第二十二話 導火線
―――久しぶりに深い眠りの中にいると瑞希は思った。
(ああ……まただ……この、感覚)
闇の中をたゆたうように、意識が浮かんでいる。
この闇の中では、自分が『自分』であること以外疑いようもなかった。魂の最も深いところ、年齢も性別も関わらない、まだ色づく前のただ瑞希という存在の源となる一番根っこの部分。
ああ、ここから、自分という存在が出来て行くのだ。
縦と横に糸が紡がれて、幾重にも折り重なって、層になって、何度も染められて、そうやって『瑞希』が出来上がるのだ。そしてそれは命が続く限り、繰り返される行為。
その織目一つ一つが瑞希のこれまで辿って来た歴史、感情、想いを綴っている。
自分の意識は自分の内にあるはずなのに、この空間では何故か外側からもそれを眺めているような感覚。
俯瞰で自分自身を見つめていると、瑞希はふと、その途中に歪な縒り目があることに気付く。その縒り目を境に別の文様が広がりそれがまるで別の作品であるかのようにそれまでの流れと異にしている。
手を伸ばして、そこを綺麗に整えたい。でも、歪んでしまった布地は一度解いて、織り直すしかない。
『……手伝ってあげようか』
気付いた時には、闇の中に白いぼんやりとした光の球体の存在が感じられた。それはいくつも『瑞希』の周りを漂い、近づいたり離れたりを繰り返している。
『エン……』
今回もまた、それらがあの少年神の意識体なのだと感覚的に瑞希は思った。
『遅くなってごめんね、瑞希。君の深淵に辿り着くのに時間がかかってしまった。ようやく君との『契約』を完全に履行出来るよ』
その光の言葉に、瑞希はゾッと震え上がるような恐怖があった。
『何……エン、一体、何をする気なの?』
『やだなぁ……君が最初に願ったことだよ。君の苦しみを全て取り除いてあげる。汚らわしい『女』を根こそぎ消してあげようね』
この空間の中には実体がない。だが、瑞希は必死にもがいた。力の限り抵抗し、叫んだ。
『もうやめて、何もしないで!あたしは、『あたし』でなくなりたくない!これ以上、『あたし』を奪わないで!!』
力の限り叫んでも、その声は闇の中に抵抗虚しく掻き消えて行くだけだった。
「―――ずき、瑞希」
何度も呼ばれていることに、すぐには反応が出来なかった。
気付いた時には、目の前に心配そうに覗き込む悠人の顔があった。
「……悠人?……ああ、もう授業終わったのか」
学校に来てからも瑞希は昨夜のあやふやな夢に引きずられたままぼんやりとした意識の中で過ごしていた。重苦しい余韻がまだ瑞希の中にべっとりと残っている。
「大丈夫か?授業中もお前、ずっと上の空だったろ?隣の島村に声かけられても無視してたろ?」
「え?島村なんか話しかけてた?」
「なんかペン貸してくれって言ってたみたいだったぞ。お前何も返事しねーから島村別の奴に頼んでたぞ」
「それお前授業中ずっと見てた訳?」
悠人の話を聞いていると、まるで授業中瑞希の様子を気にしていたみたいではないか。悠人の席と瑞希の席は互いに視界に入る位置じゃないのに。
「あ、いや、ずっと最近お前が変だから……」
「ま、いいや。保健室行ってこようかな」
悠人と話していると、先日の杏奈の不可解な行動も思い出して苛々して来る。話を遮るように、瑞希は席を立とうとした。
「保健室?」
何故か、悠人の声が一気に不機嫌になった。
「お前がいるのはいつものこれだろ?わざわざ保健室に行かなくていいだろ」
そう悠人が差し出したのは、よく見慣れた鎮痛剤だった。女だった頃、毎月の生理が重い時に、悠人がいつも用意してくれていた。
「……悠人、な、んで……」
「……え?」
「なんで、これ、が、あた……俺、に必要だと思ったの?」
男の瑞希には、生理は来ないのに。
「……え?……だって、そろそろ、だろ。毎月の……あれ?毎月の、何だったっけか……?」
自分でも混乱しているように、眉根を寄せ頭を押さえながら悠人は考え込む。
記憶にはないのに、習慣が残っている………?悠人の中に、まだ、瑞希が『女』だという感覚が存在するのだろうか―――?
