第1節 見知らぬ鳥居
これは、二〇二四年の初冬に自分の身に起きたことを、なるべく忘れないうちに書き残しておこうと思って書いている記録だ。
信じてもらえなくてもいい。ただ、同じような目に遭った人がこの記録を見つけたとき、少しでも役に立てばいいと思っている。
その夜、俺——佐倉悠真は、いつも通り残業を終えて会社を出た。時刻は深夜一時を少し過ぎたところだった。IT企業の下請けで、システムの保守業務をしている。月末はいつもこんな時間まで残ることになる。目は乾いていたし、頭の芯がぼんやりと痺れていた。もう三年、同じような月末を繰り返している。入社したばかりの頃は、こんな時間まで働くことになるとは思っていなかった。慣れというのは怖いもので、今ではこの生活が当たり前になってしまっている。
会社を出ると、ビルの谷間から吹き下ろす風が、いやに冷たく感じられた。十一月も終わりに近づいて、コートの前をかき合わせながら歩き出す。駅までは徒歩十五分。タクシーを使うほどの距離でもないし、そもそも今月はもう経費を使いすぎている。財布の中身を思い浮かべながら、ため息をひとつついた。
こういう時、俺はいつもスマホのナビアプリを立ち上げる。別に道に迷うわけではない。同じ道を三年も歩いている。目を閉じていても歩けるくらいだ。ただ、疲れているときに画面の明かりと合成音声の案内が、なんとなく心細さを紛らわせてくれる気がしていたからだ。一人暮らしのアパートに帰っても誰もいないことは分かっているのに、それでも誰かの声を聞きながら歩きたい夜がある。学生の頃の友人とは、就職してからすっかり疎遠になっていた。恋人と呼べるような相手も、もう二年近くいない。
使っていたのは「ミチシルベ」という、あまり有名ではないナビアプリだった。会社の先輩に勧められて何となく入れたきり、気づけば一番よく使うアプリになっていた。他のナビアプリと違って、案内の言葉づかいが妙に自然で、たまに世間話のようなことも喋ってくる。「今日は冷えますね」とか、「もうすぐ駅ですよ、お疲れさまでした」とか。人工的な合成音声のはずなのに、そこには不思議と温度のようなものがあった。バッテリーの減りが早いのが唯一の欠点だった。友人にこのアプリの話をしたことがあるが、「そんなアプリ知らない」と言われたのを思い出す。マイナーなアプリなんだろう、程度にしか思っていなかった。
ダウンロードしたのは、確か半年ほど前だったと思う。ストアの評価件数もそう多くなく、レビューの数も片手で数えられるくらいだった。開発者の名前も、ありふれたアルファベット一文字の表記で、詳しい情報は載っていなかった。それでも使い勝手が良かったから、深く気にせず使い続けていた。今思えば、そうした素性のわからなさが、少し引っかかっていたのかもしれない。だがその時の俺は、そんなことを気にする余裕もないくらい、ただ疲れていた。
「ミチシルベ、いつもの道で」
イヤホンをつけて、そう話しかける。バッテリー残量は八十二パーセント。会社を出る前にちらりと見た数字を、なんとなく覚えていた。
「はい、いつもの道ですね。今日もお疲れさまでした」
合成音声にしては抑揚のある声が返ってくる。俺は駅までの十五分の道を、半分眠りながら歩き始めた。
商店街のシャッター通りを抜けて、大きな交差点を渡る。信号待ちの間、スマホの画面には現在地を示す青い点が、いつも通りの道筋の上をゆっくりと動いていた。いつもと同じ、変わらない道のはずだった。
異変に気づいたのは、いつも通っている裏道の途中だった。
大通りを避けて近道をする、この時間だけの俺のルートだ。住宅街の間を縫うように延びる、車一台がやっと通れるくらいの細い道。その道の脇には、小さな祠があるだけで、神社と呼べるようなものはない。子どもの頃からそこにあった、赤茶けたペンキの剥げかけた祠だ。誰が管理しているのかも知らないが、通り過ぎるとき、なんとなく会釈をするのが俺の癖だった。それくらい、見慣れた景色のはずだった。
だが、その夜は祠のあった場所に、見たこともない鳥居が立っていた。
思わず足が止まる。古びてはいるが、朽ちてはいない。むしろ、手入れが行き届いているようにさえ見えた。塗装の朱色が、街灯の下でやけにくっきりと浮かび上がっている。大きさは近所の神社にあるものより一回り小さいくらいで、奥には短い参道と、暗がりに沈む社殿らしき影が見える。玉砂利を踏む音がしそうな、静かな気配だけがそこにあった。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。こんなもの、三年間毎日歩いてきたこの道に、あっただろうか。記憶違いだと思おうとしたが、祠と鳥居では大きさも造りもまるで違う。見間違えようがない。スマホのカメラで写真を撮ろうかとも思ったが、なぜか手が動かなかった。指先が、画面に触れることを拒んでいるような、そんな感覚があった。
鳥居の柱には、細かい彫刻のようなものが刻まれていた。近づいて確かめる勇気はなかったが、遠目に見ても、それが見慣れた神社の意匠とは少し違う気がした。文字とも模様ともつかない、渦を巻くような線が柱いっぱいに彫り込まれている。神社に詳しいわけではないが、地元の氏神様の類とは、明らかに雰囲気が異なっていた。
「ミチシルベ、この道、こんなところに神社なんてあったか?」
「はい。この先、少し進んだところに小さな祠があるはずです。神社は登録されていません」
「祠じゃなくて、鳥居がある。ちゃんとした神社みたいなやつが」
一瞬、間が空いた。人間なら、言葉を選んでいるような間だった。
「……申し訳ありません。もう一度、現在地を確認します」
その返事に、初めて薄気味の悪さを感じた。ナビアプリが「申し訳ありません」なんて、そんな細かい言い回しをすることが、それまで一度もなかったからだ。いつもの案内は、もっと機械的で、決まった言葉の組み合わせで返ってくるものだった。まるで、今この瞬間、初めて戸惑っているかのような間だった。
足を止めて、周囲を見回す。街灯の数がいつもより少ない気がした。それに、こんな時間なのに、やけに静かすぎる。虫の声すら聞こえない。車の走る音も、遠くの電車の音も、何も聞こえてこない。耳が痛くなるほどの静けさだった。鳥居の奥から、冷たい空気だけが、確かに流れてくるのを感じた。線香とも木の匂いともつかない、かすかな香りが混じっている気がした。
画面の明るさを、無意識に少しだけ下げた。目を凝らして鳥居の奥を見るためだった。時刻表示は、一時二十三分。会社を出てからまだ二十分ほどしか経っていないはずなのに、体感ではもっと長い時間が過ぎたような気がしていた。




