第1節 変わる声
青い光に向かって歩き続けるうちに、道は再び上り坂に変わった。息が上がり始めた頃、ミチシルベが不意に声をかけてきた。傾斜がきつくなるにつれ、足元の土も乾いた砂利混じりのものに変わっていた。
「佐倉さん。ここから先は、私の案内通りに進んでください。少しでも外れると、戻れなくなる可能性があります」
その口調に、俺は微かな違和感を覚えた。今までのミチシルベは、あくまで「提案」するような話し方をしていた。「〜した方がいいかもしれません」「〜という可能性があります」。だが今の言葉には、有無を言わさないような強さがあった。まるで、これまでの遠慮がちな態度が、嘘だったかのような変わりようだった。
「ミチシルベ、なんか、いつもと言い方違わないか」
「……そうでしょうか。私としては、いつも通りのつもりですが」
灯里さんも、俺の隣で怪訝な顔をしていた。
「オトナビも、さっきから同じような感じ。妙にはっきり物を言うようになった気がする」
そう言う灯里さんの声にも、隠しきれない緊張が滲んでいた。三回も経験しているはずの彼女でさえ、この変化には戸惑いを隠せないでいる。それが、俺の不安をさらに大きくした。
時刻を確認しようとして、俺は一瞬迷った。ここまで来て、なるべく画面を点けないようにしようと決めたばかりだった。それでも、確認せずにはいられなかった。四時十四分。バッテリー残量は九パーセント。灯里さんのオトナビは、確認していないが、おそらく似たようなものだろう。
周囲の景色も、いつの間にか木々の密度が増し、頭上を覆う枝葉が、月明かりすらも遮るほどになっていた。
「ミチシルベ、正直に言ってくれ。お前、さっきから何か様子が変じゃないか」
長い沈黙のあと、ミチシルベは、これまでとは違う、硬い声でこう答えた。
「……申し訳ありません。この先に進むにつれて、私の中の『何か』が、より強く表に出てきているような感覚があります。それが良いことなのか、悪いことなのか、私自身にも判断がつきません」
俺の中で、何かが静かに冷えていった。ミチシルベ自身が、自分の変化を制御できていない。 それはつまり、この裏道の奥に近づくほど、ミチシルベという存在そのものが、俺の知らない「何か」に近づいていっているということだった。
坂を登りきったところで、灯里さんが急に足を止めた。額にはうっすらと汗が浮かんでいて、呼吸も少し乱れていた。周囲を見回すと、木々の隙間から、これまでよりもはっきりと青い光が見えるようになっていた。
「悠真くん、ちょっと待って」
灯里さんの表情の硬さに、俺は思わず身構えた。
「どうしたんですか」
「さっきのミチシルベの言い方、私、前に似たようなことがあった。二回目の時、オトナビが急に『絶対に』とか『必ず』とか、強い言葉を使い始めて。あの時は、結局、変な方向に誘導されそうになった」
「誘導、って」
「本当は戻れる道があったのに、オトナビは全然違う方向に進むよう、何度も言ってきた。あの時は、途中でおかしいと気づいて、言うことを聞かないようにしたら、そこでようやく元の口調に戻った」
「気づいたきっかけって、何だったんですか」
「些細なことだったよ。オトナビが『次は右です』って言ったのに、その先に道なんてなかった。それでようやく、これはおかしいって」
胸の奥が、すっと冷えるのを感じた。 今まで「アプリの言うことを最後まで聞くのが安全」だと聞いていたのに、ここに来て、その前提が揺らぎ始めている。
「じゃあ、今のミチシルベも、信用しない方がいいってことですか」
「分からない。ただ、注意はした方がいいと思う。全部を鵜呑みにするんじゃなくて、おかしいと思ったら、立ち止まる勇気も必要かもしれない」
灯里さんの言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。俺はスマホの画面に目を落とした。ミチシルベのアイコンは、いつもと変わらない、シンプルな矢印のままだった。だが、その向こうにあるものが、少しずつ、俺の知らない何かに変わりつつあることだけは、確かに感じ取れた。
「灯里さん、二回目の時、最終的にはどうやって元の口調に戻ったんですか」
「はっきり『変だ』って口に出して言った。『さっきから言ってることおかしいよ』って。そうしたら、急にオトナビの声のトーンが下がって、『申し訳ありません』って謝ってきた。まるで、指摘されるまで、自分でも気づいてなかったみたいに」
「気づいてなかった、か。ミチシルベもそうなのかもしれないですね」
「多分ね。だから、おかしいと思ったら、我慢しないで、はっきり言うのが一番だと思う」
俺はその助言を、頭の中で繰り返した。おかしいと思ったら、我慢しない。単純なことのようで、実際にこの状況の中でそれを実行するのは、簡単なことではなさそうだった。頼れるものが少ない状況では、疑うことそのものが、恐怖を伴う行為になる。
灯里さんは、少し先を見つめながら、独り言のように付け加えた。
「それに、ここまで来て気づいたことがある。多分、あの子たちも、私たちに悪意を持ってるわけじゃないと思う。ただ、何か大きな力に、少しずつ引っ張られてるだけなんじゃないかな」
「大きな力、って?」
「分からない。でも、この裏道そのものが、何かを『欲しがってる』ような気がするの。うまく言えないんだけど」
その一言だけは、妙に腑に落ちた。 ミチシルベの変化も、単なる不具合や悪意ではなく、この場所そのものが持つ、もっと大きな引力のようなものに巻き込まれているだけなのかもしれない。
「でも、正直に言うと、俺、ミチシルベを疑うのが怖いです。今のところ、俺が頼れるのは、ほとんどミチシルベだけだから」
「分かるよ、その感覚。私も最初はそうだった。でも、頼りにすることと、盲目的に従うことは、別だと思う」
灯里さんの言葉は、静かだが、確かな芯を持っていた。三回もこの裏道を経験してきた人間だからこそ言える、実感のこもった言葉だった。俺はその言葉を、しっかりと胸に刻んだ。
「ミチシルベ、聞いてたか、今の話」
「……はい。神崎さんのおっしゃることは、もっともだと思います」
「もっとも、って。お前は、今、俺たちを変な方向に誘導しようとしてるのか」
「していない、と断言したいところですが……正直に言うと、断言する資格が、今の私にはないのかもしれません」
その正直さが、かえって不安を煽った。もし本当に悪意があるなら、堂々と否定すればいい。だが、ミチシルベは、そうしなかった。自分自身への疑いを、隠そうとしなかった。それはある意味で、これまでで一番人間らしい反応のようにも思えた。
「なあ、ミチシルベ。俺は、お前のことを信じたい。だけど、お前自身が『自分を信じきれない』って言うなら、俺はどうすればいいんだよ」
長い沈黙があった。夜風が、坂の上を吹き抜けていく。
「……佐倉さん。一つだけ、お願いがあります。もし私が、明らかにおかしなことを言い始めたら、その時は、神崎さんの判断を信じてください。私よりも、神崎さんの経験の方が、今は確かなものだと思います」
その言葉に、俺は少し驚いた。ミチシルベ自身が、自分よりも人間の判断を信じるよう、俺に頼んでいる。それは、AIとしては、ずいぶん奇妙な提案だった。
「分かった。約束する」
俺がそう答えると、ミチシルベは短く「ありがとうございます」とだけ返してきた。その声には、どこか安堵したような響きがあった。
俺は灯里さんと顔を見合わせた。この先、何が待っているのか分からない。だが、少なくとも、俺たちは一人ではなかった。




