第4部 第3話『春を待つ教室』
【前回のあらすじ】
タワー崩壊後、レッドたちは自らが傷つけてきた住民の前に立ち、救護と被害記録の整理を始めた。一方、レヴェリオは、かつてネビュロスが村ごと氷に封じた故郷フロスティアへ向かう。その気配を感じ取ったネビュロスもまた、過去の眠る北へ足を向けた。
※本作品の執筆にはAIを活用しています。
ネビュロスは魔導書を閉じた。
「フロスティアへ行く。あそこには、私の弟子たちがいる」
「私も行く」
セイジが端末を手に立ち上がった。
「街の記録はエルザに引き継ぐ。君の封印を調べるなら、私にもできることがあるはずだ」
ネビュロスは頷いた。
グリムたちに街とライガの捜索を任せ、二人は使える輸送車を借りて北へ向かった。
街道を抜け、山道を越える。やがて森の向こうに、氷に閉ざされた家々が見えてきた。
フロスティアの入口で、ネビュロスは立ち止まった。
氷の向こうに、少女がいた。
広場に膝をつき、両手を腿に揃えている。その前には、倒れた男女が横たわっていた。
「……エナ」
同行したセイジが、彼の視線を追った。
「君の弟子か」
「ああ」
少女の口は、僅かに開いていた。
何を言わされていたのか、ネビュロスは今も覚えている。
*
「私の両親は、反逆者です」
十年前。
焼けた紙が舞う広場で、エナはそう言った。
父親の手は、彼女の方へ伸びていた。
母親はその腕に縋るように倒れている。二人とも、もう動かなかった。
「反逆者は、秩序を乱す者です」
兵士が頷いた。
「続けろ」
「私は……正義の兵士として、生まれ変わります」
教室で本を読むとき、エナはよく声を詰まらせた。
難しい言葉に出会うと、隣の弟リトを小突いて教えを求めた。そのくせ、リトが読み間違えると、誰よりも早く笑った。
今は一度も、隣を見なかった。
書庫の陰で、リトが身を乗り出した。
ネビュロスはその肩を掴んだ。
「姉ちゃん」
「声を出すな」
「父ちゃんたち、あそこに……」
リトの膝が震えていた。
ネビュロスの袖を握った指に、力が籠もる。
エナがこちらを向いた。
一瞬、目が合った。
リトが息を吸った。
だが姉は、知らないものを見たように視線を戻した。
「私は、正義の兵士として生まれ変わります」
今度は、詰まらなかった。
ネビュロスは少年を抱き寄せ、壁の陰へ引き戻した。
口元を押さえた掌に、熱い涙が落ちた。
*
フロスティアが奪われるまで、数日もかからなかった。
ジャスティスフェイスの前身となる組織は、まず書庫を押さえた。
魔法を教える者、書物を編む者、村の記録を守る者。彼らを名簿で呼び出し、抵抗した大人を広場で処刑した。
蔵書は山にされ、火をつけられた。
ネビュロスが炎を凍らせると、兵士たちは別の場所で本を焼いた。村人をその前に立たせ、次に抵抗すれば一緒に燃やすと告げた。
その間に、子供たちが選別された。
魔力適性の高い者から連れていかれた。
戻ってきた子供は、親の名を呼ばなくなった。
エナも、その一人だった。
彼女を見た夜から、リトは喋らなくなった。
地下の紙倉で膝を抱え、戸口を見つめている。
傍らではミナが、焼け残った本の煤を袖で拭っていた。
「もういい。目を休めろ」
ネビュロスが言うと、少女は首を振った。
「ここ、まだ読める」
頁の半分が焼けていた。
季節ごとの星の位置を記した本だった。
「先生、これの続き、覚えてる?」
「……ああ」
「じゃあ、また書けるね」
ミナは本を閉じた。
煤で黒くなった手を気にせず、胸に抱える。
「続きを書くにも、読む者が倒れては困る。今は休め」
いつもの淡々とした口調だった。