「悠人、お前、何か覚えて……!?」
一筋の光明を見たように、思わず瑞希が悠人に詰め寄ったその時―――。
「近づかないで!」
鋭い甲高い声が響いた。
廊下から、教室の奥にある瑞希の席まで届いたその声は、それぞれの会話に夢中だったクラスメイトらの熱気溢れ返ったその空間を一瞬のうちに鎮めてしまった。
「男か女か分からないような人は、悠人君に近づかないで!」
注目を浴びるのも気にしていないのか、現れた人物―――杏奈は一直線に瑞希と悠人まで進み寄ると瑞希を強引に押しのけた。
そして涙目になって悠人をきつく睨みつけ、公衆の面前にも関わらず感情のままに彼の腕にしがみついた。
「悠人君、あんなに新倉君には構わないでって言ったのに、どうしてまだ喋ったりするの!?」
「杏奈……いい加減にしろよ、瑞希は昔からのダチでクラスメイトだぞ、そんなん無理だって何度も」
「私のカレシなら、私の事を一番大事にしてよ、不安にさせないでよ!」
「お前の言ってること訳分かんないし、勝手に不安になってるのはそっちだろ……俺の話なんて全然聞かないし、もうなんなんだよ」
杏奈に詰め寄られ、周りの目を気にしつつも、悠人もつられて感情的に言い返す。瑞希は唖然となって、それをただ眺めていた。すると、ひそひそと遠巻きに見守るクラスメイトらの囁き声が耳に入って来る。
「5組の川口杏奈だーあの子最近情緒不安定すぎじゃない?」
「この前は野球部の女子マネに言いがかりつけたんでしょーしかも練習中に」
「あの子、中学が同じだった子が言ってたけど、前のカレシと別れる時リスカしたって聞いたよー」
「……ってか、束縛酷くない?女子だけじゃなく、男の子の新倉君にまで嫉妬ってこわー。言ってること失礼過ぎだし」
「顔可愛いけど、性格やばいねー」
主に面白がってこそこそ話をしているのは、同じクラスの目立つ女子グループの子達だ。だが、それ以外の面々、特に男子生徒が杏奈の言動に明らかに引いているのが分かった。彼らは悠人とも仲が良い。
「……杏奈、ちょっと来い」
これ以上注目を浴びることに耐えられないのか、悠人は杏奈の腕を引っ張って教室を出て行った。
「に、新倉君、大丈夫?」
遠慮がちに心配そうに声を掛けて来たのは翠だった。瑞希は一連の出来事にあっけにとられて、思わず翠と顔を見合わせた。翠も困惑した表情をしている。
「最近俺、悠人とあんま喋ってなかったけど、あの二人って上手くいってないのかな?」
「え、ああ、新倉君最近あんま教室にいないもんね……。私も良く知らないけど、なんか、川口さんあまりいい噂聞かないかな。片山君別れたがってるって話も聞くし……」
「……そう、なんだ」
翠の話に、瑞希はどう返事を返していいか分からなかった。ただ、はっきりしているのは、不穏な空気が漂う悠人と杏奈の様子を目の当たりにして、ライバルに勝ち誇るような気持ちや喜びというものは一切浮かばなかった。戸惑いと、心配、そしてどこか落胆の気持ち、一言では言い表せない複雑な苦みを伴う感情だった。
(悠人……お前、どうなってんだよ、川口さんと……ラブラブで、幸せなんじゃないの?)
杏奈と出て行った悠人は、次の授業が始まっても教室に戻って来なかった。
―――杏奈の腕を引っ張りながら、悠人は無言で校舎内を足早に進んでいた。
廊下では、顔見知りもそうでない生徒も問わず、誰もが視線を投げかけて来る。いつの間にか、自分達は校内でも有名なお騒がせカップルになってしまった。
始まりは、学年一の可憐な美少女と、野球部で頭角を現すルーキーのカレシカノジョということで話題になり、今では奇行の目立つ杏奈が起こす対人トラブルから良くない噂が飛び交うようになった。
彼女の要求は際限がない。休憩時間は必ず一回は顔を見たいとか、寝る前に毎日電話がしたいとか、他の女子とはなるべく仲良くしないで欲しいとか。最初は可愛いなと思っていたけれど、それがだんだん冗談では済まないレベルまでエスカレートして来ている。
思えば付き合い始めた当初から、どこか腑に落ちない言動が多かった。付き合っていることを、早く周知して欲しい。特に幼馴染の瑞希にはすぐに宣言してくれと、再三言われていた。自分と付き合い始めたんだから、もう瑞希と二人きりで会わない、遊ばないと約束してくれ、と。
周囲の男友達に付き合いだしたことを打ち明けるのは構わなかったが、長年の親友である瑞希との関係についてはとやかく言われたくなかった。自分にとって、瑞希は特別なのだ。他の友達とは別格だ。
杏奈との関係を伝えるのも、それからどういう風に瑞希との距離を見直していくのかも、自分で決めさせて欲しかった。何より、下手なことを言って瑞希を傷つけたくなかった。それなのに―――。
(俺は結局、杏奈の要求に負けて、瑞希にもう二人では会わないって言っちまったんだ……カノジョ以外の女の子と会うのは、不誠実な気がして……でも、待てよ、なんでそう思ったんだ?瑞希は『男』だろ……?)
