弔いの名の下に
天正十年八月――。
ある日のこと、羽柴秀吉の弟・羽柴秀長は、一通の書状を受け取った。その内容を読み終えた瞬間、秀長の顔から血の気が引いた。
秀長は書状を握りしめ、すぐさま兄・秀吉のもとへ駆け込んだ。
「兄者、大変なことが起きた!」
廊下を荒々しく踏み鳴らす足音に、秀吉は御殿の書院で顔を上げた。
「どうしたんじゃ、小一郎(秀長の幼名)!」
秀長は息を切らしながら兄の前に膝をつき、書状を差し出した。
「柴田勝家殿とお市様(信長の妹)が、信長様の百日法要を、京の妙心寺で営むそうじゃ」
秀吉は書状を受け取り、その指先がわずかに震えた。
秀長は続けた。
「施主は、お市様じゃ。我らは羽柴信勝殿(信長の四男)を推しておるが……お市様には太刀打ちできん……兄者、どうする!」
秀吉の目が大きく見開かれた。
その瞳には、怒りでも恐れでもなく――計算が宿っていた。
秀吉はゆっくりと秀長を見つめ、口元を歪めた。
「わしに、よい考えがある――」
***
秀吉は京のある屋敷を訪れていた。応接間に座し、その人物が姿を現すのを、じっと待っていた。
板間の廊下を、静かに歩く足音が近づいてくる。
秀吉は両拳を膝の前につき、深々と頭を下げた。襖が開く音に、耳を澄ませていた。
「久しいの……羽柴筑前殿」
その女の声を聞いた瞬間、秀吉の背に、ぞくりと寒気が走った。ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは――
織田信長の正室、帰蝶であった。
黒を基調とした小袖。金糸で雲が刺繍され、黒髪は長く艶やかに垂れている。
出家していないその姿に、秀吉は思わず目を見開いた。
「これは、これは、安土様。お目通り叶い、祝着にございます」
秀吉は再び頭を下げ、帰蝶の呼称である『安土』を使い、挨拶を述べた。
帰蝶は、秀吉の背後に控える剃髪した細川幽斎を認め、わずかに頬を緩めた。その微笑みは、秀吉には見えていなかった。
「筑前殿……何やら外が騒がしい。何を持ってきたのじゃ」
帰蝶の問いに、秀吉の胸が締めつけられた。まるで心の内をすべて見透かされているようだった。
「なかなかご挨拶に伺えなかった故……この筑前から、お悔やみの品にございます」
「左様か――」
帰蝶は意味深げに微笑んだ。
「何をしてほしいのじゃ――」
矢継ぎ早の問い。
秀吉は完全に防戦一方だった。
無類の人たらしと評された秀吉の話術は、この帰蝶の前では、まったく歯が立たなかった。
なぜなら――
帰蝶の口ぶりは、信長そのものだった。
秀吉は大きく息を吸い、意を決して口を開いた。
「来月、九月十二日、大徳寺にて信長様の百日法要を営みまする。そこで安土様に施主をお願いしたく……」
「参列はせぬ――」
帰蝶は、秀吉の言葉を最後まで聞かず、冷たく言い放った。
秀吉の顔が強張る。
「では……棺に収める形見の品は……」
「ない――」
帰蝶は短く、鋭く答えた。
そして――
すっと立ち上がった。
絹の擦れる音が、静まり返った間に響く。帰蝶は襖へ向かい、迷いなく開け放った。その背中は、信長の背中と同じように、一切の隙を見せていなかった。
***
阿弥陀寺の清玉上人は、羽柴秀吉と同じ九月十二日に法要を営むことを決めていた。
だが――柴田勝家や羽柴秀吉のそれとは異なり、上人の法要は、ただ純粋に亡き者を弔うためのものだった。
上人は義姉である帰蝶へ文をしたためていた。できれば御台様である帰蝶に施主をお願いしたい――その願いを、丁寧な筆致で記していた。
返事が届いたのは、夜のことだった。
上人は、ろうそくの灯りの下で文を開いた。
紙の上を流れるように走る滑らかな文字。しかし、その筆跡には確かな力が宿っていた。穏やかな語り口の奥に、兄・信長を支え続けた女の強さがあった。
上人は静かに目を閉じた。
そして――手元には、もう一通の書状が置かれていた。差出人は、羽柴筑前守秀吉。
そこには、阿弥陀寺での法要の取りやめ、信長・信忠の墓所移築を求める新たな天下人の命が記されていた。応じれば寺領を寄進する――そう書かれていた。
(格が違い過ぎる……このお方は、人に何かを与えれば……誰でもなびくと思っておられるのか……)
上人は、静かに目を閉じた。
その時――本殿に弟子の一人が入ってきた。
「上人、客人にございます。お通しまするか……」
上人はしばし考え、
「また商人か」と尋ねた。
弟子は首を振った。
「いえ、徳川様のご家臣だと申されております」
上人は、わずかに目を開いた。
「お通ししなさい」
客人が本堂へ来る前に、上人は帰蝶からの美しい文を懐にそっとしまった。そして――秀吉からの書状を、ろうそくの火へ静かに掲げた。紙はゆっくりと燃え上がり、赤い炎が秀吉の文字を飲み込んでいく。
上人は、その炎が消えるまで、一度も目を逸らさなかった。
***
清玉上人は、徳川家家臣・松平親宅と対面していた。
男は自らを武士であり、商人でもあると名乗った。その表情には、ただの使者ではない気配が漂っていた。
上人は慎重に口を開いた。
「松平様……本日は、どのようなご用向きでございましょう」
松平親宅は、上人の方へ身を寄せ、低い声で切り出した。
「初花を、お譲りいただきたい。金はいくらでも出す。上人の仰せのままにいたす故……」
清玉上人は、この申し出を断るつもりでいた。だが――初花という具体的な名が出た瞬間、上人の表情がわずかに揺れた。
「なぜ、私が持っていると……ご存じなのです」
親宅は、うっすらと笑みを浮かべた。
「茶屋四郎次郎殿が申しておった。『初花は、清玉上人にお譲りした』――と」




