第二十三話 着火
―――放課後、瑞希は玲と屋上にいた。昨夜の夢と、悠人の記憶について玲にも相談しようと思ったのだ。
「……ふぅん、アイツ、アンタの夢にも干渉してるんだ。気になるわね、エンの言う『完全な契約の履行』って……これ以上何をする気かしら」
瑞希の話を聞いて、玲は秀麗な眉をしかめた。細い指をほくろのある口元に当てて考え込む姿が、今は女装している訳でもないのにやけに色っぽく、何故か瑞希はドキマギするのを感じた。
「瑞希、大丈夫?何ともない?」
「……っ!!だ、大丈夫っ、ぜんぜん、何ともない!!」
心配そうに瑞希に顔を近付けて来た玲に、週末のキスを思い出してしまい瑞希は大げさに首を大きく振った。そんな瑞希に玲も何か思い出したのか、ハッとしたようにすぐに離れコホン、と咳払いをした。
「……そう?ならいいんだけど、何か異変を感じたらすぐに言うのよ?……それより、やっぱりエンの正体、気になるわ。ただの神齢200年くらいにしては色々出来過ぎるのよ。アンタの性別を変えたり、アンタに関係する不特定多数の人間の記憶を操作したり、夢に干渉したり……いくつもの畜生霊や妖怪とも混ざってんじゃないかしら?」
以前も感じた疑問を、玲は再び口にした。『天つ国の方々』へ立てたお伺いの返事は未だない。出雲で大集会を開いているであろう『方々』にまだ伝わっていないのか、それとも彼らの中でも結論に達していないのかもしれない。
「……そう言えば、記憶の操作のことでちょっと気になることがあったんだ」
「何?気になることって」
「今日、あたし夢見が悪かったせいで午前中体調悪かったんだ。そしたら、悠人があたしに気付いて声かけてくれたんだけど、その時痛み止めをくれたんだよね」
「へぇ、片山君優しいじゃない。でもそれが何なの?」
「その薬、あたしが女の時に生理が重いこと知ってた悠人が、毎月用意してくれてたやつと同じだったんだ。『そろそろだろ』って渡されて……男のあたしに生理なんてないのに。でも悠人自身も、習慣的に準備してただけで、何のために持っていたのかはっきり認識してないみたいだった」
「瑞希、それって……」
瑞希は曲げた両膝をギュッと抱き込み、身体を小さく丸め込んだ。
「……悠人の中に、まだあたしが女だった頃の記憶が残ってるのかもしれない」
「それってすごい発見だわ、瑞希!」
玲は瑞希の肩を大きく揺さぶった。ぱあっと表情を明るくした玲に瑞希は何のことか分からず目を白黒させた。
「やっぱりエンの技って寄せ集めの混ざりものなのよ!!」
「え?え?どういうこと?ごめん、分かんないんだけど……」
玲にがくがく肩を揺さぶられながら瑞希は質問を投げかけた。玲は見かけによらず力が強く頭がボーっとして来た。
「記憶は書き換えられているんじゃないのよ!たぶん幻覚か催眠術のようなもので思い込まされているだけなんだわ!きっと狐霊の妖術ね。精神との結びつきの強い記憶を書き換えるなんて、高位の神でも簡単に出来ることじゃないもの!それに夢への干渉も獏の力かも……他にも何か人間の欲望を増幅させるような術も持っているに違いないわ」
「玲、ぜんっぜん分かんない」
「つまりね、エンは色んな魑魅魍魎の寄せ集めの核となる神霊である可能性が高いってことよ。くっついているそれぞれは取るに足らない低級霊ばかりよ。生きている人間に悪さなんてせいぜい脅かすくらいしか出来ないくらい脆弱な存在よ。でもエンという核に結合してそれぞれの力が掛け合わされて強大で異質なつぎはぎの化け物が出来上がったのよ。問題は主神格となっているエンがどうして数多の神霊をマグネットのように引き込んでいるかね。その関係性さえ断ち切られれば、力をぐっと弱めることも出来るだろうし、そしたらアイツのかけた術にアタシが干渉して解くことも可能なはずよ!」
いつになく鼻息荒く捲し立てる玲の説明に、戸惑いながら聞いていた瑞希。玲の話は難しくて全部は頭に入って来ないが、玲が最後に行ったエンの術を玲が解く、という言葉の意味だけは理解出来、瑞希はハッとした。
「それって、女に戻れるかもってこと……?」
「かもじゃないわ!絶対にアタシがアンタを女の子に戻してあげる!!」
「……」
力強く断言し、瑞希の両手を握った玲。瑞希は何故か胸の奥がざわつくのを感じた。
(女に……戻りたい。でも、そしたら玲とは?玲との関係は変わっちゃうのかな)
物心つく前から精神的に女だと自覚し、女性になりたいと考えていた玲。元に戻すだけと言えど、自分だけが女になることは玲への裏切りのようにも感じられた。お互いに精神は女でありながら男の体を持つという特殊な共通点が二人にあって、その秘密の共有が他とは違う強い絆で結んでいることも確かだった。
「瑞希?どうしたの……?女の子に戻れるの嬉しくないの?」
「あたしが、女に戻っても、変わらないで仲良くしてくれる?」
「……え?」
「だって、あたしが女に戻ったら玲だけが心と体のギャップに悩むことになる。玲に助けてもらってばかりなのに、あたしは玲を女の子にしてあげることも出来ないし、何も返せない。あたしがただの女の子になっちゃっても、あたし玲の友達でいられるのかな?」
上手く言葉にならない。自分でも何を言っているのか分からない。ただ、この異常な状態が自分達二人を互いに唯一無二の特別な存在にしてくれている。元々他人と一線置いている玲が、自分を友達と認識してくれているのは、他では共感してもらえない孤独感を互いに埋め合わせられたからではないのだろうか?自分がただの人になってしまったら、またその他の存在と遠ざけられはしないだろうか?
