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愛宕神社

五月十九日――。

光秀は居城の坂本城にいた。


書院の外から聞こえる湖のさざ波が、張り詰めた心を和らげていた。


徳川家康の接待役という大役を果たし、その任を堀秀政へ引き継いだばかりであった。今ごろ家康は安土城で能を鑑賞しているはずだった。


だが光秀は、信長より新たな軍令を受けていた。


『家康の接待、ようやった。

秀吉を助けに向かえ。毛利に手こずっておる』


光秀の役目は一転し、西国への援軍となった。


坂本城内では戦支度が始まり、家臣たちが慌ただしく動いている。光秀の前には古びた紙が置かれ、そこには動員可能な兵数が記されていた。


(兵一万三千。二万には届かぬか――)


報告は娘婿・左馬之助《さまのすけ》(明智秀満)からのものだった。


光秀は大きく息を吐いた。

信長からは「二万を率いて参れ」と命じられていたからである。


その時、左馬之助が書院へ姿を見せた。手には折りたたまれた一通の書状を持っている。


「行祐《ぎょうゆう》様からにございます」


「行祐様から……」

光秀は思わず声を漏らした。


左馬之助は一礼して去り、光秀は書状を広げた。


読み進めるにつれ、光秀の表情が、ふっと柔らかくなる。


「お耳が早いの……」


威徳院《いとくいん》行祐《ぎょうゆう》――

愛宕山五坊の一つ「威徳院」の住職であり、光秀とは以前より親交があった。光秀は、かつて愛宕山へ二百石を寄進しており、行祐はその恩義を忘れていなかった。


書状には、こう記されていた。


『西国へ向かわれるのであれば、

その前に愛宕山にて戦勝祈願の連歌を営み、

心を整えられては如何か』


光秀は微笑み、声を張った。

「左馬之助、おるか──」


***


五月二十四日――。

この日は激しい雨が降っていた。


光秀は行祐と面会すると、西坊と呼ばれる宿坊に通された。


「ご無沙汰しております」

光秀が声をかけ、行祐が座につくのを見届ける。


「お忙しいところ、ご足労いただき、祝着にございます」

行祐は両手を合わせ、深々と頭を下げた。


その指先が、ほんの少し震えているのを、光秀は見逃さなかった。雨の冷気か、それとも不安か──。


板葺きの屋根を叩く雨音が、沈黙の合間を埋めるように響いていた。


「本日お越しいただいたのは、他でもございませぬ。近頃、清滝へ落ちる谷筋が、騒がしゅうございまして――」


光秀は、とっさに目を細めた。


「騒がしいとは……」


行祐は深く息をつき、話を続けた。


「ある僧が申すのです。夜半、谷の奥にて、得体の知れぬ乾いた音が響くと。その者の話では、あれは火縄の音ではないかと。日向守《ひゅうがのかみ》様、どうか愛宕にて戦勝祈願を営まれつつ、山を鎮めてはいただけませぬか」


(火縄じゃと――)

光秀の顔から笑みが消えた。


行祐は、さらに声を潜めた。


「比叡の焼き討ちを逃れた者どもが、いまも山奥に潜んでおる――そのような噂を、耳にしております」


「それが、愛宕の山に関わると……」


「清滝へ下る谷筋にて、姿を見た者があると……」


光秀は肝を冷やした。


その時、若い僧が書院に近づいた。

「日向守様、お支度が整いました」


光秀は行祐の指から視線を外し、僧に向き直った。その一瞬、鋭い殺気が漏れ、僧は思わず身を引いた。


光秀は僧の後に続き、西坊の広間へ向かった。屋根を激しく叩く雨音が耳に障り、苛立ちが胸に広がる。


雨音とは違う、乾いた音が聞こえるのではないか――

光秀は足を止め、雨霧の奥に沈む谷筋を睨み返した。


***


広間には連歌の会に相応しく、静かな空気に満ちていた。


当代随一の連歌師・里村紹巴《さとむらじょうは》、その弟子・里村昌叱《さとむらしょうしつ》、連歌師・猪苗代兼如《いなわしろけんにょ》、そして光秀の嫡男・光慶《みつよし》らが、すでに座についていた。


