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裏道:AIが導いた、並行世界の記録  作者: 有坂 零
第一部 見知らぬ道 第1章 いつもの帰り道

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第2節 戻れない交差点

スマホの画面を見ると、地図アプリの表示が明らかにおかしかった。


現在地を示す青い点は表示されているのに、周辺の道や建物の情報がほとんど読み込まれていない。白紙に近い地図の上に、俺の位置だけがぽつんと浮かんでいる。GPSの電波強度を示すアイコンは、いつも通り満タンだった。電波が入っていないわけではない。ただ、地図の中身だけが、この場所を知らないと言っているようだった。何度か画面を指でなぞって地図を動かしてみたが、白い余白が広がるばかりで、道路も建物も表示されない。バッテリー残量は七十一パーセント。会社を出たときからまだ二十分そこそこしか経っていないのに、いつもより減りが早い気がした。


「ミチシルベ、地図がおかしい。今どこにいるのか、正確に教えてくれ」


「現在地情報を取得しています……少々お待ちください」


待つこと十数秒。普段なら一秒もかからない処理のはずだった。その数秒の沈黙が、いつもよりずっと長く感じられた。手のひらに、じわりと汗がにじむのが分かった。


「お待たせしました。申し訳ございませんが、現在地周辺の詳細情報が取得できません。近くに目印になるものはありますか?」


「鳥居がある。見たことのない神社の」


「神社……登録されている施設情報にはございません」


血の気が引くのが分かった。ナビアプリが知らない場所を、俺は今、目の前に見ている。 冷静に考えれば、地図データが古い、あるいは何かの不具合だと説明できるのかもしれない。だが、それにしては、目の前の鳥居はあまりにも現実的だった。木の匂いすら感じられる気がした。触れば冷たいだろうということまで、はっきりと想像できた。


俺は深呼吸をして、来た道を戻ろうとした。だが、振り返った先にあるはずの交差点も、見当たらなかった。街灯に照らされているのは、来たときには気づかなかった、鳥居の脇から緩やかに右へ曲がっていく細い参道のような道だけだった。さっきまで歩いていたはずの、住宅の並ぶ景色はどこにもない。何度も後ろを振り返り、来た方向を確かめようとしたが、見えるのはただ、闇に沈む同じような道の続きだけだった。


「ミチシルベ、戻りたい。さっきまでいた交差点に戻る道を教えてくれ」


しばらくの沈黙のあと、合成音声にしては妙に静かな声で、ミチシルベはこう答えた。


「……佐倉さん。落ち着いて聞いてください。今の場所から、元の道に戻るルートが見つかりません。ですが、私にできる限りのご案内はします。まずは、その場から動かず、鳥居の中には入らないでください」


「入るなって……じゃあ、どうすればいいんだよ」


自分の声が、思ったより震えていることに気づいた。両手でスマホを握りしめる。この状況で頼れるものが、手のひらの中のこの小さな画面しかないという事実が、じわじわと現実味を帯びてくる。


「まずは落ち着いて、周囲の状況を教えてください。私にできることを探します」


その言葉には、いつものナビアプリらしい定型的な響きはなかった。むしろ、こちらを気遣うような、人間くさい間があった。俺はその声にすがるように、目の前の光景を一つずつ言葉にして伝え始めた。鳥居のこと、参道のこと、静けさのこと。ミチシルベは黙って聞いていた。相槌のような、小さな「はい」だけを挟みながら。


俺はその時初めて、自分が「いつもの帰り道」から、どこか別の場所に迷い込んでしまったことを理解した。


「とりあえず、電話してみる」


そう言って、俺は同期の田中に電話をかけようとした。呼び出し音すら鳴らない。画面には「発信できません」という、見たことのない表示だけが出ている。次に会社の緊急連絡先、実家の番号、思いつく限りの相手にかけてみたが、結果は同じだった。電波は届いているはずなのに、この場所からは誰にも繋がらない。まるで、この場所自体が、外の世界から切り離されているみたいだった。


「電話は……使えないみたい」


「ええ、佐倉さんの端末からは、通話機能へのアクセスができない状態のようです。原因はまだ分かりません」


ミチシルベの声には、機械的な淡々としたトーンの奥に、何かを気にかけているような響きがあった。それとも、それは俺が勝手にそう感じたいだけなのかもしれない。人間は、追い詰められると、目の前にあるものに人格を見出そうとする生き物だから。


俺は鳥居に背を向け、参道とは反対の方向へ、恐る恐る足を踏み出してみた。もと来た道の記憶を頼りに、ひとまず離れられるところまで離れてみようと思ったのだ。だが五分ほど歩いても、景色はまるで変わらなかった。同じような住宅の輪郭、同じような街灯の間隔、同じような暗闇。まるでループする映像を見ているようだった。


「ミチシルベ、これ、同じところをぐるぐる回ってないか」


「……可能性としては、否定できません。この付近の道路構造そのものが、通常とは異なっている可能性があります」


「異なってるって、どういうことだよ」


答えは返ってこなかった。数秒の沈黙のあと、ミチシルベはさっきとは違う、少しだけ硬い声でこう言った。


「佐倉さん。今、私が把握できている情報だけで判断すると、これ以上むやみに動き回るのは危険かもしれません。鳥居のある場所を基点として、その場に留まっていただけますか」


言われるがまま、俺は元の場所に戻った。鳥居は、さっきと変わらずそこにあった。むしろ、離れて戻ってきたことで、その存在感が増しているようにさえ感じられた。時計を確認すると、深夜一時四十分。会社を出てから、もう一時間近くが経とうとしていた。いつもなら、とっくに家に着いている時間だ。


近くにあった低いブロック塀に腰を下ろし、両膝を抱えるようにして、スマホを胸元に引き寄せた。 画面の明かりだけが、この暗闇の中で唯一の頼りだった。バッテリー残量は五十八パーセント。この十数分で十パーセント以上も減っている計算になる。普段のペースなら、あり得ない数字だった。


「ミチシルベ、バッテリーの減り方、おかしくないか」


「……正直に申し上げます。通常の消費量ではない可能性があります。この場所自体が、何らかの形で端末に影響を与えているのかもしれません」


その言葉に、余計に不安が増した。バッテリーがなくなれば、この声さえも聞けなくなる。できる限り温存しながら、状況を整理していくしかない。だが同時に、「正直に申し上げます」というその言い方に、微かな安堵も覚えていた。誤魔化さずに、本当のことを言おうとしてくれている。少なくとも、今はそれだけが救いだった。


遠くで、かすかに鈴の音のようなものが聞こえた気がした。空耳かもしれない。だが確かに、参道の奥、社殿があるはずの暗がりの方角から、一度だけ、澄んだ音が響いた。


「ミチシルベ、今、鈴みたいな音がしなかったか」


返事はなかった。数秒待っても、いつもならすぐに返ってくるはずの合成音声が、その時だけは沈黙していた。俺は膝を抱える腕に、無意識に力を込めていた。

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