「瑞希……?」
不安そうに問いかけて来た瑞希の潤んだ瞳に、玲はギクッと体が強張るのを感じた。
ああ、まただ。これはいけない。
また、瑞希を可愛いと、愛おしいと感じてしまっている。
どう考えてもこの感情は友情を越えている。
今の自分は友達を助けたいんじゃない、誰よりも特別で大切な子を守ってあげたい、他の誰でもなく自分が力になりたいと思っている。
二人だけの今の関係性を変えたくない気持ちは、玲の方が強い。でも、それ以上に『友達』のままでいたくない。出来るなら、『君』と『異性』になりたい―――。
(……え!?)
浮かんで来た自分の想いに、玲は愕然とした。また、気づいてはいけないものを自覚してしまったと感じた。二人の詰め切れない距離が、歯がゆくて、もどかしくて、切なくて―――この、気持ちは。
「―――何やってんだよ!!!」
そこに、割って入る存在がいた。
怒りを含んだ声がビリビリと空気を震撼させた。ドタドタと乱暴に足音をさせながら、声の主は足早に二人に近づいて来た。反射的に瑞希と玲は握り合っていた両手を離した。
「は、悠人!?」
滅多に見ない、怖い顔をして突然現れた幼馴染の姿に瑞希は仰天した。その瑞希に近づくなり悠人は腕を引っ張り上げて立たせた。
「斎、お前、瑞希に何してんだよ!変なこと吹き込むなよな、お前のせいでこいつずっとおかしくなってんだろ!!」
「ちょっ、悠人、急に何言ってんの!?玲に変な言いがかりつけないでよ!」
凄い形相で玲を睨み付ける悠人に、瑞希はギョッとして思わず反論した。何を怒っているのか分からないが、どうして玲を責められないといけないのか。
「片山君、落ち着いて」
「うるさい!!……なんなんだよ、お前ら。どうして男同士で見つめあっちゃってんの?なんで手なんか握ってんだよ!?そんなんおかしいだろ?瑞希が付き合い悪くなったのも、お前が瑞希にちょっかい出して来てからじゃんか。瑞希の親友は、俺なのに!!」
「は、悠人……!?」
悠人は、玲を詰りながらも、自分で自分が何を言っているのか、何に対して腹を立てているのか分からなかった。ただ、瑞希と玲の密接な空気感を目の当たりにして全身がカッと熱を帯びるくらい怒りで昂ったのだ。
「瑞希、帰るぞ!」
「は!?」
悠人の気迫に呑まれて、ぽかんとしている瑞希の掴んでいる腕をそのまま強引に引き悠人は屋上から瑞希を連れ出した。玲はその様子をなすすべなく見守るしか出来なかった。
「―――ると、悠人、痛い、放してよ!」
自分の腕を強い力で引っ張って行く悠人に、階段で足をもつれさせそうになりながら瑞希は一生懸命付いて行っていた。悠人はどこまで行く気なんだろう?放課後の部活はどうしたんだろう?なんで自分を探しに来たんだろう?何より―――何に怒っているんだろう?
