第2節 この場所のルール
「ミチシルベ、この看板のこと、何か分かるか」
「……申し訳ありません。文字としては認識できますが、その意味までは分かりません。ただ、この場所に、強い『記録したい』という意思のようなものを感じます」
「記録したい、って誰が」
「それも、まだ分かりません。ですが、この裏道そのものが、ここに来た人たちのことを、忘れないように残そうとしているのかもしれません」
その言葉に、灯里さんが小さく息を呑んだ。
「まるで、ここが、記憶するための場所みたいな言い方だね」
「……そうかもしれません」
俺たちはしばらく、その場を動けずにいた。看板に刻まれた名前の数だけ、俺たちと同じような夜を過ごした人間がいる。その事実の重さが、じわじわと胸にのしかかってきた。
「これだけの数がいて、みんな戻れたわけじゃない、ってことですよね」
「多分ね。でも、戻れた人の方が、きっと多いと思う。じゃないと、この場所自体、もっと知られてるはずだから」
灯里さんの言葉には、根拠と呼べるほどのものはなかった。それでも、その希望的な見立てにすがりたくなる気持ちは、俺にもよく分かった。看板の前を離れる時、俺は最後にもう一度、自分の名前がないことを確かめた。まだ、間に合う。そう思いたかった。
井戸のそばに座り込み、俺たちは少しの間、休息を取ることにした。歩き続けて、足も限界に近づいていた。石の縁に腰掛けると、思ったより冷たさが伝わってきて、思わず身震いした。時計を見ると、深夜四時を回っていた。もう三時間近く、この裏道を彷徨っていることになる。
バッテリー残量は十パーセント。画面にその数字が表示された瞬間、指先が小さく強張った。二桁を切ることは、まだない。だが、その一歩手前まで来ている事実が、これまでのどの瞬間よりも重く感じられた。
「灯里さん、ここまでの経験で、何か『これだけは守った方がいい』っていうルール、あります?」
灯里さんは、指を折りながら考え込んだ。夜の静けさの中で、その仕草だけが妙に日常的で、少しだけほっとする瞬間だった。
「一つ目、鳥居や井戸みたいな、明らかに『境界』っぽいものには、むやみに近づかない。二つ目、アプリの言うことは、最後まで聞く。三つ目――」
「三つ目は?」
「知らない人に、むやみに声をかけない。声をかけられても、すぐには信じない」
思わず、灯里さんの顔を見た。
「灯里さんは、今、俺のことを信じてくれてますよね」
「……あなたは、大丈夫だと思う。だって、ミチシルベとオトナビが、お互いを認識してたから。多分それが、この場所なりの『安全の証明』みたいなものなんだと思う」
その説明に、俺は妙な納得感を覚えた。この裏道には、俺たちの知らないルールが、確かに存在している。そしてそのルールは、少しずつ、俺たちにも見え始めていた。
「ミチシルベ、お前は、他に何かルールを知らないか」
「……一つだけ。これは確信に近いのですが、佐倉さん。この裏道では、『疑いすぎる』ことも、危険なことのようです」
「疑いすぎる、って?」
「目の前で起きていることを、頭ごなしに否定し続けると、この場所との繋がりが、かえって強くなってしまうような感覚があります。信じることも、疑いすぎることも、どちらも極端では危険なのかもしれません」
灯里さんと俺は、顔を見合わせた。バランスを取ること。それが、この裏道を生き抜くための、もう一つのルールなのかもしれなかった。
「難しいですね、それ。信じすぎるなって言われたら疑いたくなるし、疑うなって言われたら、逆に信じ込みたくなる」
俺がそう漏らすと、灯里さんは小さく笑った。
「うん。だから私も、毎回手探りなんだと思う。三回目の今も、正解が分かってるわけじゃない」
その言葉に、俺は少しだけ気が楽になった。灯里さんほどの経験者でも、まだ手探りなのだ。だとすれば、俺が今、こんなにも不安なのも、当然のことなのかもしれない。
「灯里さんは、怖くないんですか。三回もここに来てて」
「怖いよ、もちろん。でも、怖さにも慣れがあるっていうか……最初の頃みたいに、パニックにはならなくなった。それが良いことなのか悪いことなのか、今でもよく分からないけど」
その言葉には、経験を重ねた者だけが持つ、複雑な諦観のようなものが滲んでいた。俺はまだ、その領域には辿り着いていない。むしろ、今この瞬間も、恐怖と隣り合わせで歩き続けている。
ふと、自分のスマホの画面が、さっきよりもわずかに暗く感じられることに気づいた。設定を変えたわけではない。バッテリー残量が減るにつれて、画面そのものの発光量が落ちているのかもしれなかった。それとも、単に俺の目が暗闇に慣れすぎて、そう錯覚しているだけなのか。確かめる術はなかった。
「灯里さんのオトナビ、バッテリーどれくらいですか」
「八パーセント……」
灯里さんの声が、初めてはっきりと沈んだ。それまでどんな場面でも、どこか落ち着きを崩さなかった彼女の声に、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「思ったより、早いですね」
「うん……このペースだと、多分、あと三十分も保たないと思う」
その言葉が、これまでの緊張感を、一段階引き上げた。三十分。それは、もう猶予と呼べるようなものではなかった。
「ミチシルベ、お前のバッテリーが切れたら、俺は本当にどうなるんだ。前にも聞いたけど、もう一度、正直に教えてくれ」
「……正直に申し上げます。私との通信が完全に途絶えた場合、佐倉さんがこの場所からどう戻られるのか、私には保証できません。ただ、可能性として、灯里さんのオトナビが機能している間は、お二人で行動を共にすることで、多少のリスクは分散できるかもしれません」
「分散、か。じゃあ、一人だけ生き残ればいい、みたいな話じゃないんだな」
「そういう意味ではありません。ただ、どちらか一方でも、案内できる声が残っていれば、その分、選択肢が増える、という意味です」
灯里さんが、静かに頷いた。
「そうだね。だから、これからは、なるべく二台とも同時に使わないようにしよう。片方で確認できることは、もう片方は聞くだけにする、とか」
「それ、いいですね。俺のミチシルベに聞くときは、灯里さんのオトナビは休ませる。逆もそうする」
「うん、そうしよう」
そう決めただけで、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。何もかもが不確かなこの場所で、自分たちで決めたルールが一つでもあるということが、思った以上に心の支えになっていた。
俺たちは、井戸のそばから立ち上がった。まだ見ぬ先に、答えが待っているはずだった。青い光の方角へ、俺たちは再び足を踏み出した。石を踏む音、土を踏む音、それぞれの足音が、静まり返った広場に短く響いて、すぐに闇へと吸い込まれていった。