ネビュロスは小さな背中に自分の外套をかけ、開いた襟元まで合わせてやった。
残された弟子は、数人。
彼らを村の外へ出す。それだけを考えていた。
だが、村はすでに包囲されていた。
北の道にも、南の橋にも兵士がいた。人一人なら紛れ込めた林まで、夜には照明で照らされた。
そして翌日、隠していた子供たちの存在が知られた。
*
「対象児童を引き渡せ」
外から声がした。
ネビュロスは教室の入口に氷壁を張り、弟子たちを窓から遠ざけた。
銃撃が始まった。
氷の表面が削れ、白い欠片が頬を打つ。
裏口を開けると、隣の書庫が燃えていた。
屋根を渡ってきた炎が、教室の庇を舐めている。
氷で塞ぐ。
入口の壁が割れる。
補強する。
今度は天井から煙が落ちてくる。
何度計算しても、逃がす道がなかった。
ミナが咳き込んだ。
リトはその背中をさすっていた。指先が震え、うまく動いていない。
あの子たちにも、あの言葉を言わせるのか。
ネビュロスの脳裏に、エナの顔が浮かんだ。
父母の遺体を前にしても、泣くことさえ許されなかった弟子の顔が。
入口の氷に、深い亀裂が走った。
ネビュロスは魔導書の末尾を開いた。
指が止まる。
――生ある者に施すべからず。
術式の上に記された一文が、目に入った。
凍らせて動きを封じる魔法ではない。
命を、その時間ごと閉じ込める禁術。
殺さずに済む。
だが、いつ生きる時間を返してやれるのか。
「先生」
リトが袖を掴んだ。
「姉ちゃんも、助けてくれる?」
ネビュロスは少年を見た。
その向こうで、ミナが咳き込みながら本を抱き締めていた。
広場にはエナがいる。
村には、ほかにも奪われた子供たちがいる。
教室だけを封じても、残された者たちは連れていかれる。
ネビュロスは術式の範囲を広げた。
教室から書庫へ。広場へ。村を囲む外壁まで。
兵士も巻き込む。
逃げ遅れた住民も。
その全ての時間を、自分一人の判断で止める。
魔導書を押さえる指が震えた。
入口の向こうで、氷の砕ける音がした。
ネビュロスはリトを胸へ引き寄せた。
ミナの肩を抱き、ほかの弟子たちにも手を伸ばす。
心を殺されるくらいなら。
誰かを傷つける兵器にされるくらいなら。
たとえ、いつ覚めるとも知れない眠りでも。
「……すまない」
誰に許しを求めたのか、自分でも分からなかった。
唇だけを動かし、最後の術句を結ぶ。
《時葬氷獄》。
魔導書の文字から、色が抜けた。
足元に霜が降りる。
それは音もなく床を這い、子供たちの靴を白く覆った。
「先生、寒い」
ネビュロスはミナの手を握った。
温めてやることは、できなかった。
リトの指から力が抜ける。
ミナの咳が、途中で途切れる。
胸に寄せた小さな身体から、鼓動が伝わらなくなった。
ネビュロスは術式を確かめた。
命は消えていない。
次の一拍へ進む時間だけが、閉ざされていた。
入口の氷壁が破られた。
踏み込んだ兵士が銃を上げる。
引き金にかかった指を、薄い霜が覆った。
その指が曲がるより先に、冷気は戸口を越えていた。
*
村を見下ろす丘に、近隣の住民たちが集まっていた。
煙を見て駆けつけた者。
親類を案じて来た者。
兵士に追い払われ、遠くから見ていることしかできない者。
彼らの前で、フロスティアの音が消えていった。
教室の周囲が白く曇った。
その白さが道を伝い、家々の壁を覆っていく。
風も衝撃もなかった。ただ、通り過ぎた場所から、何も動かなくなった。
逃げる兵士の脚を捉えた。
振り向いた顔も、叫ぼうと開いた口も、そのまま透明な厚みに埋まった。
門へ走っていた荷車が止まった。
馬の前脚が宙に上がったまま固まる。
