出陣前夜
六月一日、丹波亀山城――。
出陣を控え、城内は張り詰めた空気に包まれていた。
誰もが西国へ向かうと信じている喧噪の中、光秀は最も信頼する三将――斎藤利三、明智左馬之助(秀満)、藤田伝吾を書院に呼び寄せた。
外からは馬のいななき、武具の触れ合う音が微かに響いていた。
男たちは、丹波亀山から京へ至る地図を囲んでいた。
光秀は三将の表情を見つめ、静かに口を開いた。
「御館様の御身が危うい」
三人の視線が光秀に集まった。
光秀は独り言のように、淡々と語り続けた。語り終えた時、書院は深い沈黙に包まれた。
筆頭家老の斎藤利三。
武勇に鳴る藤田伝吾。
娘婿・明智左馬之助。
三人は、主君が数日間、ただ一人でその恐怖に耐えていたことを悟り、戦慄していた。
だが――光秀は、比叡山と御所が繋がっているかもしれぬという『最悪の確信』だけは伏せていた。
「よいか。御館様に悟られてはならぬ。悟られれば、我らの落ち度を責められ、京は再び血の海となる。あやつらが動く前に、本能寺を包囲し、御館様をお守りするのだ」
光秀の眼光が鋭く光る。
三将は顔を上げ、その表情が決意へと変わっていった。
最初に声を上げたのは、筆頭家老の利三だった。
「たとえ御館様の御命に背こうとも――これこそ忠義にござる」
続いて伝吾が、拳を握りしめて言った。
「比叡山の鼠ども、一匹たりとも生かしてはおきませぬ」
最後に左馬之助が、静かに、噛みしめるように言った。
「愛宕より、殿のお顔が違うと感じておりました……ようやく、その訳が分かりました。 御館様をお守りいたしましょう」
光秀は三人の覚悟を見つめ、深く頷いた。
「よし――」
光秀は静かにそう言うと、指を地図へ落とした。
三将の視線が一点に集まった。
「部隊を三手に分ける。利三、左馬之助は兵二千を率い、本能寺へ直行せよ。伝吾は兵三千をもって宇治川沿いに陣を敷け。本隊は鳥羽にて待機とする。よいな……」
「ハッ!」
三将の声が書院に響いた。
光秀の指先には、愛宕山でくじを引いた時の震えは、もはや微塵もなかった。
光秀は利三と左馬之助を見つめた。
自らの「右腕」と「娘婿」を、死地へ送り出す決断である。
「利三、左馬之助。すべては貴公らの迅速な働きにかかっておる。鼠どもが動く前に寺を囲め。一兵たりとも逃がすな」
二人は大きく頷き、「ハッ!」と短く応えた。
「本能寺は狭い。大軍で囲めば、御館様は『世を臆病者と侮るか』と激怒されよう。二千――それが御館様のお心を傷つけず、なお守り切れる限りよ」
光秀は、ふっと息を吐き、低く付け加えた。
「ほどほどにな……」
その一言に、利三は主君の目の奥に、深い哀しみの影を見た。それは命令というより、気難しい恋女房や老親を気遣うような、危うい優しさであった。
「ハッ――音も立てず、影のごとく包囲いたします」
左馬之助の答えに、光秀は満足げに、しかし、どこか寂しげに一度だけ頷いた。
その時、利三が進軍路について声を上げた。
「では、先鋒二千は唐櫃越、老ノ坂の北を抜けまする。別動隊は王子越、本隊は老ノ坂越えでよろしいか」
「左様。本隊・別動隊は沓掛にて合流し、京へ向かう」
三将は強く頷いた。




