天橋立の茶室
男は、天橋立を一望できる海辺で、静かに釣り糸を垂らしていた。
ここは細川藤孝の別邸である。
男は客人として招かれていた。
籠の中には、すでに数匹の魚が入っている。男は海面を眺めたまま、釣竿を握る手をゆっくりと止めた。
その背後に、大男が近づいてきた。
「御館様、お見えになりました」
男は釣り糸を海から上げ、釣竿を大男へ手渡した。
「弥助、今宵もまた、魚じゃ」
弥助は「ハッ!」と深々と頭を下げた。そして、男の後に静かに続いた。
海風が二人の衣を揺らし、天橋立の白砂が淡く光っていた。
***
光秀と左馬之助は、警護兵から渡された着物を身にまとい、この場所へ連れてこられた。狭い茶室に閉じ込められた二人は、互いに目を合わせ、大きく息を吐き出していた。
やがて足音が近づき、二人は自然と姿勢を正した。
戸が静かに開き、姿を現したのは――細川幽斎(藤孝)であった。
左馬之助は、剃髪した幽斎の姿に思わず息を呑んだ。
「藤孝殿!」
光秀が声を上げ、左馬之助はその場で深く頭を下げた。
幽斎は穏やかに微笑んだ。
「今は出家して幽斎と名乗っておる」
そう言うと、幽斎は二人の向かいに静かに座した。
その時――
板間の廊下を踏みしめる、重い足音が響いた。光秀の呼吸が止まった。
次の瞬間――
茶室の戸が勢いよく開いた。
光秀は反射的に頭を下げ、左馬之助も慌ててそれに倣った。
「光秀、もうよい」
その声を聞いた瞬間、光秀の背筋が震えた。
「織田家は、のうなったのだ。頭を上げよ」
光秀は「ハッ……」と声を漏らし、恐る恐る顔を上げた。
そこに座していたのは――
間違いなく、織田信長であった。
頬は以前よりこけていたが、鋭い眼光も、纏う気迫も、紛れもなく『主君』その人であった。
茶室の戸が静かに閉められる。
足音が遠ざかるのを確かめると、幽斎は何事もなかったかのように茶を点て始めた。
信長は光秀を見、そして左馬之助を見つめた。
光秀は、どう言葉を紡げばよいのか分からず、ただ唇を震わせていた。
だが――信長が静かに口を開いた。
「安心せい。あれはそちの軍勢ではないこと、世は見抜いておるわ」
その一言に、光秀の目が大きく見開かれた。
信長は続けた。
「比叡山の者どもが世を狙っておること。公家衆が何やら企てておると、貞勝より聞いておった」
その言葉を聞いた瞬間、左馬之助は大きく息を吐き、肩の力が抜けていった。
光秀は深く頭を下げ、声を震わせた。
「この光秀……御館様に拾うていただいた身……けして御館様に刃を向けるなど、あり得ませぬ」
信長はふっと笑みを浮かべた。
「分かっておるわ。信忠を助けようとしたこと――」
そこで信長は、ゆっくりと左馬之助へ視線を移した。
左馬之助は、その眼光に射抜かれたように体を強張らせた。
「感謝しておる。致し方なかったのじゃ、左馬之助」
左馬之助は驚きに目を見開き、やがて静かに頭を下げた。
幽斎は、まず信長に茶を差し出した。それは信長が好む、黒い唐物の器であった。
信長は器を両手で包み、香を確かめるように口を付けると、そのまま一息に飲み干した。そして器を幽斎へ返す。
幽斎は光秀を見つめ、ほんのわずかに頷いた。光秀はその合図を見逃さなかった。息を整え、信長をまっすぐに見据えた。
茶室の空気が、さらに深く、静かに沈んでいった。
「御館様、あの夜――」
光秀が言葉を紡ぎ始めた、その瞬間だった。
「備えはしておった」
信長が、静かに、しかし断ち切るように言葉を遮った。
「茶屋よ。硝石と鉛の買い付けを独占したいと申してな。あやつが南蛮人に口添えをし、 茶屋の屋敷と南蛮寺との間に地下蔵を作る許しを与えた――」
光秀の喉が、ごくりと鳴った。
「では……御館様は……」
「本能寺と繋げることも――あやつが用意したのじゃ。南蛮人を逃がすための者じゃったが……」
