↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/22

天主会議

六月五日――。

明智光秀は軍勢を率い、安土へ到着した。


家臣たちは甲冑を脱ぎ、直垂《ひたたれ》姿で入城した。光秀と左馬之助は、鮮やかな青の直垂であった。


光秀は、大手門の前で足を止めている家臣たちを振り返った。

「誰もおらぬ……さあ、上がるぞ」


光秀が先頭に立ち、大手道を歩き始めた。


安土城の大手道は幅広く、真っすぐに伸びる石段である。普段であれば、信長に謁見する大名や武士、着飾った小姓たちで賑わっていたはずの広大な石段は、もぬけの殻であった。


光秀の後方を歩く馬の蹄音が、左右の高い石垣に反響し、城全体に響き渡るような静けさがあった。左右には羽柴秀吉、前田利家、徳川家康の屋敷が並んでいたが、門は固く閉ざされるか、あるいは開け放たれたまま。人の気配は消え、ただ風だけが通り抜けていた。


光秀は大手道を曲がり、山の中腹にある黒鉄門へ達した。ここからは斜面が急となり、馬を供回り衆に預け、さらに上へと進んだ。


本丸へ続く石段の先では、いつも信長の乾いた笑い声が待っていた。

「遅いぞ、光秀!」

光秀は、心のどこかでその声を待っていた。


だが――今日は静まり返っていた。聞こえるのは、初夏の湿った風に揺れる木々のざわめきだけであった。



***


本丸の大広間では、家臣たちが中央を開け、左右に座していた。それでも大広間は広く、まだ幾人でも入れそうであった。


その中央の道――光秀は、そこを静かに歩いていった。左右の家臣たちは、深々と頭を下げていた。


正面には信長の甲冑が飾られ、上座は一段高く設えられていた。光秀はその前で、ふと足を止めた。数名の家臣が、そっと頭を上げ、その様子を見つめていた。


光秀は波風を立てぬよう、静かに段を上り、上座に座すと、大きく息を吐いた。


しばし、沈黙が大広間を支配した。


左馬之助が光秀を見つめ、深く頷いた。

光秀は、ゆっくりと口を開いた。


「皆、これまでよう辛抱してくれた。大儀であった。この光秀、そなたらの働きに報いたい」


その時――小姓たちが漆塗りの三方を両手で抱え、すり足で大広間へ入ってきた。三方は家臣一人ひとりの前に置かれ、白布が掛けられていた。


小姓たちが布を外した瞬間――家臣たちは誰一人、声を発さなかった。

そこに並んでいたのは、茶器であった。


茶碗、茶入れ、釜――いずれも、この時代の武将であれば、価値を知らぬ者はいない名品ばかり。


光秀は静かに言った。


「信長様ご愛用の品だ。受け取ってくれ――」


家臣たちは畏れ多く、誰も手を伸ばそうとはしなかった。

その沈黙を破ったのは、藤田伝吾であった。


「これらの茶器は、一国に値すると申される天下の名器。このような品、我らが頂くわけには参りませぬ」


光秀は穏やかに微笑んだ。

「よいのじゃ。皆に分け与えたいのじゃ」



***


家臣たちは、幾度も訪れたはずの城であるにもかかわらず、どこかよそよそしさが抜けなかった。城内の装飾は坂本や丹波亀山とは異なり、煌びやかな品々が多く、いまだ『信長の城』という印象が色濃く残っていた。


その中で、左馬之助の足取りは、いつになく慎重であった。まだ一度も踏み入れたことのない、未知の領域へ向かっていたからである。


主君・光秀から「見せたいものがある」と誘われたのだ。

場所は、安土城の天主であった。


左馬之助は、一階の暗さ――

墨で描かれた地獄の景、中国の聖人たちが並ぶ異様な空間に違和感を覚え、足早に階段を上った。


二階は一転、金箔の眩いばかりの世界で、思わず瞬きを忘れた。春の花々が咲き誇る絵が壁一面に広がり、左馬之助は不思議な心地に包まれた。


階を上がるごとに、黒、金、朱、金と空間の色が変わり、左馬之助は自分がどこにいるのか、次第に分からなくなっていった。八角を思わせる奇妙な造りの部屋であった。同時に、階段の斜面が徐々にきつくなっていることにも気づいた。


