エウロパへの旅立ち
七月一日、宮津湾――。
この夜は、月もなく、ただ静かな闇が海を覆っていた。昨夜は一日中雨が降り続き、南蛮船は姿を見せなかった。
だが――今宵は一隻の南蛮船が、宮津湾に静かに停泊していた。帆はすでに広げられ、いつでも出港できる構えであった。
浜辺には小舟が一艘。その舟には大男――弥助が乗り、黙々と支度を進めていた。
織田信長は、闇に沈む浜辺で、見送りに来た者たちをゆっくりと見渡した。そこには、明智光秀、明智左馬之助、お岸、細川幽斎(藤孝)、そしてたまの姿があった。
信長は幽斎に目を向け、
「いろいろと世話になったな」と微笑み、礼を述べた。
幽斎もまた、穏やかな笑みを返した。
「道中……どうかお気をつけて」
光秀は終始、神妙な面持ちであった。
隣に立つ左馬之助は、不安を隠しきれなかった。光秀がこの表情を見せるのは、愛宕での戦勝祈願以来のことだった。
光秀は、重い口を開いた。
「御館様、お供させていただきとうございます」
その言葉に、信長以外の者たちは驚きの表情を浮かべた。
だが――
信長は静かに首を横に振った。
「そなたは残れ」
光秀が何か言いかけた瞬間、信長は鋭く言葉を重ねた。
「あのサルにすべてを任せるつもりか。我が弟に託せ。よいな――」
六月二十七日、清州にて行われた織田家の後継会議。羽柴秀吉が推す信忠の嫡男・吉法師が後継と決められたことを、信長は幽斎から聞かされていた。
信長は、光秀と左馬之助を見つめた。
「本多正信では心もとない。そちらのような、正しき道へ導く知恵者がおらねばの――」
光秀と左馬之助は、「ハッ!」と声を揃え、深々と頭を下げた。
信長は、迷いのない表情で言った。
「では、皆の者、達者でな――」
その目はまっすぐに南蛮船を見据え、信長は浜辺を歩き出した。
「弥助、参るぞ!」
「ハッ!」
信長は意気揚々と小舟に乗り込み、舳先に立った。懐に手を伸ばし、着物の内に忍ばせていた小さな布切れを握りしめる。
まるで出陣のようだ――
光秀はその姿を見つめ、ふっと微笑んだ。
小舟はゆっくりと湾の奥へ進み、やがて闇に溶けるように姿を消した。
光秀たちは、南蛮船が見えなくなるまで、ただ静かにその巨体を見送り続けた。




