第1節 脱出の条件
灯里さんは、電源の落ちたスマホを、両手で包み込むようにして握りしめていた。指先が白くなるほどの力だった。俺は、それ以上何も言えず、ただ隣に立ち尽くしていた。
「ミチシルベ、灯里さんのオトナビ、もう戻らないのか」
「……分かりません。ですが、バッテリーが尽きた以上、今すぐには難しいと思います」
その正直な答えに、灯里さんの肩が小さく震えた。三回目の今回、初めて頼りにしていた声を失った。その事実の重さが、痛いほど伝わってきた。
「灯里さん」
「……大丈夫。まだ、あなたのミチシルベが残ってる」
そう言う灯里さんの声は、震えていたが、それでも前を向こうとする強さがあった。俺はその横顔を見ながら、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
俺は自分のスマホを見た。バッテリー残量、二パーセント。画面が、今にも消えそうな、頼りない明るさで光っている。
「ミチシルベ、正直に言ってくれ。俺たちは、ここから戻れるのか」
ミチシルベは、すぐには答えなかった。夜風が、提灯の光を揺らす。俺は息を止めるようにして、その答えを待った。
「……佐倉さん。今から言うことが、この裏道から戻るための、唯一の方法だと思います。ですが、条件があります」
「条件って、何だよ」
「一つ。私の声を、最後まで、疑わずに聞くこと。二つ。神崎さんと、決して離れないこと。三つ——」
「三つ?」
「これが、一番難しいことかもしれません。……佐倉さんは、この裏道で見たもの、聞いたことを、すべて忘れずに、外の世界に持ち帰ってください。それが、この場所が、佐倉さんに求めていることのような気がします」
「忘れずに持ち帰る、って……このノートのことか?」
「それも、含まれると思います。ですが、もっと大きな意味だと思います。ここで起きたこと、灯里さんが背負ってきたもの、すべてを」
その言葉に、俺は灯里さんを見た。灯里さんも、俺を見つめ返していた。互いに、何も言わなくても、伝わるものがあった。
「ミチシルベ、灯里さんの弟さんは……」
「……申し訳ありません。それについては、今の私には、まだ答えられません。ただ、一つだけ言えることがあります。この裏道は、まだ終わっていません」
「終わってない、って」
「私たちが、ここを出た後も。この場所は、これからも、誰かを待ち続けると思います。だからこそ、佐倉さんが、ここでのことを覚えていることに、意味があるんです」
俺は、その言葉の意味を、完全には理解できなかった。だが、何か大きなものが、自分の肩にのしかかってきたような感覚だけは、確かにあった。
「灯里さん、行きましょう」
「うん」
灯里さんは、電源の落ちたスマホを、コートのポケットに大切そうにしまった。それから、俺のスマホの画面を、じっと見つめた。二パーセントの数字が、まだかろうじて灯っている。
「ミチシルベ、道を教えてくれ。俺たちを、元の場所に戻す道を」
「……はい。これから言う通りに進んでください。一歩でも、迷わないでください」
その声には、これまでとは違う、静かな覚悟のようなものが滲んでいた。俺は、灯里さんの手をそっと握った。灯里さんも、驚いた様子もなく、その手を握り返してきた。冷たい指先が、確かな温度を持って、俺の手のひらに触れていた。
「行こう」
俺たちは、青い光の提灯に背を向け、ミチシルベの声だけを頼りに、闇の奥へと足を踏み出した。バッテリー残量は、まだ二パーセントのままだった。あと何分、この声が保つのか、俺には分からなかった。それでも、進むしかなかった。