茶室の空気が、一瞬で凍りついた。
***
天正十年五月、安土城――。
信長は本丸を抜け、城の西側にある百々橋口へ向かって歩いていた。家康が京へ向かう直前のことである。
二人は石段を下り、摠見寺の塔の背後に立った。
信長が口を開いた。
「家康殿、中国攻めに参陣してくれぬか。織田・徳川で毛利を滅ぼすのじゃ。武田の時と同じようにな――」
家康は一瞬考えたが、幼い頃から知る信長の性格――『言い出したら聞かぬ』ことをよく理解していた。
家康は深く頷いた。
「願ってもないことでございます」
信長は、そこで声を落とした。
「そこでじゃ――」
家康は久方ぶりに、信長を「兄上……」と呼んだ。
信長は続けた。
「茶屋四郎次郎に、鉄砲を集めさせておる。国友の鉄砲を割けないのでな。ゆえに家康殿は、早めに堺へ向かうがよかろう。買えるだけ買っておくのじゃ。世が京に入る前に向かうのじゃ、よいな――」
家康は、その言葉の重さを悟り、深く頭を下げた。
「兄上、仰せの通りに」
その声には、徳川家康ではなく、信長の弟分としての素直な響きがあった。
***
五月二十九日の夜、本能寺――。
豪商・茶屋四郎次郎は、信長に呼ばれて本能寺へ参じていた。信長はこの日、安土から京へ入ったばかりであった。
茶屋は奥書院に座し、信長の到着を静かに待っていた。
やがて、大きな足音が廊下に響き、襖戸が勢いよく開いた。
茶屋は深々と頭を下げた。
「準備はよいか」
信長は書院に入るなり、短く鋭い声で問いかけた。
「ハッ、整っております」
茶屋は即座に答えた。
信長は歩みを止めず、続けた。
「家康は鉄砲を欲しておる。助けてやれ」
「もちろんにございます」
茶屋は微笑み、深く頷いた。商いの匂いを感じ取ったのだ。
信長は、そこで声を落とした。
「今宵はの、そちに頼みがある――」
茶屋はその声音に、ただの取引ではない何かを察した。
「如何されました」
信長は短く呼んだ。
「蘭丸」
蘭丸が静かに進み出て、両手に抱えた桐の箱を茶屋の前へ置いた。
信長は言った。
「初花じゃ。価値を見定めよ。その茶入が、いかほどの値打ちなのかな」
茶屋は息を呑んだ。
初花――天下の名物中の名物。
「難題ではございますが……値を付けさせていただきます」
茶屋は深く頭を下げた。
信長は短く頷いた。
「しばらく預ける――」
そう言い残し、信長は足早に書院を後にした。
蘭丸が静かに襖を閉めると、本能寺の夜は、再び深い静寂に包まれた。
***
「茶屋の悪知恵よ――」
信長は微笑み、じっと光秀を見つめていた。
光秀は幽斎から器を受け取り、そっと両手で包むように持ち上げた。器の縁を眺め、一服を静かに味わう。その香りと温みを確かめるように息を吐き、幽斎へ深く頭を下げて器を返した。
その瞬間――
信長が、まるで思い出したように言葉を放った。
「のお、光秀――世は海を渡る」
光秀の呼吸が止まった。
信長は続けた。
「天下布武などに、もう興味はのうなった。この日ノ本など、南蛮人から見ればちっぽけな存在よ。世は――奴らの言う『エウロパ』を見てみたいのじゃ」
光秀は、思わず相づちを打った。
「エウロパ……キリシタンの総本山にございますな」
「そうじゃ……」
信長の声音は力強く、左馬之助も自然と頷いていた。
だが――
信長は、ふいに二人を交互に見つめた。
「そちたちは……これからどうするのじゃ」
茶室の空気が、一段と深く沈んだ。
光秀は大きく息を吸い、幽斎は茶を点てながら、鋭い眼差しで光秀を見つめた。光秀は、嘘をつくことを潔しとせず、静かに答えた。
「まだ、決めてはおりませぬ……」
その言葉は、光秀の胸の奥に渦巻く迷いと、未来への恐れ、そして――主君への忠義の名残が混ざり合った、正直な吐露であった。
信長は、その答えを聞きながら、どこか遠くを見るような目をしていた。