そして――

最上階。


ここも内部は金箔で覆われ、金に輝く雲と天女が描かれ、左馬之助は一瞬、ここが極楽なのではと錯覚した。


部屋には光秀、利三、伝吾が立ち、外の景色を眺めていた。三人は振り返り、左馬之助の到着を待ちわびていた。


光秀は笑みを浮かべ、静かに問うた。

「如何じゃった……」


利三も伝吾も、うっすらと笑みを浮かべていた。

左馬之助は息を整え、言葉を探した。


「信長様のお考えが……さっぱり分かりませぬ。あのお方は……」


光秀が口を挟んだ。

「我らも分からぬ――」

光秀は笑っていた。


「こい、左馬之助」

光秀は左馬之助に、外を眺めるよう促した。


「これは……」

左馬之助は言葉を失った。


西の空に陽が沈みかけ、空には鮮やかな夕焼けが広がっていた。琵琶湖の湖面には橙の帯が伸び、星のように瞬いているように見えた。


「なんと……美しい……」


光秀は静かに言った。

「御館様だけが見られた景色じゃ……」

そう言うと、光秀はそっと部屋の中へ戻っていった。


「今宵は皆で宴じゃ。素面のうちに、話しておかねばならぬことがある」


主君の言葉に、利三・伝吾・左馬之助は何も言わず、静かに腰を落とした。最後に光秀が座に就いた。


光秀は三人を見渡し、低く告げた。


「よいか、誰がやったか、誰が糸を引いておったか――それらは、もはや終わったことじゃ」


光秀は一人ひとりの目を見つめ、釘を刺した。

「では……『誰を狙ったか』、ということじゃ」


この問いに、左馬之助が口を開いた。


「信長様は五十におなりでした。いくら精進されていても……先は長くはござらぬ。しかし――信忠様は二十六。まだお若い。その才は年々冴え、家臣一同、皆が認めておりました。狙われたのは――信忠様とみて間違いございませぬ」


「拙者も同じ考えじゃ」

斎藤利三も静かに頷いた。


「二条御所を襲った兵が主力であろう。雑賀衆、伊賀者を雇い、強襲した。比叡山の雑兵は、まず本能寺に注力させ、それが済めば二条御所へ向かう手筈であったのじゃろう」


藤田伝吾も大きく頷いた。

「これは、京の民が噂しておったことですが――」


伝吾の言葉に、三人の体が自然と前へ傾いた。


「地下に蔵があったと、噂話に花が咲いておるようにございます」

伝吾は苦笑を浮かべた。


利三が鋭く言った。

「笑い話ではない。はっきり申せ」


伝吾は姿勢を正した。


「ある豪商が、南蛮との貿易を独占しようとしていたとか。信長様と硝石や鉛の買い付けの約定を結ぼうとしていた――そのような話が流れております」


伝吾は含みを持たせ、そのまま続けた。

「もし、御館様が地下の蔵を使い、生きておられれば……」


「生きておられればな……」

光秀が伝吾の言葉を遮った。


そして、静かに言い添えた。

「生きておられても……我が明智は断絶じゃ」


その一言に、全員が沈黙した。

世間では、明智がやったことになっている――

その現実を、誰もが思い出した。


利三が低く言った。

「信長様は、もうおられぬ」


光秀は静かに告げた。

「我は――やっておらん」


重臣三将は、強く頷いた。

すぐに左馬之助が口を開いた。


「しかし――もう演じねばなりませぬ。その時が来ております」


伝吾が続けた。

「左様。味方を募らねばなりませぬ」


利三は戦の算段を思い描きながら言った。

「近江(滋賀)の国衆だけでは足りませぬ」


左馬之助は扇子を手に取り、目の前の板を軽く叩きながら話し始めた。


「北からは柴田殿、東からは徳川殿。摂津(大阪)からは信孝様・丹羽殿。西からは筑前殿。四方を取り囲まれております――細川殿、筒井殿には味方となっていただけるよう、 書状を送りましょう」


光秀はここで顔を上げ、静かに重臣たちを見渡した。

「禁裏《きんり》(御所)もな――」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。