天主会議
六月五日――。
明智光秀は軍勢を率い、安土へ到着した。
家臣たちは甲冑を脱ぎ、直垂姿で入城した。光秀と左馬之助は、鮮やかな青の直垂であった。
光秀は、大手門の前で足を止めている家臣たちを振り返った。
「誰もおらぬ……さあ、上がるぞ」
光秀が先頭に立ち、大手道を歩き始めた。
安土城の大手道は幅広く、真っすぐに伸びる石段である。普段であれば、信長に謁見する大名や武士、着飾った小姓たちで賑わっていたはずの広大な石段は、もぬけの殻であった。
光秀の後方を歩く馬の蹄音が、左右の高い石垣に反響し、城全体に響き渡るような静けさがあった。左右には羽柴秀吉、前田利家、徳川家康の屋敷が並んでいたが、門は固く閉ざされるか、あるいは開け放たれたまま。人の気配は消え、ただ風だけが通り抜けていた。
光秀は大手道を曲がり、山の中腹にある黒鉄門へ達した。ここからは斜面が急となり、馬を供回り衆に預け、さらに上へと進んだ。
本丸へ続く石段の先では、いつも信長の乾いた笑い声が待っていた。
「遅いぞ、光秀!」
光秀は、心のどこかでその声を待っていた。
だが――今日は静まり返っていた。聞こえるのは、初夏の湿った風に揺れる木々のざわめきだけであった。
***
本丸の大広間では、家臣たちが中央を開け、左右に座していた。それでも大広間は広く、まだ幾人でも入れそうであった。
その中央の道――光秀は、そこを静かに歩いていった。左右の家臣たちは、深々と頭を下げていた。
正面には信長の甲冑が飾られ、上座は一段高く設えられていた。光秀はその前で、ふと足を止めた。数名の家臣が、そっと頭を上げ、その様子を見つめていた。
光秀は波風を立てぬよう、静かに段を上り、上座に座すと、大きく息を吐いた。
しばし、沈黙が大広間を支配した。
左馬之助が光秀を見つめ、深く頷いた。
光秀は、ゆっくりと口を開いた。
「皆、これまでよう辛抱してくれた。大儀であった。この光秀、そなたらの働きに報いたい」
その時――小姓たちが漆塗りの三方を両手で抱え、すり足で大広間へ入ってきた。三方は家臣一人ひとりの前に置かれ、白布が掛けられていた。
小姓たちが布を外した瞬間――家臣たちは誰一人、声を発さなかった。
そこに並んでいたのは、茶器であった。
茶碗、茶入れ、釜――いずれも、この時代の武将であれば、価値を知らぬ者はいない名品ばかり。
光秀は静かに言った。
「信長様ご愛用の品だ。受け取ってくれ――」
家臣たちは畏れ多く、誰も手を伸ばそうとはしなかった。
その沈黙を破ったのは、藤田伝吾であった。
「これらの茶器は、一国に値すると申される天下の名器。このような品、我らが頂くわけには参りませぬ」
光秀は穏やかに微笑んだ。
「よいのじゃ。皆に分け与えたいのじゃ」
***
家臣たちは、幾度も訪れたはずの城であるにもかかわらず、どこかよそよそしさが抜けなかった。城内の装飾は坂本や丹波亀山とは異なり、煌びやかな品々が多く、いまだ『信長の城』という印象が色濃く残っていた。
その中で、左馬之助の足取りは、いつになく慎重であった。まだ一度も踏み入れたことのない、未知の領域へ向かっていたからである。
主君・光秀から「見せたいものがある」と誘われたのだ。
場所は、安土城の天主であった。
左馬之助は、一階の暗さ――
墨で描かれた地獄の景、中国の聖人たちが並ぶ異様な空間に違和感を覚え、足早に階段を上った。
二階は一転、金箔の眩いばかりの世界で、思わず瞬きを忘れた。春の花々が咲き誇る絵が壁一面に広がり、左馬之助は不思議な心地に包まれた。
階を上がるごとに、黒、金、朱、金と空間の色が変わり、左馬之助は自分がどこにいるのか、次第に分からなくなっていった。八角を思わせる奇妙な造りの部屋であった。同時に、階段の斜面が徐々にきつくなっていることにも気づいた。
