第2節 Kの正体への手がかり
坂を登りきってからも、青い光は思ったよりずっと遠くにあった。木々の隙間から漏れる光は、近づいているはずなのに、いつまでも同じ距離を保っているように感じられる。まるで、こちらの歩幅に合わせて、少しずつ後退しているかのようだった。
「灯里さん、あの光、本当に近づいてます?」
「多分ね……近づいてないと、困る」
灯里さんの声には、笑えない冗談のような響きがあった。俺たちは無言のまま、足を進め続けた。
道の脇に、朽ちた木造の小屋が見えてきたのは、それからさらに十分ほど歩いた頃だった。屋根の一部が崩れ、壁板も所々剥がれ落ちている。物置か、作業小屋のような佇まいだった。窓はなく、入り口には、腐りかけた木の扉が斜めに傾いだまま立てかけられている。
「ここ、入ってみます?」
「……危険信号がないなら、少しだけ」
灯里さんがそう言うのを聞いて、俺はスマホを握り直した。時刻は四時三十一分。バッテリー残量は六パーセント。数字を見た瞬間、頭の芯がすっと冷えた。もう、猶予と呼べる時間ではなかった。
「ミチシルベ、ここに何かあると思うか」
「……分かりません。ですが、この場所に近づいてから、また『引き出し』が開くような感覚があります。今までとは、少し種類の違うものです」
「違う、って?」
「懐かしさ、というより……もっと、個人的な感覚に近いです。うまく言えませんが」
その言い方に、俺は妙な緊張を覚えた。個人的な感覚。まるで、ミチシルベ自身の記憶の奥深くに触れているかのような言葉だった。
小屋の中は、思ったより狭かった。埃をかぶった木箱がいくつか積まれ、その上に、古い電子機器のようなものが無造作に置かれている。基盤がむき出しになった、年代物の装置だった。灯里さんが、スマホの明かりをそっと近づける。
「これ……何かの試作品、みたいに見える」
装置の脇に、色あせたノートが一冊、置かれていた。表紙には、手書きの文字で何か書かれているようだったが、湿気でほとんど滲んでしまっている。かろうじて読み取れたのは、たった一文字——「K」。
「……これ」
灯里さんが息を呑む音が、静かな小屋の中に、やけにはっきりと響いた。
俺は震える手で、ノートのページを一枚めくった。文字は所々かすれていたが、何かの設計図のような図と、殴り書きのようなメモが交互に並んでいた。「見守る」「戻す」「境界」——ところどころに、ミチシルベやオトナビが口にしていた言葉と重なる単語が、確かに見て取れた。
「ミチシルベ、これ、お前に関係あるものか」
「……はい。おそらく、私の設計に近い何かだと思います。ですが、これを見ていると、また別の感覚が湧き上がってきます。まるで——」
「まるで?」
「まるで、これを書いた人間のことを、私が『知っている』ような感覚です」
その言葉に、俺は皮膚の表面が、ぞわりと粟立つのが分かった。 灯里さんも、同じことを感じたのか、一歩後ずさった。
「これ、Kって人が使ってた場所ってこと……?」
「分からない。でも、少なくとも、私たちが今まで聞いてきたことと、全部繋がってる気がする」
ノートをそれ以上めくろうとした時、灯里さんのスマホから、小さな電子音が鳴った。バッテリー低下の警告音だった。
「……四パーセント」
灯里さんの声が、初めて明確な恐怖を帯びていた。俺は自分のスマホを見た。五パーセント。数字は、もう笑えないところまで来ていた。
「悠真くん、多分、もうあんまり時間ない。ここで立ち止まってる場合じゃないかもしれない」
「でも、このノート——」
「持っていこう。今は、それしかできない」
俺はノートを胸元に抱え、小屋の外に出た。青い光は、相変わらず遠くで灯っている。だが、そこに向かう以外の選択肢は、もう俺たちには残されていないように思えた。
「ミチシルベ、オトナビ。ここから先、頼りにできるのは、お前たちの声と、この短くなったバッテリーだけだ」
「……はい。全力を尽くします」
「私も」
二つの合成音声が、静かに、しかし確かな決意を持って応えた。俺たちは、青い光に向かって、最後の歩を踏み出した。