考えながら悠人は自分の考えに混乱して来る。
そもそも、なんで自分は杏奈と付き合ったんだろう。告白されるまで、正直杏奈のことは名前くらいしか知らなかったのに。
(俺は、出口の見えない気持ちにケリをつけたくて……『あいつ』は俺のことなんか、恋愛対象に見てなかったし……待てよ、『あいつ』って、誰のことだ?)
ますます分からない。自分の記憶なのに、靄がかったようにはっきりしない。自分が長い間誰を想っていたのか、それがなぜ叶わない恋だったのか、大事なことなのに、ちゃんと思い出せない。
「悠人君……どこまで行くの?」
気付いたら、校舎からも離れいつのまにか無人の体育館裏まで来ていた。とっくに授業の始まりを告げるチャイムも鳴り終わっていた。
「あ……悪い、俺意識飛んでた。……授業始まっちまったな、話はまたこん……」
「いいよ、せっかく二人きりになれたんだから……授業なんて忘れよ?」
艶めかしい表情で舌なめずりするように笑った杏奈は、すうっと悠人の懐に近づき体を寄せて来た。不意を突かれた悠人は、そのままなし崩し的に杏奈の華奢な身体を抱き留める。
体育館の壁際に悠人を追い詰めると、杏奈はその首に両腕を回し顔を悠人に近づける。悠人は慌てて体を反らす。
「杏奈……!学校だから、ここ!」
「それが何?前もそこのベンチでキスしたわ。悠人君の部屋ではそれ以上のことだってしてるでしょ?ね、私達上手くいってるよね?離れられないよね?」
妖しく囁く杏奈の吐息に、悠人は一瞬本能的な何かがざわつくのを感じる。だが、それ以上に杏奈の不可解な言動に呑まれてしまう怖さの方が先に立った。悠人は力づくで杏奈の両肩を押して自分から遠ざけた。
「杏奈!学校でそういうことは出来ないよ!それに、しばらく俺達距離を置いた方が良いと思う!」
「距離……!?」
強く押し返されたことと、悠人が放った言葉に杏奈は顔を強張らせた。その目が次の瞬間怨嗟の炎を宿す。
「なんで?距離ってどういうこと?悠人君、私と別れたいの?ねぇどうして!?最近目も合わせてくれないし、キスもしてくれない。もう私の事好きじゃないの?私との事遊びだったの?なんでそんな酷いこと言うの?どうして私をないがしろにするの!!」
一息で捲し立て、その後は感情的に酷い酷い酷い、と繰り返し悠人を詰る杏奈に、悠人は静かに冷めていく何かと、言い表せない疲労感を感じた。
「……杏奈、そんなに一気に言われても、俺も答えられないよ。……俺にも分からない。どうしたいのか、でも今は君といると息が詰まって、しんどいんだ。君を好きなのかも、分からなくなってる」
「……!!!」
悠人の弱り切った言葉に、杏奈は雷に打たれたように蒼白になった。
「やだ……やだやだやだ、別れたくない、絶対別れない!!!」
「杏奈、だから、今はとりあえず距離を置こうって……」
「あいつでしょ!!やっぱりあいつなんでしょ!!あの女男!!悠人君はあの変態にたぶらかされてる!!!」
杏奈が槍玉に挙げている人物が誰のことか直感的に察すると、カッと自分の中に怒りが湧きあがって来るのを感じた。
「瑞希のことだけは悪く言うな!!あいつは……俺にとって聖域なんだよ!!誰にも汚させやしない、そんなことは俺が許さない!!」
考えるより先に口を突いて出た言葉に、悠人は自分でその意味を考えて驚いた。自分が、瑞希をそんな風に捉えていたことに、無自覚だったのだ。
「せい、いき……?……そう、私はあいつと違って汚れているってわけね。別にバージンでもなんでもなかったもんね」
「あ、杏奈、俺はそんなこと責めているつもりじゃ」
「……ばっかみたい、何が聖域よ。あんたがあいつの全部を分かってる気になってるの?あいつがそんなにお綺麗な存在だとでも思ってるの?あの女男とっくに斎君とヤッちゃってるんじゃない!?」
「……!!!」
杏奈の言葉に驚くほど自分が動揺しているのが分かった。心の奥の不安を、直に探り当てられたような心境だった。
「……なっ、そ、そんな訳ないだろ、男同士で……」
声が裏返りながら否定した悠人の様子に、余裕を取り戻したように杏奈は声を上げて笑った。
「やだぁ……クスクスクス……ねんねの悠人君には分からないんだねぇ、そういう世界もあるってこ、と」
そして突然悠人の制服のネクタイをグイっと引っ張り、強引に噛みつくように悠人の口にキスをした。
「知りたくない?新倉君の恋愛対象が、女の子なのか、男の子なのか?」
悠人の唇を強く噛み、滲んだ血を嬉しそうに舌で舐めとりながら杏奈はこの上なく愛らしく笑った。
問われた言葉に、悠人は声もなく固まっていた。




