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村井貞勝

五月二十七日――。

雨上がりの夜気は冷たく、丹波亀山城の書院に座る光秀の肌を刺した。庭先も書院も、深い闇に沈んでいた。


膳の上には一人分の盃が置かれていたが、見上げる夜空に月はない。


愛宕山で引いた三つのおみくじ──

「凶」「凶」「大凶」。

その言葉が、闇の底から何度も蘇ってくる。


(月明かりさえ拒まれたような、この闇こそ今の我が心そのものではないか――)


そこへ、近習が駆けてきた。

「殿、森蘭丸様からにございます」


光秀は書院に入った近習から、書状を受け取った。


『御館様、二十九日、本能寺入り。

 六月二日、中国へ向け出陣。

 明智軍、鳥羽にて合流されたし』


酒気が一瞬で消えた。


五月二十九日から六月二日──

信長が最も手薄になる入洛。光秀の胸が締めつけられた。


「何をせよ、というのだ……」

光秀は書状を握りしめ、闇を睨んだ。


「誰かおらぬか!」


張り上げた声に、近習がすぐに駆け寄る。

「ハッ……」


「そこで待て」

光秀は筆を執った。


闇の中、酒を酌み交わす相手もおらず、筆の走る音だけが書院に響く。


書き終えた光秀の手の動きは、迷いを振り払ったかのように正確で速かった。


『左馬之助へ。

 一刻を争う。

 直ちに兵の改めを終えよ』


光秀は書状を折り、近習へ渡した。


「利三を呼べ」

光秀は矢継ぎ早に指示を出した。


家老・斎藤利三《さいとうとしみつ》は、書院へ姿を見せ、主君の前に膝をついた。光秀から書状を受け取り、すぐに目を通す。


「なぜ、京へ回らねばならぬのですか……」


光秀の頬が一瞬、ふっと緩んだ。


側近中の側近であり、軍事の実務を担う利三だからこそ、最短の進軍ではない「京への立ち寄り」に疑問を呈したのだ。


「筑前殿(羽柴秀吉)は毛利勢に手こずっているご様子……ならば、なぜこれほど時を稼がれる……」


利三の不満を汲み取り、光秀はふっと微笑むと銚子を手に取った。


利三は一瞬驚いたが、すぐに盃を持ち、深く頭を下げた。


「御館様は、そこで我ら明智の軍を検分されたいのだ。鳥羽で待てとの命は──あくまで表向きよ」


利三は深く頷いた。ともに幾度も死線を越えてきた間柄、もはや言葉を尽くす必要はない。


「二日に出陣となれば――備中入りは七日頃ですな」


光秀は盃を持ち、水面に広がる波紋を見つめた。

そして、一息に飲み干した。


***


翌二十八日の夕刻――。

珍しい来客に、光秀の目が見開かれた。


「貞勝殿が……」


光秀は書院を急ぎ整え、藤田伝吾に「お通しせよ……」と告げた。


村井貞勝《むらいさだかつ》――

信長より京の統治を任される男。かつて光秀も貞勝の補佐役として京の政務に携わり、二人は旧知の仲であった。


「光秀殿、戦の支度は進んでおるかの」


光秀は貞勝の穏やかな笑顔を見つめた。

だが――

その笑みは目に届いていない。


明日は信長の入洛――。

献上品の準備、公家・寺社との調整で奔走しているはずの男が、なぜここに。


光秀も笑顔を見せ、

「いつでも出陣できますぞ」と応じた。


「今宵は泊まっていかれませぬか」

光秀の急な申し入れに、貞勝は笑みを浮かべた。

「誰が御館様を出迎えるのじゃ」


光秀は「ははは」と笑ったが、(なぜここに――)という疑念が胸を刺した。


その直後――貞勝の笑みが消えた。

光秀の笑みも同時に消えた。

笑みを脱ぎ捨てた二人の視線が、静かに交差した。


貞勝は懐から紙を取り出し、座に広げた。

京から備中までを描いた地図である。


「御館様は、『急がずともよい』と仰せだ」


光秀は眉を寄せた。

「なぜじゃ」


地図の山陽道には、いくつかの地名が朱で囲われていた。


「筑前殿じゃ。御館様のために御座所を用意しておる」

貞勝の指が、朱で囲われた地名をなぞっていた。


その遠からず、近からずの配置に、光秀は息を呑んだ。

「さすがは筑前殿じゃ」


挿絵(By みてみん)


「京から備中の間、街道沿いにずらりと用意しておる。光秀殿も道中、ごゆるりとなされよ」


だが、光秀は笑わなかった。


「他には誰が来られる」


「細川殿、池田殿、高山殿、中川殿――安土の本隊も合わせれば、五万にはなるじゃろう」


「五万……」

(大軍勢じゃ……)


「徳川殿も二万出すと申しておる」


「徳川殿もか――」

「左様。大所帯じゃ」


光秀は大きく息を吐いた。


貞勝は指で眉を掻き、わずかに視線を落とした。


「気になることがあっての……お耳を」


貞勝は扇子を広げ、顔を隠すように光秀へ寄せた。

「御所の動きが怪しい……公家衆が、何やら動いておる……」


「帝が、動くと申されるか」

「声が大きい、光秀殿」


光秀は促されて声を落とし、ゆっくりと目を閉じた。


「何か聞き及んでおらぬか……」


貞勝の問いに、光秀が目を閉じた瞬間、闇が押し寄せてきた。


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