第三十話 雪解け
一部残酷描写を含みますので、苦手な方はご注意下さい。
―――リンッ……と鈴が鳴った。
『エン、雪割草を摘んできてくれる?』
その日の母親は、やけに機嫌が良かった。
少年の頭を撫でながら、優しく問いかけた。数か月ぶりに見る穏やかな表情、まろやかな声音。
―――お母さん、雪割草が咲くのは春になってからだよ。
そう、言えなかった。母の顔を曇らせ、歪ませ、また罵られることが怖かった。
雪割草の自生する裏山が、子供一人で足を踏み入れるには危険な場所だと言う事も分かっていた。しかし、少年は答えた。
「分かった、お母さん、僕が雪割草を採って来てあげる」
母の言葉の裏に隠された意図に気付いてもなお、少年にはそう答えるしかなかった。
だって、普段自分に無関心か、邪険にしか扱わない母が自分に微笑んでくれたのだから。
それがどういう結末に繋がっていても―――。
―――秋から冬に変わるこの時期は、早くも山間部ではしばしば雪が降る。幸いその日は比較的暖かく、少年は使い古された蓑を羽織り、山へ向かった。
『おぉい、エン坊、どこ行くんだ?』
村の男の一人が、村の外れを歩く少年に声をかけた。
『こんにちは、おじさん。雪割草を摘みに行くんだ』
『雪割草だぁ?お前、ありゃ春にならんと咲かんだろ。今行ったって何もないぞ』
「分かってる。でも、お母さんのお願いごとだから……雪割草はなくても、もしかしたら山菜とか、別の花があるかもしれない。今日は暖かいから』
まるで、自分に言い聞かすようにエンは山に行く理由をもっともらしく並べた。
『……。……そーかい、気をつけて行くんだぞ』
健気に笑った少年に、男は憐れむような視線を送った。しかし、それ以上止めることはしなかった。
『……可哀そうになぁエンのやつ。口減らしだと分かってるだろうに、あの母親のために山に行くのか」
村の習わしでは、山には大人3人以上で入るよう定められている。山の恵みを誰かが独り占めしないように互いに監督し合う目的と、何より安全のためだ。山は道も迷いやすく、野生の獣も多い。まともな大人なら子供一人で山に行けなどと言うはずもなかった。
だが同時に、十分な作物を育てることの出来ないこの村のような貧しい地域では、食いぶちを減らすために老人を山へ置き去りにしたり、女子供を吉原に売ると言う事も珍しいことではなかった。
「あいつも飢えて死ぬのか、凍えて死ぬのか……あるいは。……貧しい村に生まれちまったら、しょうがねぇやな」
小さくなっていく少年の姿を見ながら男は誰に聞かせるでもなく呟いた。
―――母が自分を厄介払いしたことを、少年は分かっていた。
冷たい地面に横たわりながら、少年ははらはらと涙を流した。ギチッ……グツッと不快な音を鳴らしながら、自分の身が裂かれて行くのを自覚していた。
少年を食らっているのは、野生の狼だ。山に入って間もなく襲われた。痩せた狼は、久しぶりの獲物にありつけたのか、荒々しい息を吐きながら少年の腕に、脚に、腹に牙を立てかぶりつく。
大量の出血で意識を失いそうな激痛の中、少年はか細い声で、母を呼んだ。
「お……かあ、さん……どうして……僕を、愛してくれなかったの……?」
少年の手には、その血と同じくらい鮮やかな紅い椿の花。雪割草の代わりに、少年が見つけたものだ。
「おかあ……さん、痛いよ……寂びしいよ……」
朦朧とする意識の中、少年は訴える。厚い雲に覆われた濁った空から、真っ白な雪が、ひらひらと振り始めた。冷たい感触が、少年の頬にも落ちて来た。
「おかあさん……僕の名前を呼んでよ……」
雪に狼も気づいたのか、それともすでに十分食らったと思ったのか、一度遠吠えをすると、少年から離れていく。
獣ですら、家族の棲むねぐらに帰って行くと言うのか。
「僕の名前、は……×××だよ……」
……―――これほどまでに悲しく、胸をしめつける情景を見たことは無いと、瑞希は思った。
いつもの夢だ。それは分かっている。しかも夢を通して自分が見ているのは、他人の心象風景なのだ。それゆえに瑞希はそこに触れることも、声を掛けることもできない。
だが彼の気持ちには、まるで直接パイプが繋げられているかのようにその悲しみと絶望の深さがダイレクトに伝わって来た。
『行かなきゃ……』
無意識に、そう呟いていた。
『どこに?』
瑞希の呟きに反応したのか、間近で声が返って来た。姿は見えない。だがその声の主は自分にとって温かな存在であると瑞希は疑わなかった。
『迎えに。きっと……あの子今も一人ぼっちで泣いてるから』
『じゃあ、待ってて。アタシも行く。二人であの子を助けてあげよう』
(また、あいつ眠りモードにはいってやがる)
悠人は授業中また席で眠り込んでいる瑞希を横目に眺めていた。辛うじて学校には毎日来ているものの、この数日の瑞希はまともに意識がある方が珍しいんじゃないかというほど不安定な状態だった。いつも眠っているか、ぼうっとしているか、別人格のような『男』になっているか。
最初は授業中の居眠りに腹を立てていた教師達も、瑞希の様子があまりにコロコロ変わるために精神の病でも疑っているのか、腫物扱いで次第にあまり指摘しなくなった。クラスメイトらも同様だ。今の瑞希とは関わり合いたくない、そんな態度が見え隠れしている。今や瑞希に話しかけるのは、自分か同じクラスの女子、翠くらいだ。
理科室で見た、狼の耳と尻尾をつけた10歳くらいの少年の姿をした神が今も瑞希に何か悪い影響を与えているのは分かっている。瑞希のために何もしてやれない自分が歯がゆかった。
その時。
(……ん?)
