一枚の布
天正十年九月十三日、京――。
帰蝶は屋敷の縁側で客人をもてなしていた。
波乱の夏は遠く過ぎ去り、穏やかな秋が静かに訪れようとしていた。蝉の声はすでに消え、庭の木々は濃い緑を失い、淡い色を帯び始めていた。
「我らのお役目も終わりですかな、姉上」
清玉上人がそう言うと、帰蝶は上人から贈られた瓜を手に取り、瑞々しい音を立てて頬張った。
「そうじゃ。あのお方は『秀吉の天下よ、清玉!』と申しておりましょう」
「間違いございませぬな」
二人は、わずかに笑みを交わした。
九月十一日――お市が施主となり法要を営み、翌十二日は秀吉が大徳寺で、同じ日に清玉上人も阿弥陀寺で法要を行った。
帰蝶は、ふと空を仰ぎ見た。
「今頃は……どのあたりであろうの。天竺に着いたころか……」
上人は、その呟きを黙って聞き流した。答えるべきではないと悟ったからだ。
「いつかは『連れて行ってやる』と申して……お一人だけで行ってしもうた……寂しいの……」
帰蝶は、京の山々へ伸びる夕陽をじっと眺めていた。やがて上人が立ち上がった。
「では姉上、清玉はそろそろ……」
「帰るのか。泊まっていかれればよかろう。屋敷は空いておる。もうちと話そうぞ――」
帰蝶の言葉に、上人は微笑んだ。かつて信長に「泊まれ」と駄々をこねられた日のことを思い出したのだ。
「では姉上、また参りまする……」
そう言い残し、清玉上人は屋敷を後にした。
帰蝶は縁側を離れ、ゆっくりと書院へ入った。
彼女の座る傍らには、漆塗りの黒い箱が置かれていた。蓋を開けると、中には布の切れ端が隙間なく仕舞われていた。
それは――
信長が留守にするたび、帰蝶が守り神として手渡していた布だった。
新しいものばかりではない。着なくなった着物の切れ端も混じっている。
そして――
信長は、帰蝶のもとへ帰るたびに、その布切れを必ず返していた。
誰にも知られぬ、二人だけの約束――。
帰蝶は箱の中の布切れを見つめ、そっと呟いた。
「まだ返してもらっていないものが、一枚ございますよ……」
帰蝶は漆の蓋を静かに閉じた。
その声は、秋の夕暮れに溶けるように静かだった。




