第2節 青い光の方へ
「そろそろ、動いた方がいいかもしれません」
しばらくの沈黙のあと、ミチシルベがそう切り出した。
「動くって、どこへだよ」
「町の奥に、まだ見ていない場所があります。神崎さんが話してくれた、おじいさんの手がかりも含めて、進んでみる価値はあると思います」
灯里さんも頷いた。
「そうだね。ここで立ち止まっていても、何も変わらない。それに——」
「それに?」
「あなたと会えたのも、何かの意味がある気がするから。一人でここを彷徨うより、今は心強い」
その言葉に、俺は素直に頷いた。一人で抱え込むには、あまりにも異常すぎる状況だった。灯里さんという、同じ経験をした人間がそばにいてくれることが、こんなにも心強いとは思わなかった。会社でも、友人関係でも、誰かに本当の意味で頼るということを、俺はいつからか忘れていた気がする。
「灯里さん、これまで一人でここを歩いてたんですよね。それって、どんな感じだったんですか」
「怖かったよ、正直。誰もいない町を、一人で延々と歩き続けるのは。でも、途中から慣れてしまう自分もいて、それが一番怖かったかもしれない」
その言葉に、俺は何も返せなかった。慣れてしまうことの恐ろしさは、俺にもまだ分からない。だが、灯里さんの声の奥にある疲れのようなものから、その感覚の一端だけは、確かに伝わってきた。
俺はスマホの画面にちらりと目をやった。時刻は三時ちょうど。バッテリー残量は二十七パーセント。数字を見るたびに、胸の奥がすっと冷えるような感覚があった。半分を切ったあたりまでは、まだどこか他人事のように眺めていられたのに、二十七という数字は、もう猶予がそう長くないことを、はっきりと突きつけてくる。
「灯里さんのオトナビ、バッテリーどれくらいですか」
灯里さんは自分のスマホをちらりと見て、少し眉をひそめた。
「二十二パーセント。……多分、今回は今までで一番減りが早い」
「今までで一番、って」
「うん。一回目、二回目の時は、こんなに早く減った記憶がない。今回はあなたがいるからかもしれないし、単純に、私のスマホが古くなってきたのかもしれない。分からない」
その答えに、俺は妙な引っかかりを覚えた。「あなたがいるから」という一言が、ただの気休めなのか、それとも何か意味のあることなのか、判断がつかなかった。二人分のアプリが同時に稼働していることで、この場所への何らかの負荷が増しているのだとしたら——そう考えると、背筋がひやりとした。
「ミチシルベ、二人でいると、バッテリーの減りが早くなったりするのか」
「……分かりません。ですが、可能性としては否定できません。この裏道が、佐倉さんと神崎さん、お二人分の『何か』に反応しているのだとしたら、消費量が増えることも考えられます」
その曖昧な答えに、俺は小さくため息をついた。分からないことばかりだ。だが、今更、灯里さんと別れて一人で進む選択肢もなかった。むしろ、二人でいることの方が、どう考えても安全に思えた。
俺たちは、街灯の下から立ち上がった。町の奥へと続く道を見つめる。オレンジ色でも白でもない、あの青みがかった光が、遠くにぽつぽつと灯っているのが見える。まるで、俺たちを手招きしているかのようだった。
歩き出す前に、灯里さんが自分のスマホの画面を、少しだけ暗く設定し直しているのが見えた。俺も真似て、明るさを最低限まで落とす。画面が暗くなった分、周囲の闇がより濃く感じられるようになった。それでも、バッテリーを一分でも長く保たせることの方が、今は優先すべきことだった。
「灯里さん、前の二回は、こういう時、どうやって進んでたんですか。一人で」
「一歩ずつ、としか言えない。怖いなって思っても、立ち止まってる方がもっと怖かったから」
「立ち止まってる方が、怖い?」
「うん。動いてる間は、何かをしてるって感覚があるから、まだ耐えられる。でも、じっとしてると、この場所の静けさに、こっちが呑まれていく気がするの」
その言葉に、俺は妙に納得してしまった。この裏道に来てから、俺自身も、動いている間だけは、恐怖よりも思考が勝っていた。だが、ブロック塀に座り込んでいたあの時間だけは、じわじわと不安が体の奥に染み込んでくるのを感じていた。
「ミチシルベ、オトナビ。二人とも、これから頼りにしてる」
「はい。全力でサポートします」
「私も、できる限りのことはするから」
二つの合成音声が、まるで示し合わせたかのように、同じタイミングで応えた。その偶然が、偶然には思えなかった。
俺と灯里さんは、並んで歩き出した。町の奥、まだ見ぬ光景に向かって。振り返れば、鳥居はもう、闇の中に紛れて見えなくなっていた。あの見慣れた祠のあった場所に、もう二度と戻れないのではないか——そんな予感が、ふと胸をよぎった。
石畳の道は、少しずつ土がむき出しの小道へと変わっていった。街灯の数も、さらに減っていく。青い光だけが、変わらず遠くに灯り続けていた。足元の感触が変わるたびに、俺は無意識にスマホを握る手に力を込めていた。
「悠真くん、って呼んでもいい? さっきから佐倉さんって呼ぶの、なんかちょっと他人行儀な気がして」
不意にそう言われて、俺は少し驚いた。だが、悪い気はしなかった。むしろ、この状況の中で、誰かに名前で呼ばれることが、思った以上に安心感を与えてくれた。
「はい、全然。呼んでください」
「うん、ありがとう」
その短いやり取りが、張り詰めていた空気を、ほんの少しだけ和らげてくれた気がした。二人分の足音だけが、静まり返った道に、いつまでも響き続けていた。
だが、立ち止まるわけにはいかなかった。前に進むことでしか、この裏道から抜け出す方法は見つからない。俺はそう自分に言い聞かせながら、灯里さんと並んで、青い光の方角へと足を進めていった。
この時の俺は、まだ知らなかった。この裏道の奥に、ミチシルベという存在の本当の正体と、開発者「K」にまつわる、もっと大きな真実が眠っていることを。




