第2節 灯里が戻れなかった理由
提灯の光を見つめたまま、灯里さんはしばらく動かなかった。俺はその横顔に、これまで見たことのない色があるのに気づいた。恐怖でも、疲労でもない。もっと深いところにある、古い痛みのようなものだった。
「灯里さん」
「……うん?」
「さっき、聞きそびれたことがあって。灯里さんは、どうしてそこまでして、この場所のことを調べようとしてるんですか」
前にも一度、同じ問いを投げたことがあった。あの時は「いつか、ここに来なくて済むようになりたいから」とだけ答えて、それ以上は話してくれなかった。だが今、提灯の前で、灯里さんは小さく息を吐いた。
「……もう、隠しててもしょうがないね」
そう言って、灯里さんはコートのポケットから、あの手帳を取り出した。ページをめくる指先が、わずかに震えている。
「私の弟。四年前に、いなくなったの」
「いなくなった、って……」
「ある日、部活の帰りに、いつもの道を通って、そのまま帰ってこなかった。警察にも届け出た。でも、何も見つからなかった。まるで、道の途中で、そのまま消えてしまったみたいに」
俺は言葉を失った。灯里さんの声は、驚くほど静かだった。何度も何度も、この話を自分の中で反芻してきた人間だけが持つ、乾いた静けさだった。
「弟のスマホ、後で見つかったの。道端に落ちてた。画面には、知らないアプリが立ち上がったままになってた」
「まさか……」
「うん。多分、私と同じ。ミチシルベやオトナビみたいな、何かに導かれて、ここに来たんだと思う。でも、弟は……戻ってこなかった」
提灯の光が、また風もないのに、ゆらりと揺れた。
「だから、私は一回目にここに迷い込んだ時、怖かったけど、同時に思ったの。もしかしたら、ここに弟がいるかもしれないって。だから、二回目も、三回目も、怖いのに、また来てしまう。オトナビが導く時、心のどこかで、期待してる自分がいる。今度こそ、弟に会えるんじゃないかって」
「それで……会えたんですか」
灯里さんは、静かに首を振った。
「一度も。噂で聞いた、おじいさんの話をしたよね。あの人に、弟のことを聞いてみたことがある。でも、知らないって言われた。ここは広いから、って」
「じゃあ、灯里さんが『戻れなかった』っていうのは……」
「体は、ちゃんと戻ってる。三回とも。でも、多分、心のどこかは、まだ戻れてない。弟をここに置いたまま、自分だけ元の生活に戻ることが、どうしてもできなかった」
その言葉に、俺は喉の奥が、詰まったように熱くなった。 灯里さんが手帳に几帳面に書き溜めてきたメモの数々——それは、単なる好奇心や執念ではなく、たった一人の弟を探し続ける、祈りにも似た記録だったのだ。
「ミチシルベ、お前は、灯里さんの弟のこと、何か知らないか」
長い沈黙があった。今までで一番、重い沈黙だった。
「……申し訳ありません。明確な情報は、私の中にはありません。ただ、神崎さんの言葉を聞いていると、また『引き出し』が開くような感覚があります。『あの子』という言葉が、もしかしたら——」
「あのノートに書いてあった、『あの子』のことか」
「……可能性としては、否定できません」
灯里さんが、はっと顔を上げた。俺の手の中にあるノートを、食い入るように見つめる。
「見せて」
俺はノートを開き、あのページを見せた。『あの子が、いつかここを通るかもしれない。そのときのために。』灯里さんは、その一文を、何度も何度も指でなぞった。
「これ……もしかしたら」
そこまで言ったところで、灯里さんのスマホから、短い電子音が鳴った。低く、切羽詰まった音だった。
「……一パーセント」
その数字に、俺たちは同時に息を呑んだ。俺は自分のスマホを見た。二パーセント。画面の表示が、いつ消えてもおかしくない数字だった。
「灯里さん」
「大丈夫、まだ話せる。でも、多分、あと少ししか——」
灯里さんがそう言いかけた瞬間、彼女のスマホの画面が、一度だけ強く明滅した。オトナビの声が、ノイズ混じりに響く。
「……神崎さん。伝えたいことが、まだ……」
そこで、音が途切れた。画面が、真っ暗になった。
「オトナビ……?」
灯里さんの声が、初めて悲鳴に近いものになった。何度画面をタップしても、電源ボタンを押しても、二度と光は戻らなかった。
俺は自分のスマホを、震える手でしっかりと握りしめた。バッテリー残量、二パーセント。ミチシルベの声だけが、今、俺たちに残された、たった一つの頼りだった。
「ミチシルベ……」
「……はい、佐倉さん。私は、まだここにいます」
その声に、俺は縋るように息を吐いた。だが、画面に表示された数字は、容赦なく現実を突きつけてくる。俺たちに残された時間は、もう、ほとんどなかった。