廊下での動揺を悟られぬよう、光秀はゆっくりと、極めて丁寧に座についた。


連歌の会では、正装が原則だった。


光秀は烏帽子《えぼし》を正し、直垂《ひたたれ》の膝を整えた。


主催者である光秀が、発句《ほっく》を詠むことになっていた。


懐紙のわずかな凹凸、筆の穂先の柔らかさを指先で確かめる。古い香の匂いと、湿った畳の匂いが鼻をくすぐった。


光秀は、あれほど気にしていた雨音を、意識の底へ押し込もうとした。


ふと正面の行祐と目が合う。

その瞳は──すべてを見透かしているようでもあり、同じ恐怖を共有しているようでもあった。


硯《すずり》で墨を磨る音でさえ、火縄銃の火蓋を切る音に聞こえる。指先の震えが、墨の一滴を懐紙に落とした。


光秀は目を閉じ、息を整え、口を開いた。


『時《とき》は今《いま》 

 雨《あめ》が下《した》なる 

 五月《さつき》哉(かな)哉《かな》』


詠み終えた光秀は、雨に煙る外をじっと見つめた。


(聞こえぬ。雨がすべてを覆い隠す。比叡の怨念が近くにこようとも、この雨の下にある私は、主君か、あるいは光秀が屠《ほうむ》られるのを待つしかないのか。この五月は、明智を──いや、織田の天下そのものを泥へ沈めるつもりか……)


光秀の発句は、激しい雨音に呑まれていった。


本来なら風流を愛でる座であるはずが、今はまるで抜身の刀を突きつけられたような殺気が漂っていた。


里村紹巴は、光秀の握る筆先が懐紙を突き破らんばかりに、震えているのを見逃さなかった。


(日向守様、これは連歌ではござらぬ――悲鳴にございます)

紹巴はそう確信し、冷や汗が背を伝った。


***


西坊を出てから、どれほど歩いただろうか。本殿の脇を抜け、さらに険しさを増す奥の院への道に入る。濁流のような雨水が、足元をさらい、踏みしめるたびに泥が跳ねた。


「日向守様、これ以上は……」

背後で息を切らす行祐の声も、激しい雨音に呑まれていく。


標高九百メートルの頂に近いそこは、下界の五月とは別世界の、凍てつく冷気に支配されていた。


ようやく辿り着いた奥の院の崖際。晴れていれば京から山の稜線を一望できるその場所は、今や底の知れぬ闇に沈んでいた。


光秀は、この三日間、ひたすら清滝へと続く谷の方角に耳を澄ませていた。だが降り続く雨は、すべての音を消し去っていた。


(この雨で、火縄を保てるはずがない。だが、もし使う者がおるのなら――それは、雨を避ける場所を持つ者じゃ)


その疑念が、三日分の重みとなって光秀の肩にのしかかっていた。


行祐は、もはや執念に近い眼差しで光秀を見つめていた。三日間付き添った彼もまた、疲れ果て、責任感に押し潰されそうになっていた。


「日向守様、三日三晩、こうして耳を澄ませてまいりましたが――この雨では、いかに日向守様といえど聞こえませぬ。お体を壊しまする。どうか宿所へお戻りくだされ――」


光秀は屋根の外から吹き付ける、冷たい雨に濡れた顔を拭おうともせず、ただ闇の向こうを凝視していた。その瞳は、見えぬ敵を探し続け、焦点が合っていなかった。


行祐は、これから戦へ向かう光秀を案じ、このまま返すわけにはいかぬと決意する。


「最後の一夜、本殿へ戻り、神仏にお問いなされませ。これほど尽くされたのです。神仏も、きっとお答えくださりましょう……」


光秀はようやく頷き、行祐を見た。


三日間の緊張と疲労で、直垂(ひたたれ)は湿気を吸って重くなり、体温を奪っていた。その冷えが、比叡山焼き討ちの夜を思い起こさせた。


「あい、わかった……」


その言葉を聞き、行祐は大きく息を吐いた。


***


雨の湿気で指先にまとわりつく、くじの竹筒。光秀は振るたびに、己の意志とは無関係に、運命が勝手に音を奏でるような恐怖に囚われていた。


すでに二度引き、いずれも「凶」。

そして三度目──

震える手で三度も引き直す光秀を見て、行祐は悟った。


(この方は託宣《たくせん》を求めておられるのではない。『やめよ』と言ってほしいのだ……)


三度目は「大凶」だった。


光秀は、誰に向けるでもなく呟いた。

「何をすれば良いと申されるのですか――」


その声は、神仏への怒りのようでもあり、己の無力さへの嘆きのようでもあった。


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