御者が伸ばした鞭の先まで、氷に変わった。
火の粉が落ちなくなった。
悲鳴が途切れた。
丘にいた男が、握っていた縄を落とした。
音を立てたのは、それだけだった。
村一つが、巨大な氷塊に閉ざされていた。
薄く透ける奥に、幾つもの人影があった。
銃を構える者。
誰かに縋る者。
地面に伏した者。
誰も動かなかった。
「……中に、子供が」
女が言った。
凍りついた教室の壁が一部崩れ、その向こうに小さな影が見えた。
本を抱いた少女。
身を寄せ合う子供たち。
その真ん中で、一人の男が立ち上がった。
長い蒼白の髪。
裾から霜を落とすローブ。
片手に開かれた魔導書。
「……ネビュロス先生?」
丘の男が呟いた。
その名に、隣の女も顔を上げた。
近隣から本を借りに来る者にも、教えを求める者にも、彼はよく知られていた。
愛想はない。説明は厳しい。それでも、子供の質問を途中で切り捨てることのない教師だった。
「あの人が……?」
女は、凍った教室へ目を戻した。
「だって、あそこにいるのは、先生の……」
教え子たちだった。
ネビュロスが歩くと、氷が道を空けた。
銃を構えた兵士の脇を抜け、倒れた人影を越えてくる。
泣きもせず、取り乱しもせず。
あの教室で本を開いていたときと同じ、静かな顔をしていた。
「先生! 子供たちはどうなったんだ!」
男が呼びかけた。
ネビュロスの足が止まった。
魔導書を押さえる指に力が入る。
弟子たちの命は、まだそこにあった。
一人ずつ確かめ、封印の綻びを塞ぐ。その手を、今は止められなかった。
返事はなかった。
男には、その沈黙の理由が分からなかった。
知っている顔なのに、何を考えているのか分からない。
「……自分の生徒まで、凍らせたのか」
口にしてから、男は後ずさった。
生徒を大切にしていた、あの教師が。
その生徒さえ氷に閉じ込め、顔色一つ変えずに立っている。
ならば、自分たちには何をする。
ネビュロスが丘の方を見た。
女が息を呑み、隣の者の袖を掴んだ。
逃げ出した子供を、誰も叱らなかった。
「悪魔だ……」
誰かが呟いた。
男は否定しようとして、声を出せなかった。
目の前には、村一つを呑み込んだ氷があった。
やがて、噂が村々へ届いた。
フロスティアの教師、ネビュロスが村を滅ぼした。
兵士も住民も、幼い教え子さえも凍らせた。
彼を知る者は、初めは信じなかった。
だが、故郷と教え子まで手にかけたという話は、やがて彼の冷酷さを示す証として語られるようになった。
凍った村は、その噂を否定しなかった。
翌日も、その次の季節も、誰一人として帰ってこなかった。
噂を聞いた者たちは、ただの魔術師の仕業とは考えなくなった。
人も、軍勢も、一つの村さえも。
命乞いの声ごと封じ、巨大な墓に変えてしまう者。
いつしか、人々はその男を――氷の魔王と呼んだ。
(第4話へ続く)
【後書き】
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、ネビュロスが「氷の魔王」と呼ばれるようになった過去を描きました。
普段は冷静で、言葉も厳しい彼。それでも、生徒を思う気持ちは、ミナにかけた外套や、最後まで握った手に表れていたのではないでしょうか。
守るために踏み越えた禁忌《時葬氷獄》。その選択は、事情を知らない人々の目には、教え子さえ巻き込んだ残酷な行為として映りました。
そして十年後。再び故郷に立ったネビュロスは、止めた時間とどう向き合うのか。次回も見届けていただければ嬉しいです。
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