そして――
最上階。
ここも内部は金箔で覆われ、金に輝く雲と天女が描かれ、左馬之助は一瞬、ここが極楽なのではと錯覚した。
部屋には光秀、利三、伝吾が立ち、外の景色を眺めていた。三人は振り返り、左馬之助の到着を待ちわびていた。
光秀は笑みを浮かべ、静かに問うた。
「如何じゃった……」
利三も伝吾も、うっすらと笑みを浮かべていた。
左馬之助は息を整え、言葉を探した。
「信長様のお考えが……さっぱり分かりませぬ。あのお方は……」
光秀が口を挟んだ。
「我らも分からぬ――」
光秀は笑っていた。
「こい、左馬之助」
光秀は左馬之助に、外を眺めるよう促した。
「これは……」
左馬之助は言葉を失った。
西の空に陽が沈みかけ、空には鮮やかな夕焼けが広がっていた。琵琶湖の湖面には橙の帯が伸び、星のように瞬いているように見えた。
「なんと……美しい……」
光秀は静かに言った。
「御館様だけが見られた景色じゃ……」
そう言うと、光秀はそっと部屋の中へ戻っていった。
「今宵は皆で宴じゃ。素面のうちに、話しておかねばならぬことがある」
主君の言葉に、利三・伝吾・左馬之助は何も言わず、静かに腰を落とした。最後に光秀が座に就いた。
光秀は三人を見渡し、低く告げた。
「よいか、誰がやったか、誰が糸を引いておったか――それらは、もはや終わったことじゃ」
光秀は一人ひとりの目を見つめ、釘を刺した。
「では……『誰を狙ったか』、ということじゃ」
この問いに、左馬之助が口を開いた。
「信長様は五十におなりでした。いくら精進されていても……先は長くはござらぬ。しかし――信忠様は二十六。まだお若い。その才は年々冴え、家臣一同、皆が認めておりました。狙われたのは――信忠様とみて間違いございませぬ」
「拙者も同じ考えじゃ」
斎藤利三も静かに頷いた。
「二条御所を襲った兵が主力であろう。雑賀衆、伊賀者を雇い、強襲した。比叡山の雑兵は、まず本能寺に注力させ、それが済めば二条御所へ向かう手筈であったのじゃろう」
藤田伝吾も大きく頷いた。
「これは、京の民が噂しておったことですが――」
伝吾の言葉に、三人の体が自然と前へ傾いた。
「地下に蔵があったと、噂話に花が咲いておるようにございます」
伝吾は苦笑を浮かべた。
利三が鋭く言った。
「笑い話ではない。はっきり申せ」
伝吾は姿勢を正した。
「ある豪商が、南蛮との貿易を独占しようとしていたとか。信長様と硝石や鉛の買い付けの約定を結ぼうとしていた――そのような話が流れております」
伝吾は含みを持たせ、そのまま続けた。
「もし、御館様が地下の蔵を使い、生きておられれば……」
「生きておられればな……」
光秀が伝吾の言葉を遮った。
そして、静かに言い添えた。
「生きておられても……我が明智は断絶じゃ」
その一言に、全員が沈黙した。
世間では、明智がやったことになっている――
その現実を、誰もが思い出した。
利三が低く言った。
「信長様は、もうおられぬ」
光秀は静かに告げた。
「我は――やっておらん」
重臣三将は、強く頷いた。
すぐに左馬之助が口を開いた。
「しかし――もう演じねばなりませぬ。その時が来ております」
伝吾が続けた。
「左様。味方を募らねばなりませぬ」
利三は戦の算段を思い描きながら言った。
「近江(滋賀)の国衆だけでは足りませぬ」
左馬之助は扇子を手に取り、目の前の板を軽く叩きながら話し始めた。
「北からは柴田殿、東からは徳川殿。摂津(大阪)からは信孝様・丹羽殿。西からは筑前殿。四方を取り囲まれております――細川殿、筒井殿には味方となっていただけるよう、 書状を送りましょう」
光秀はここで顔を上げ、静かに重臣たちを見渡した。
「禁裏(御所)もな――」




