第二十九話 光明
―――暗闇の中を瑞希の意識は彷徨っていた。
(玲……玲……どこ?)
自分の心の声に呼応するように、不安感と寂しさが増していく。
(玲、どうして急にいなくなっちゃったの?会いたいよ……会いたいよ……)
まるで母親を求める幼子のような頼りなさでゆらゆらと揺らめく瑞希の意識を、ふいにふわっと何か温かなものが包む。
『瑞希……落ち着いて、アタシはアンタの傍にいるから』
『玲!?どこ?……姿が見えないよ?』
実体がある訳でもないのに、瑞希はキョロキョロと周囲を見回した。空間はただただ闇が広がるばかりで、何も見えない。
『大丈夫よ、瑞希。……ここはアンタの精神の深淵、アンタの魂を織り成す源ね。アンタの魂に干渉する以上、エンも必ず繋がっているはず……』
『エン……?魂に干渉?……もうそんなことどうだっていいよ!それより玲が傍にいてくれよ』
縋りつくような瑞希の声に、姿の見えない玲が困ったようにため息をついた気がした。
『駄目よ、瑞希しっかりして。干渉されて、書き換えられたアンタの魂は、もうアンタと同一の存在じゃなくなるのよ。そんなこと、アタシが絶対にさせやしない。瑞希、アタシを信じて。何より……自分を信じて』
『自分を……?』
『どんなことからも、目を背けないで、自分の目で見て足で立ち向かって。アンタ変わりたいって言ってたじゃない。人に無理矢理変えられるのと、自分で勇気を出して変わるのは、全然違うのよ』
玲の声は次第に力強さを増していく。
『そうだ……あたしは、変わるって、どんなことも受け止めていくって決めたんだ。逃げてばかりの自分が、嫌だから』
『そうよ……!アタシもアンタにそれを教わったのよ。だから、瑞希アンタも変われる……ほら、『鈴』の音に耳をすませて……『鈴』が真実に導いてくれるから』
『『鈴』…………?』
―――リンッ……という音が鳴った瞬間、真っ暗だった視界に新しい情景が広がった。
古く、薄暗い日本家屋の中、一人の少年が母親らしき人物に一生懸命話しかけていた。
『お母さん、僕、ちゃんと結と契に重湯を飲ませたよ。その後、ちゃんと箒で土間を掃いて、釜戸の灰も片付けたんだよ。ねぇ、今日はずっと家にいてくれるんでしょ?』
『うるさいね!』
母親は叫ぶと、少年の顔を平手打ちした。
『まったく口の減らない子だよ……そうやって纏わりついて来るところとか、死んだあの人にそっくりだね!気ばかりよくて、体はてんで弱くてすぐおっちんじまったのに、お前みたいなお荷物だけ残しやがって』
『お、お母さん……』
少年の顔が、悲しみに歪む。その真ん丸の漆黒の瞳に、涙が浮かんだ。
『今日はアタシはあっちの家に行くよ!双子も生まれたんだから、ちゃんと責任とってもらわなきゃねぇ!……ったく、前の死んだ亭主との子供がいなけりゃ話はもっと早かったのに』
あっちの家、と聞いて少年は母親が今夜今の恋人のところに行くんだと理解した。
少年の父親が流行り病で死んで以降、少年の母はすぐに新しい恋人を作り、双子をもうけた。母親の役割よりも、女としての自分の生きがいを重視するような人間だ。それでも少年は、母親が好きだった。
『エン!しっかり結と契の面倒を見ておくんだよ!』
捨て台詞を残して、母親は家を出て行く。ぶたれた頬を押さえながら、少年は母親の後姿を見送った。
『お母さん……僕の名前はエンじゃないよ、僕の名前、忘れちゃったの……?』
少年の白い頬に次々と大粒の涙が零れ落ちた。
―――リンッ……リンッ……
すぐ近くから見守っているのに、瑞希は少年に手を差し伸べて上げることが出来ない。声を掛けてやることすら出来ない。
見ていて胸がつぶれそうなほど切なく苦しいのに、まるで幻のようにその姿に触れることが叶わなかった。
―――悠人は、学校を出てすぐに玲の自宅だと話に聞く葦原崗神社に向かっていた。
学校で倒れた瑞希を保健室に運んだ時、養護教諭の夏目淑乃が事情を察したのかすぐにベッドを貸してくれた。そして今の瑞希の様子がおかしいのは玲が瑞希に渡したパワーストーンのブレスレットのせいかもしれないと告げた。旦那が葦原崗神社の事務方で働いていると言っていた淑乃は、ブレスレットが何かの呪いの道具であること、そして玲が神社の道場に何日も籠っていることを悠人に教えてくれたのだった。
葦原崗神社の裏門に回り、住居部分になっているらしい和風の建物の家門の呼び鈴を押した。
しばらくして、立派な木製の引き戸を開けて出て来たのは、袴姿の30前後の若い男だった。淑乃の旦那だという人物かもしれない。
「はい、どちら様でしょうか?」
