第1節 刻まれた名前
近づいてみると、それは朽ちかけた小さな掲示板だった。色あせた紙が何枚か貼られている。文字はほとんど読み取れなかったが、一枚だけ、かろうじて読める部分があった。
「『……道に迷った方は、この先の……』」
途中で文字が消えていて、続きは分からなかった。だが、これがただの偶然の張り紙でないことだけは、確かに感じ取れた。
「ミチシルベ、この掲示板、何か分かるか」
「……申し訳ありません。文字としては認識できますが、それ以上の情報は読み取れません。ただ、この先に、何か関係するものがある気がします」
掲示板を過ぎてしばらく歩くと、道は緩やかな下り坂になった。両側の木々が密度を増し、まるでトンネルのように頭上を覆っている。青い光は、その先に見え隠れしていた。足元の土は湿り気を帯びていて、一歩ごとに、かすかな音を立てた。
「灯里さん、前の二回は、どんな感じで終わったんですか」
俺の問いに、灯里さんは少し考えるように黙り込んだ。夜風が、木々の間を吹き抜けていく音だけが、しばらく響いていた。
「一回目は、本当に何も分からないまま終わった。気づいたら、いつもの道に立ってた。時間は……多分、あんまり経ってなかったと思う。スマホの時計を見ても、迷い込む前とほとんど変わってなかった」
「二回目は?」
「二回目は、ちょっと違った。オトナビに『目を閉じて、私の声だけを聞いていてください』って言われて、そうしたら、いつの間にか戻ってた。目を開けたら、知ってる交差点に立ってて」
「言われた通りにしたら、戻れた、ってことですか」
「多分ね。だから、さっきも言った通り、アプリの言うことを最後まで聞くのが、一番安全な気がしてる」
坂を下りきると、開けた場所に出た。広場のような空間で、中央に古い井戸が残っている。井戸の周りには、いくつかの石が円を描くように並べられていた。石の表面には、うっすらと苔が生していて、長い年月そこにあり続けたことをうかがわせた。
時刻は三時四十九分。バッテリー残量は十二パーセント。数字を見た瞬間、喉の奥が小さく締まるのを感じた。二桁の、それも一の位に近い数字を見るのは、これが初めてだった。
「これ、何でしょうね」
「分からない。でも、なんとなく、近づかない方がいい気がする」
灯里さんの言葉に、俺も同意した。理由はうまく説明できないが、その井戸には、見てはいけないものが眠っているような、そんな気配があった。井戸の縁から中を覗き込みたい衝動に駆られたが、灯里さんの警告を思い出し、俺は視線をそらした。
「ミチシルベ、この井戸、何か知ってるか」
「……近づかない方がいい、という感覚だけがあります。理由は、うまく言葉にできません。ただ、この場所からは、他の場所とは違う、強い『引力』のようなものを感じます」
「引力、って」
「吸い込まれるような感覚、とでも言えばいいでしょうか。佐倉さんも、もし覗き込みたい衝動を感じたなら、それは危険信号だと思ってください」
その言葉に、俺は思わず井戸から一歩、距離を取った。灯里さんも、無言のまま、井戸から離れるように移動していた。夜の空気の中、井戸の奥からは、かすかに水の匂いのようなものが漂ってくる気がした。それが本当に水の匂いなのか、それとも別の何かなのか、確かめる勇気は俺にはなかった。
広場の隅に、古い立て看板があった。文字はかすれていたが、目を凝らすと、いくつかの名前らしきものが刻まれているのが見えた。
「……これ、名前ですよね」
「うん。多分、ここに来た人たちの名前なんじゃないかな」
灯里さんが、看板に刻まれた文字を、指でなぞるようにして読み上げていく。判読できる範囲は少なかったが、いくつかの名前と、年月らしき数字が並んでいた。一番古いものは、五十年以上前の日付だった。
「五十年前から、こんな場所があったってことですか」
「少なくとも、その頃から、ここに迷い込んだ人がいた、ってことだと思う」
俺の中で、何かがすっと冷えていくのを感じた。この裏道が、単なる最近の異変ではなく 、もっとずっと昔から存在していたのだとしたら——そこには、俺たちの知らない、もっと大きな仕組みがあるのかもしれない。看板の文字を、俺はもう一度、上から下まで目で追った。名前の中には、一部だけ、赤く色を塗られたような跡が残っているものもあった。
「この赤いの、何でしょう」
「分からない。もしかしたら……戻れなかった人と、戻れた人を、区別してるのかも」
灯里さんの声が、わずかに震えていた。もしその推測が正しいなら、この看板は、単なる記録ではなく、この裏道が抱えてきた「結果」そのものを示していることになる。俺は無意識に、自分の名前がまだどこにも刻まれていないことを確かめるように、看板の空白部分に目をやった。




