↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
20/22

弔いの名の下に

天正十年八月――。

ある日のこと、羽柴秀吉の弟・羽柴秀長は、一通の書状を受け取った。その内容を読み終えた瞬間、秀長の顔から血の気が引いた。


秀長は書状を握りしめ、すぐさま兄・秀吉のもとへ駆け込んだ。


「兄者、大変なことが起きた!」


廊下を荒々しく踏み鳴らす足音に、秀吉は御殿の書院で顔を上げた。

「どうしたんじゃ、小一郎(秀長の幼名)!」


秀長は息を切らしながら兄の前に膝をつき、書状を差し出した。


「柴田勝家殿とお市様(信長の妹)が、信長様の百日法要を、京の妙心寺で営むそうじゃ」


秀吉は書状を受け取り、その指先がわずかに震えた。


秀長は続けた。


「施主は、お市様じゃ。我らは羽柴信勝殿(信長の四男)を推しておるが……お市様には太刀打ちできん……兄者、どうする!」


秀吉の目が大きく見開かれた。

その瞳には、怒りでも恐れでもなく――計算が宿っていた。


秀吉はゆっくりと秀長を見つめ、口元を歪めた。

「わしに、よい考えがある――」


***


秀吉は京のある屋敷を訪れていた。応接間に座し、その人物が姿を現すのを、じっと待っていた。


板間の廊下を、静かに歩く足音が近づいてくる。


秀吉は両拳を膝の前につき、深々と頭を下げた。襖が開く音に、耳を澄ませていた。


「久しいの……羽柴筑前殿」


その女の声を聞いた瞬間、秀吉の背に、ぞくりと寒気が走った。ゆっくりと顔を上げる。


そこに立っていたのは――

織田信長の正室、帰(き)蝶(ちょう)であった。


黒を基調とした小袖。金糸で雲が刺繍され、黒髪は長く艶やかに垂れている。


出家していないその姿に、秀吉は思わず目を見開いた。


「これは、これは、安土様。お目通り叶い、祝着にございます」

秀吉は再び頭を下げ、帰蝶の呼称である『安土』を使い、挨拶を述べた。


帰蝶は、秀吉の背後に控える剃髪した細川幽斎を認め、わずかに頬を緩めた。その微笑みは、秀吉には見えていなかった。


「筑前殿……何やら外が騒がしい。何を持ってきたのじゃ」


帰蝶の問いに、秀吉の胸が締めつけられた。まるで心の内をすべて見透かされているようだった。


「なかなかご挨拶に伺えなかった故……この筑前から、お悔やみの品にございます」


「左様か――」

帰蝶は意味深げに微笑んだ。

「何をしてほしいのじゃ――」


矢継ぎ早の問い。

秀吉は完全に防戦一方だった。


無類の人たらしと評された秀吉の話術は、この帰蝶の前では、まったく歯が立たなかった。


なぜなら――

帰蝶の口ぶりは、信長そのものだった。


秀吉は大きく息を吸い、意を決して口を開いた。


「来月、九月十二日、大徳寺にて信長様の百日法要を営みまする。そこで安土様に施主をお願いしたく……」


「参列はせぬ――」

帰蝶は、秀吉の言葉を最後まで聞かず、冷たく言い放った。


秀吉の顔が強張る。

「では……棺に収める形見の品は……」


「ない――」

帰蝶は短く、鋭く答えた。


そして――

すっと立ち上がった。


絹の擦れる音が、静まり返った間に響く。帰蝶は襖へ向かい、迷いなく開け放った。その背中は、信長の背中と同じように、一切の隙を見せていなかった。


***


阿弥陀寺の清玉上人は、羽柴秀吉と同じ九月十二日に法要を営むことを決めていた。


だが――柴田勝家や羽柴秀吉のそれとは異なり、上人の法要は、ただ純粋に亡き者を弔うためのものだった。


上人は義姉である帰蝶へ文をしたためていた。できれば御台様である帰蝶に施主をお願いしたい――その願いを、丁寧な筆致で記していた。


返事が届いたのは、夜のことだった。

上人は、ろうそくの灯りの下で文を開いた。


紙の上を流れるように走る滑らかな文字。しかし、その筆跡には確かな力が宿っていた。穏やかな語り口の奥に、兄・信長を支え続けた女の強さがあった。


上人は静かに目を閉じた。


そして――手元には、もう一通の書状が置かれていた。差出人は、羽柴筑前守秀吉。


そこには、阿弥陀寺での法要の取りやめ、信長・信忠の墓所移築を求める新たな天下人の命が記されていた。応じれば寺領を寄進する――そう書かれていた。


(格が違い過ぎる……このお方は、人に何かを与えれば……誰でもなびくと思っておられるのか……)


上人は、静かに目を閉じた。

その時――本殿に弟子の一人が入ってきた。


「上人、客人にございます。お通しまするか……」


上人はしばし考え、

「また商人か」と尋ねた。


弟子は首を振った。

「いえ、徳川様のご家臣だと申されております」


上人は、わずかに目を開いた。

「お通ししなさい」


客人が本堂へ来る前に、上人は帰蝶からの美しい文を懐にそっとしまった。そして――秀吉からの書状を、ろうそくの火へ静かに掲げた。紙はゆっくりと燃え上がり、赤い炎が秀吉の文字を飲み込んでいく。


上人は、その炎が消えるまで、一度も目を逸らさなかった。


***


清玉上人は、徳川家家臣・松平親宅《まつだいらちかいえ》と対面していた。


男は自らを武士であり、商人でもあると名乗った。その表情には、ただの使者ではない気配が漂っていた。


上人は慎重に口を開いた。


「松平様……本日は、どのようなご用向きでございましょう」


松平親宅は、上人の方へ身を寄せ、低い声で切り出した。


「初花を、お譲りいただきたい。金はいくらでも出す。上人の仰せのままにいたす故……」


清玉上人は、この申し出を断るつもりでいた。だが――初花という具体的な名が出た瞬間、上人の表情がわずかに揺れた。


「なぜ、私が持っていると……ご存じなのです」


親宅は、うっすらと笑みを浮かべた。


「茶屋四郎次郎殿が申しておった。『初花は、清玉上人にお譲りした』――と」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。