「俺、片山と言います。斎君と同じ高校の同級生で、今日は斎君に用事があって来ました」
悠人が用件を言うと、その男は困ったような顔をした。
「ああ、玲さんのお友達ですか。……うーん、参ったなぁ、今は玲さん誰ともお会いできないんですよ」
「体調悪いんですか?もうずっと学校休んでるみたいですけど」
「ああ……いや、まぁ、そんな感じですかねぇ……?」
曖昧な男の返答に悠人は苛立ちを覚えた。
玲が体調不良でなく、瑞希に関係することでずっと姿を見せないでいるんだと直感した。次の瞬間、男を押しのけ、悠人は家の内側に入った。
「あっ!?ちょっと!君!!」
「斎!斎!!俺だ、片山だ!!話がある、出てこい!!」
勝手に入り込んで大声で騒ぎだした悠人に、男はぎょっとして悠人を止めようと前に立ちふさがる。
「こら、君、失礼だろう!他人様の家に勝手に入ったりして」
「どいて下さい、俺、どうしても斎と話さなきゃいけないんです!」
「困るよ!玲さんは今大事な儀式の最中で、集中力を妨げては……!」
「―――夏目さん、大丈夫、片山君を放してあげて」
「斎!?」
玄関から入ったところで悶着する二人を、ふいに制止する声が上がった。建物の外廊下から着物姿でこちらを見つめる玲の姿がそこにあった。
「玲さん!?出て来て大丈夫ですか?『夢渡りの儀』でお疲れじゃ……」
玲の登場に驚いた様子で夏目が声を掛けると、玲は「大丈夫」と繰り返した。
「……久しぶりだね、片山君。もう学校には出られるようになったんだ?」
「お前っ……どうしたんだよ、その姿!!」
悠人は玲の姿を見て、驚愕した。
昔の平安時代の貴族のような着物を着ているのは、ここが神社の一角であるということからそこまで気にならない。だが悠人が10日ぶりに目にした玲は、頬がこけ目元もすっかり憔悴し、見るからに疲れ果てた様子だった。
「別に……これくらいどうってことないわよ」
駆け寄って来た悠人に、玲は気だるげな様子で烏帽子を整えるような仕草をした。女言葉を使いなよなよとした印象の強かった玲なのに、今は鋭利な刃物の様な張り詰めた緊張感を放っている。
「それで?どんな御用?川口さんはどうなったの?」
「杏奈は、意識も戻ったし、学校にも行ってるみたいだけどもう連絡はとっていない。それより、お前こそ、瑞希のことはどうしたんだよ!今日久しぶりに学校行ったら、瑞希の様子がおかしかったぞ!?まるで本当に自分を男だと思い込んでるみたいだった。喋ってても、瑞希だけど俺の知ってる瑞希じゃないような感じだった」
「……ふぅん、そう」
悠人の説明に、玲は少し考えるような仕草をしたものの、特に驚いている様子ではない。淡泊なその反応に悠人は再び苛立った。
「俺が瑞希を問い詰めると、あいつ、ますます様子がおかしくなって、自分でも自分のことが分からないような感じだったんだ。そんで、俺があいつのブレスに触ろうとした時、あいつぶっ倒れたんだよ!なぁ、斎、お前だろ?あの変なブレス瑞希にやったの!一体お前何したんだよ!!」
悠人に詰め寄られ、玲は不愉快そうに顔を歪めた。
「心配ないわ。あれはお守りよ。瑞希が一時的に自我が曖昧になるのはエンを引きずり出すため罠を仕掛けてるのよ。ブレスはその安全装置って訳。…ってか、今さらアンタに瑞希のことでごちゃごちゃ言われたくないわよ!瑞希のこと散々傷つけたくせに!」
相手にしてられない、とでも言うかのようなその態度に悠人は思わずカッとなった。
「う、うるさい!お前こそ、瑞希を絶対に守るって、瑞希を女に戻してやるって息巻いていただろ!!お前なら瑞希を何とかしてやれるってお前を信頼して瑞希を任せたのに、真逆になってんじゃねーか!!」
「それは……!でも……」
「俺はっ!俺じゃ駄目だと思ったから身を引いたんだ!本当は俺があいつを守りたいのに、俺には何もできないっ!!」
その悠人の言葉に、玲は一瞬で表情を変えた。
「……ふざけるな」
低く唸るようにそう呟くと、力任せに悠人の首元のシャツを引き寄せ、締め上げた。少し離れたところから、夏目が心配そうな様子で二人を見守っている。
「守りたいなんて良く言えるよな……!瑞希に何度も背を向けたくせに!」
「何だと!?俺だってあいつのためになにか出来るならやってやりたいよ!」
「違う!!」
至近距離で睨まれてもひるまずに怒鳴り返した悠人に、玲は負けないほどの大声で叫んだ。
「……何が出来るか、じゃないんだよっ。好きな子のために自分がどれだけのことをやるかなんだっ!!」
「……!!」
真剣に怒りに満ちた表情で自分を睨み付けて来る玲に、悠人は動揺した。強い光を放つ瞳が憔悴した姿に一層凄みを増し、ただならぬ気迫を放っていた。