一瞬、見慣れた教室が、時代劇に出て来そうな農村の風景の様に見え、悠人は目を瞬いた。
(幻か……?)
悠人は目をゴシゴシ擦り、もう一度周囲を見回す。うん、普通の授業風景だ。だが―――。
(瑞希……!?)
瑞希にもう一度視線をやった時、幻ではなかったと悠人は確信した。机にうつ伏せて眠っている瑞希の体がぼんやりと白い光に包まれ、そこから蜃気楼のような靄が広がり始めていた。それはまるで、以前理科室で杏奈がおかしな状態になった時と同じように。
「瑞希……!」
悠人は思わず立ち上がった。ほぼ同時にクラスメイト達もなにか異変を感じとったのかざわめきだす。
「な、なにっ!?」
「なんだいきなり!?ここ、教室だよな!?どっかの山ん中みたいになってるぜ!?」
「山っつーか、村!?」
「雪が降ってる!?まだ10月だよな!?」
白い靄を通して見える昔の田舎のような光景は現実味がなく、まるで映写機でスクリーンに映し出された映画か蜃気楼に浮かび上がる幻のようだ。
悠人は大股で瑞希の席まで歩み寄り、その背中を揺さぶった。
「瑞希、瑞希、起きろ!!この幻はお前の体の事にも関係してんだろ!?」
「……ん」
必死に呼びかけると、瑞希は薄目を開け、反応した。その顔色は血の気が無く青白い。
「瑞希……!」
瑞希が目を覚ました途端、靄がすうっと薄れ、いつもの教室に戻る。しかし生徒達は何が起こったか分からず相変わらずパニックになっている。
瑞希は今も朦朧とした様子ながら、周囲を見回し、悠人に問いかけた。
「悠人……もしかして、今」
「ああ。杏奈の時みたいにお前の体から白い煙が出てそれが教室に広がった時、変な幻が見えた。なんか昔の村みたいな映像だった」
「昔の村……あたしが夢で見たのと一緒だ」
瑞希は立ち上がり、悠人にしがみついた。
「悠人……!お願い、あたしを裏山の社まで連れてって!たぶん、そこにあの子は、エンはいる!」
「瑞希……!?」
「頼むよ。あたしの意識がはっきりしている内に、行かなきゃ!悠人はあたしがまた眠ってしまわないように見てて!」
「分かった!」
悠人は頼まれるまま瑞希の手を握ると、二人で教室を飛び出した。瑞希は悠人に手を引かれながら、二人がうんと小さかった頃はよくこうやって遊びまわっていたことを思い出した。
あの頃の『好き』という気持ちはまだ恋とか友情とかの区別はなかった。ただ悠人が特別な存在で、大切な気持ちがあった。それは時を経た今も変わらない。
「……悠人、ありがと」
「……え?なにが」
「今度はあたしを信じてくれただろ。あたし、心がまた弱ってた。そこをエンに付け込まれた。でも、悠人があたしに呼びかけてくれて、なんとかギリギリ自分を保てたんだ」
「瑞希……当たり前だろ!俺達は親友なんだから!ダチを見捨てるかよ!」
「……うん」
ギュッと力を込めて来た瑞希に、悠人は思わず一度立ち止まり、瑞希をしっかり見つめ返した。やっとこの数ヶ月、いや思春期を迎えてから二人の間にあったわだかまりが雪が解けるように消えてなっていくのを実感した。
「瑞希……今度こそ、俺達の友情はもう絶対に壊れないって、永遠だって誓うよ」
「悠人……!うん、あたしも誓う。この友情は、絶対不滅だ」
一瞬揃って泣き笑いのような表情を浮かべた後、頷き合い、二人はまた走り出した。




