外殻》。
背に開いた半透明の翅は薄く、装甲を走る魔力の光も途切れがちだった。
靴底を地面へ叩きつける。
片膝を落とし、引き寄せる力へ抗った。
「君の世話になるくらいなら、這ってでも帰るさ」
ヴェルミリオンは歯を食いしばり、翅を振った。
「《道化の舞》」
鱗粉が広がり、左右へ分身が走る。
その一体がレヴェリオの正面へ飛び込んだ。
彼女が掌を向ける。
分身の胸が窪み、紫の粒となって弾けた。
本体は反対側へ滑り込み、彼女の手首を狙った。
端末を奪う。そのまま距離を取る。
だが、踏み込んだ脚から力が抜けた。
本来なら動きを隠すはずの鱗粉も、薄すぎた。レヴェリオは迷わず振り返り、彼の腕を掴んだ。
肩の装甲が軋む。
魔力を送り込んでも、亀裂が広がる方が早かった。
ヴェルミリオンは笑った。
掴まれた腕を引くと見せて、自分から肩を捻る。
割れた外殻の一部を残して、身体が抜けた。
激痛が走る。勢いを殺せず、石畳へ叩きつけられた。
「こっちだ!」
柱の陰から、アシュレイが手を伸ばした。
ヴェルミリオンの上着を掴み、遮蔽物の裏へ引き込む。
背中を壁に預けた途端、翅が消えた。
残った外殻も、肩から剥がれていく。
「立てるか」
「……相変わらず、乱暴だね」
「文句は車で聞く。腕、回せ」
アシュレイは彼の腕を肩へ掛けた。
目の前の敵を殴りに出たい衝動を押し殺し、門へ戻る通りを見る。
その先で、砂が舞い上がった。
空気が歪む。割れた石片が浮き、道の真ん中で止まった。
レヴェリオが、広場から二人を見ていた。
「その身体を、彼一人では守れない」
「テメェが追ってこなきゃ済むだろうが!」
アシュレイが怒鳴った。
レヴェリオは答えなかった。
彼女の視線は、アシュレイの肩へ体重を預けたヴェルミリオンに向いている。
「君は、また自分を苦しめる方へ行こうとしている」
ヴェルミリオンは、血の滲んだ唇を手の甲で拭った。
差し出された手を取らなければ、道を塞ぐ。
正しいと言いながら、こちらの言葉は聞かない。
「随分と、立派な庇護だね」
笑みが、冷たく尖った。
「僕を閉じ込める檻まで、用意してくれるのかい」
レヴェリオの指が止まる。
浮いた石片は、まだ落ちなかった。
ヴェルミリオンは、アシュレイへ小さく囁いた。
「僕が合図したら、右の路地へ」
「……また無茶する気か」
「逃げ道は、よく調べたんだ」
力の残らない指を、ゆっくりと持ち上げる。
今の自分に、彼女を倒す力はない。
それでも、あの手を取るつもりはなかった。
(第7話へ続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ヴェルミリオンが恐れられたのは、毒の力を持っていたからだけではありません。自分を迫害した者も、同じように捕らえられていた者も巻き込み、街そのものを滅ぼした。さらに街を出た後、追手を人前で弄び、生かして帰すことで、自ら恐怖を広めていきました。その行為が「魔王」という呼び名を生み、彼自身も恐れられる役を引き受けました。
現在の彼は、その時に見ようとしなかった相手を知ろうとしています。一方、レヴェリオは彼を救おうとしながら、拒絶されても手を引きません。
消耗したヴェルミリオンと、生身で撤退を支えるアシュレイ。二人がこの場をどう切り抜けるか、次回へ続きます。
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