「……やっぱり君には、瑞希は渡せないな。瑞希の傍には僕がずっといる。僕が、瑞希を守る」
乱暴に悠人のシャツの襟を離すと、玲は冷酷に言い放った。
「―――玲さんは少し仮眠を取った後、また『夢渡りの儀』のために道場に籠られてしまいました」
「……そうか」
夏目の報告に、玲の父は厳しい表情で頷いた。
「心配です……最低限の食事と睡眠以外はこの10日間昼夜を問わず、儀式に集中されていて……。体に良くないのはもちろん、危険な術ですし玲さんの精神への負担が計り知れません」
「……分かっている。だが、止めても無駄だろう。既にあの子は自分を犠牲にしても構わないと覚悟を決めている」
10日前、腕に怪我を負った状態で授業を放棄して学校から帰って来た玲は、突然これから『夢渡りの儀』のためにしばらく道場を使うと宣言した。そのことを聞いた時、夏目は耳を疑った。『夢渡りの儀』とは、斎家に古くから伝わる呪い破りの技法だ。最大限霊力を高めた術者が、その魂を飛ばして悪霊や妖に囚われた人間の潜在意識に入り込み、直接働きかける。媒介を通さないために、霊力を弱めることなく相手の術に介入することが可能だが、返り討ちに遭えば魂そのものが傷つく。あまりにも術者への心身に負担が大きいため、実質的に禁忌とされている技である。
当然夏目は大反対したが、玲の決意は固く、それどころか夏目の妻淑乃を通して瑞希に護符代わりの『夢魔の鈴』を渡して欲しいと頼んで来た。その鈴は玲が『夢渡りの儀』で瑞希の精神世界に直接干渉するために、瑞希の精神への負担を軽減し、彼女に憑いている者へ玲の力を誘導する役割を持っていた。夏目は玲の父にも玲を止めるよう訴えたが、玲の父は息子の決定を認めた。
「どうにか出来ないのですか……!10日もあんな危険な儀式を行っても調伏出来ない怨霊なんて、もう人の手には余る存在です!『天つ国の方々』も放ってはおかないでしょう。直接手を下されるのを待てばいいんじゃ……」
「それではあの少女が救われることは無いだろう。『天つ国の方々』が今回のことを排除すべきと判断されれば、あの少女も自然の摂理に背く者として同じく処分されるはず。玲が命を懸けているのは彼女のためであるゆえ、それでは玲は納得すまい……」
夏目は何度か玲が連れて来た男子高校生のことを思い浮かべた。
今は身体的に男子になっているが、実は邪な存在に性別を変えられた女の子だということは聞いている。人付き合いに慎重で、他者と一線を引く玲が自室に連れて来るなんてほとんど初めてのことだった。玲にとって、その少女がどれだけ大きな存在かは夏目にも想像に難くなかった。
「どうにか……どうにかしてあげられないんですかね……これでは、あんまりです」
「悲観するのはまだ早いだろう。玲の霊力はこれまでになく、高まっている。以前は『陰』に偏っていた玲の魂は今、丁度『中庸』に差し掛かっている。『陰』の性質と『陽』の性質を限界まで高めることで、術者として最高の域にまで達している。これだけの霊力であれば、『天つ国の方々』にすら匹敵するかもしれない」
「それほどに……!では、それほどの力を以てしても未だ調伏出来ていないのはどうしてなのですか!?」
夏目の質問に、玲の父は沈痛な表情を浮かべ、目を伏せた。
「おそらくは……その者の真の正体を掴み切れておらんのだろう。それが取るに足らない木霊や精霊の類であろうと、念の強い怨霊であろうと、調伏にはそれが元はどういう存在であったかを知り、『真名』を名乗らせることが出来なければどれだけ高い霊力をもってしても直接ねじ伏せることは叶わぬ」
「『真名』ですか……」
「ああ。名はその存在を表すもの。魂あるものは名によって縛られる。あの少女も自らの名乗らなければ、邪な術に嵌ったりはなかったであろうにな……」
夏目ははぁ、とため息をついた。小さい頃から面倒を見て来た玲の幸せを願わずにはいられない。少しだけ普通の男の子よりも繊細で女性的な性質を持つがゆえに一般社会だけでなく家族内でも孤立していた玲。長年の確執からようやく父とも雪解けはじめ、親子らしさを取り戻しつつあるのに……。
「上手くいって欲しいです。玲さんが、玲さんのままで笑っていられるように。もっとお友達をたくさん連れて来てもらえるような世界になればいい」
「……うむ。そうだな……今度、別れた妻にも連絡を取ってみるか……」
「……!はい、是非!」
遠くに視線をやりながら小さく呟いた主に、夏目は表情を明るくした。
たぶん、次回投稿分で完結すると思います。宜しければあともう少し、お付き合い下さい。