こんな剣幕の悠人は、瑞希も見たことがない。温厚な悠人は、時々苛立つことはあっても滅多に声を荒げたり、ここまではっきりした怒りを態度で示すことはないのに。
放課後の校舎は人もまばらで、吹奏楽部の練習する楽器音だけが響いている。
「悠人、ちょっと待ってよ!何に怒ってんのか知んないけど、とにかく落ち着こ?」
人目につかない階段の踊り場で、瑞希は耐え切れなくなって立ち止まろうと悠人の腕を逆に引っ張った。振り返った悠人の顔は相変わらずとても怖い顔だった。
「お前、もうあいつに近づくな」
「あいつって、玲のこと?なんで悠人にそんなこと言われなきゃ……」
「あいつとつるむようになって、お前おかしいだろ。休み時間ほとんど教室にいないし、俺のこと避けるし。あいつ、なんかナヨナヨしたところあるしお前のこと変な世界に引き込もうとしてるんじゃねーの?」
「へ、変な世界ってなんだよ」
一方的な悠人の物言いに、瑞希が言い返すと悠人はますます表情を険しくさせた。
「だから!変だろ、男同士で、手を握ったり抱き合ったり……訳分かんねぇよ。お前の一番の親友は俺なのに、なんであいつとばっかりいるんだよ」
言葉の前半と後半がちぐはぐだ。悠人らしくない、困惑しきったような、泣きそうな表情。何とも形容しがたい、一触即発の空気が二人を依然として包み、瑞希は肩を震わせた。
悠人の言っている意味が分からない。彼の言い分は、まるで嫉妬しているようではないか。
「なんでそんなこと言うんだよ……お前にはカノジョがいんじゃん。あたしが誰とつるもうが、悠人に言われたくないよ!今までの関係でいられないって言ったのはそっちじゃん!なんで今んなってそんなこと言ってくんの……!?」
「瑞希……?」
あまりにも横暴だ。理不尽だ。
いくら瑞希の性別が変わって、記憶が操作されているからって、悠人の言い分は身勝手すぎる。
女の時は、カノジョが出来たからもう親友でいられないと、前のようには二人で過ごせないと突き放したくせに。男になったら前よりも構うようになって来て、友人関係にまで干渉して来て、まるで束縛するかのような言動をする。一体何のため?悠人は自分をどうしたいのだろう?
悔しくて、腹立たしくて、やりきれない。
「あたしは悠人と親友でいたかったよ!一緒に野球出来なくなっても、お前にカノジョが出来ても!!でも全部嘘っぱちだったじゃんか、あたし達の友情なんて!!あたしも悠人も、ただ『親友ごっこ』をしてただけだ、結局恋愛が間に入ったら簡単にこじれるくらいの薄っぺらい仲だったんだよ!!」
一息で捲し立てて言いきった時には、あまりにも一気に空気を吐き出したせいか呼吸が苦しくなりつられて涙まで滲んで来た。
「瑞希……!」
瑞希の涙に動揺したのか、悠人が瑞希の頬に手を伸ばす。それを瑞希は乱暴に跳ねのけた。
泣いている理由が、悠人だなんて間違っても思われたくない。これは、息が浅くて胸が苦しいせいで、けっして悠人のために泣いているんじゃない。
「……そうだよな。最初から、気持ちに嘘をついたのが間違ってたんだ」
瑞希にはたかれた手を抑えて、悠人が低く呟いたその声音に、瑞希は背筋にゾクッと変な感触が走るのを感じた。
「……え?」
俯いた悠人の視線が、鋭く瑞希を捉えた、瞬間―――!
―――ダンッと、激しく壁に背中がぶつかる音が響いた。
「……んむっ……んん!?!?……」
本能的な恐怖を感じた瑞希が逃げる間もなく、気づけば壁に押さえつけられて唇を塞がれていた。強引に割って入って来る悠人の舌が、瑞希の口腔内を蹂躙する。瑞希の手を壁に押さえつけている悠人の指が、瑞希の指に強く絡められる。
互いの唇から漏れる熱い息が、首筋をくすぐる。
なにこれ、悠人は、一体、なに、を。
押しのけようにも、野球部で鍛えた大柄な悠人の本気の力には瑞希では太刀打ちできない。突然口を塞がれたことでさらに呼吸困難は増し、瑞希は苦しさにもがく。
悠人は無我夢中で想いの丈をぶつけるように愛しい人の温もりを探った。
この瞬間理性なんてものは微塵もなかった。ただ、瑞希を、誰にも渡したくない。
悠人の手が、瑞希の腕から、頬、首、と下がり、胸元を探った時。
何のふくらみもない、固い感触に、悠人はハッと我に返った。そうだ、自分が口づけているのは、幼馴染の男友達―――?
「……あ、お、俺……なん、で……瑞希に、キスなんか……」
突然拘束が解かれて、瑞希は咳込みながらぐったりと座り込んだ。混乱するよりも先に、酸素の足りない頭は朦朧として、状況を認識することすら出来ない。
悠人は激しく動揺しながら、うずくまった幼馴染を呆然と見下ろした。無意識に、助け起こそうと手を伸ばす。
「わ、悪い、瑞希、大丈夫か?」
「っ触んな……!もう、いいから……!一人にしてくれよ!」
回らない頭で、瑞希はそう言うのが精いっぱいだった。突然キスをされたことへのショックも、どうして悠人が急に手を離したかの理由も、今は分かりたくない。悠人を、嫌いになりたくない。
顔を俯かせたまま、悠人を置いて立ち去った瑞希。瑞希の背中を呆然と見送る悠人。
二人は気付かない。階段の上部から無表情でスマートフォンを構えながら冷たく見下ろす少女がいたことも、その身体を取り巻くように禍々しい靄がゆらゆらと揺れていたことにも。