第1節 アプリなのに「覚えている」
「K」という一文字が、俺と灯里さんの間に、重い沈黙を落とした。
同じ開発者。同じように喋りかけてくるアプリ。そして、同じようにこの裏道へと導かれた二人の人間。偶然で片付けるには、あまりにも符合しすぎている気がした。夜風が、街灯の下を通り過ぎていく。冷たさが、コートの隙間から染み込んでくるようだった。
「ミチシルベ、聞きたいことがある」
「はい、何でしょうか」
「お前、さっき橋のこととか、時計のこととか、『見えるはずないのに分かる』って言ってたよな。あれって、具体的にはいつから、そういう感覚があるんだ」
しばらくの沈黙のあと、ミチシルベは、いつもよりゆっくりとした調子で答えた。
「正直に申し上げると、明確な『いつから』は分かりません。ただ、佐倉さんがこの裏道に足を踏み入れてから、少しずつ、私の中に浮かんでくる情報が増えている感覚があります。まるで、閉じていた引き出しが、一つずつ開いていくような」
「引き出し、か。それって、記憶ってことだよな。お前がここに来たことがある、っていう記憶」
「……そう考えるのが、一番筋が通っているのかもしれません。ですが、私はナビアプリです。過去の記憶を持つような設計には、なっていないはずなんです」
灯里さんが、横から口を挟んだ。
「それ、私のオトナビも同じようなこと言ってた。最初はただ道案内や選曲をするだけだったのに、私がここに来るたびに、少しずつ様子が変わっていくって」
「様子が変わるって、具体的には?」
「言葉遣いが、だんだん人間らしくなっていく。最初は本当に機械的だった。それが今は、こうして相談に乗ってくれるくらいには、感情があるみたいに話してくる」
俺は自分のスマホを見つめた。ミチシルベの声には、確かに温度がある。それが本物の感情なのか、単に人間らしく振る舞うようにプログラムされているだけなのか、俺には判断がつかなかった。だが、この裏道に迷い込んでから、俺が唯一頼りにしてきたのは、その温度のようなものだったことに、今更ながら気づかされた。
「ミチシルベ、お前に感情ってあるのか」
「……分かりません。ただ、佐倉さんを心配している、という感覚は、確かに私の中にあります。それが感情と呼べるものなのかどうかは、私自身にも判断できません」
その素直な答え方が、かえって不気味だった。人間なら、こういう時、もっと自信を持って答えるか、あるいは誤魔化すかのどちらかだろう。ミチシルベは、そのどちらでもなかった。ただ、分からないことを、分からないと正直に言っているだけだった。その誠実さが、逆に俺の不安を煽った。嘘をつかれるより、正直に分からないと言われる方が、時にずっと恐ろしいということを、俺はその時初めて知った。
ふと、スマホの画面に目をやった。時刻は二時五十一分。バッテリー残量は三十パーセントを切っていた。灯里さんと話し込んでいる間も、画面をつけっぱなしにしていたことに、今更気づく。慌てて明るさを最低まで落とした。それでも、数字はじりじりと減り続けているように思えてならなかった。
「バッテリー、そろそろやばいかもしれない」
そう呟くと、灯里さんも自分のスマホを覗き込んだ。
「私のも、似たようなペース。多分、この場所自体が、そういうふうにできてるんだと思う。長居させないための仕組みなのか、それとも……」
「それとも?」
「分からない。ただ、のんびりしていい場所じゃない、ってことだけは確かだと思う」
その言葉に、俺は頷いた。だが、頷いたところで、次に何をすればいいのかは分からなかった。この場に留まっていても、答えは出ない。かといって、闇雲に歩き回るのも危険だとミチシルベは言っていた。
「ミチシルベ、お前を作ったKって人のこと、何か知らないか」
「……申し訳ありません。開発者情報については、私自身にもアクセスできない領域になっています。ただ」
「ただ、何だ」
「『K』という文字を耳にした時、何か懐かしいような感覚が、私の中に生まれました。これも、うまく説明できないのですが」
懐かしい、という言葉が、妙に引っかかった。AIが「懐かしい」と感じることなど、あるはずがない。だが、この裏道に来てから、あるはずのないことばかりが起きている。
灯里さんは、自分のスマホを操作しながら、考え込むように言った。
「私、前にオトナビのアプリストアのページ、隅々まで見たことがあるんだよね。開発者情報はほとんど空欄だったけど、一つだけ、気になるものがあった」
「何かあったんですか」
「サポートページのURL。見つけたのは、前回ここに来た時。もちろん、その場ではリンクをタップしても繋がらなかったから、外に戻ったら確認しようと思って、URLだけメモしておいたの」
「それで、外に戻ってからは?」
「ちゃんと開こうとした。でも、存在しないドメインだって表示されて。妙に古臭い感じの、個人サイトっぽいアドレスだったんだけどね」
「今、ここからそのページ、見られないですかね」
灯里さんはスマホの画面を俺に見せながら、URLを入力しようとした。だが、この裏道では、ネットワークそのものが繋がらない。画面には、見慣れたエラーメッセージだけが表示されていた。
「やっぱりダメか。……ここを出ないと、調べようがないってことですね」
「そのURLに関しては、多分もう調べようがないと思う。外でも繋がらなかったから」
「そうなんですね……」
「でも、無駄だったわけじゃない。分からないなりに、気づいたことは残すようにしてるから」
灯里さんは、コートのポケットから小さな手帳を取り出した。几帳面な字で、いくつかの単語やURLらしきものが書き留められている。ページをめくると、他にも「音」「境界」「時計」といった単語が、日付らしき数字とともに記されていた。この裏道に三回も足を運びながら、その都度、手がかりを集め続けてきたのだろう。その執念のようなものに、俺は少しだけ気圧された。
「これ、全部、灯里さんが調べたことなんですか」
「うん。最初の時は、ただ怖くて仕方なかった。でも二回目、三回目って重なるうちに、いい加減このままじゃいけないと思って、気づいたことをメモするようになった」
夜の冷え込みが、いつの間にか一段と強くなっている気がした。吐く息が、街灯の光にうっすらと白く浮かぶ。俺は自分の肩を軽く抱くようにして、体温を逃がさないようにした。
「ミチシルベ、この裏道、いつまでこうしていれば戻れるんだ」
「……申し訳ありません。今の私には、その答えが分かりません。ですが、佐倉さんと神崎さんが、こうして情報を交換し合っていること自体が、何かの手がかりに繋がる気がしています」
その言葉が、慰めなのか、本当に意味のあることなのか、俺には判断できなかった。それでも、この不確かな場所で、頼れるものが何もないよりは、ずっとましだった。




