味土野――幽閉された女
天正十年六月、味土野――。
丹波の切り立った山の端に、陽が沈もうとしていた。味土野の空はまだ淡い青を残し、山肌には西日が長く伸び、頼りなげな影を落としていた。
明智光秀の次女・たまは、細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いでいた。しかし本能寺の変を境に、細川家のたまへの処遇は一変した。夫・忠興は、逆臣明智光秀の娘である、たまを護るため、味土野へ幽閉する道を選んだ。
宮津城から十里――四十キロ離れた、標高四百メートルの山奥である。
たまは幼い子らを宮津に残し、数名の侍女を連れ、「女城」と呼ばれる丘の上の邸に住んでいた。御殿と呼ばれてはいたが、名ばかりで、実際は質素な木造の小さな屋敷であった。
谷を挟んだ向かいには、護衛の武士が詰める「男城」が建てられていた。
谷底から這い上がるそよ風が、すっと女城を通り抜けていく。宮津城下では肌にまとわりつく夏の熱気も、この山上では驚くほどひんやりとした涼風に変わっていた。
土間からは、ばちばちと薪の弾ける音が聞こえ、ほのかに甘い湯気が立ち上っていた。
たまは籠に盛られた芋を、侍女たちと共に剝いていた。この芋は村人が届けてくれたものである。味土野に来て十五日余り――村人たちの助けなくして、暮らしは成り立たなかった。
開け放たれた土間の戸から、心地よい風が吹き込む。
侍女の一人、いとが声を掛けた。
「御台様、もうじき手元が暗うなります。あとは我らにお任せくだされ……」
しかし、たまは小さく首を振り、薄い笑みを浮かべたまま、手元の芋に刃を滑らせていた。
泥を洗い落とした芋の白く瑞々しい肌が、次々と露わになっていく。指先は冷たい山水で少し悴んでいた。
風は、夕餉の支度で火照った女中たちの頬を撫で、たまの結い上げた髪のほつれ毛をわずかに揺らした。青々とした木々の匂いと、すぐ近くを流れる谷水の気配を運んでくる。
そして――蜩の初鳴きが、遠い谷の底から細く響き始めた。
その時だった――たまは足音に耳を澄ませ、芋へ刃を当てたまま、手が止まった。無意識のうちに、土間の戸へ目を向けていた。
懐かしい足音――
胸の奥で、抑えようのない期待が膨らんでいく。
近くにいた侍女・いとが、
「御台様……」と、たまの異変に気づいた。
土間の戸口に、百姓姿の男が立っていた。
いとは息を呑み、
「ハッ……」と声にならぬ声を漏らした。
たまは男を見つめたまま、微動だにしなかった。
いとは、ゆっくりと男へ歩み寄り、震える声で問いかけた。
「もしや……あなた様は……」
男は答えなかった。
だが――
たまは、小さく、しかし確かに呟いた。
「父上……」
百姓姿の男が土間に入り、うっすらと笑みを浮かべた。
その笑みを見た瞬間、たまの視界がふっと霞んだ。
「父上!」
たまは刃を置き、男のもとへ駆け寄り、大きな胸に頬を埋めた。
男は手に持っていた笠をそっと傾け、たまの体を包むように抱きしめた。その腕は、戦場の将ではなく――ただ一人の父のものだった。
***
この日の夕餉は、久方ぶりの親子の再会となった。たまは父に汁をよそい、光秀はその器をそっと受け取った。侍女たちも静かに座し、誰一人、先に箸を取ろうとはしなかった。
だが――光秀は、なかなか箸をつけようとしなかった。
ゆっくりと、これまでのことを振り返るように、囲炉裏を囲み、たまや侍女たちへ穏やかに語りかけていた。女たちが世間から切り離された暮らしを送っていることを、光秀は痛いほど察していた。だからこそ、声を荒げず、ひとつひとつ言葉を選びながら語っていた。
やがて光秀は汁をすすり、芋の煮物に箸を伸ばした。
「うまいぞ。熙子の味じゃ――」
そう言って、たまの顔を見た。
「母に教えてもろうたのか……」
たまは大きく頷き、微笑みを浮かべた。その笑みは、味土野の冷たい山風の中で、ひときわ温かく見えた。
***
光秀が味土野に来て五日。
この日も彼は女城の畑を耕していた。山の上の陽射しは鋭く、肌に突き刺さるように強かった。汗は次々と流れ落ち、蝉の声が絶え間なく響き、夏の到来を告げていた。
ようやく一段落がつき、光秀は天を仰ぎ、手拭いで汗を拭った。
その時――邸宅へ続くなだらかな坂を、百姓姿の男女が上ってくるのが見えた。
光秀は目を凝らし、眼下の二人を見つめた。
男は疲れを見せぬ足取りで、女は杖を頼りに、必死にその背を追っていた。
(生きておったのか……)
光秀の口元に、微かな笑みが浮かんだ。二人が上がってくるのを、静かに待った。
やがて二人は坂を登りきり、光秀の前で深々と頭を下げた。
「殿も……ご無事でございましたか」
光秀は「うむ」と短く頷いた。
「父上……」
光秀はその声に反応し、急に声を張り上げた。
「たま!たまは……おるか!」
その声には――父としての安堵が滲んでいた。
***
この日の夜も、ひっそりと幕を閉じようとしていた。家族は邸宅の縁側に並び、静かに酒を酌み交わしていた。
光秀の背後には次女・たまが控え、左馬之助の背後には、妻であり光秀の長女・岸が座していた。
辺りでは蜩の声が細く響き、心を落ち着かせるようなそよ風が体を撫でていく。
今宵の月は、有明月――弓のように細い逆三日月であった。
左馬之助が、月を見上げながら語り始めた。
「山崎で御味方が壊滅したと聞き……もう駄目かと思いました」
光秀もまた、遠い記憶を辿るように呟いた。
「伝吾に酒を勧められての……気が付けば、船の上じゃった……」
その言葉に、左馬之助と岸は互いに顔を見合わせた。岸が、父の言葉を遮るように口を開いた。
「同じでございます、父上」
光秀は驚いたように眉を上げた。
「真か……」
左馬之助が続けた。
「左様でございます。我らも家臣どもに『最後に一献』と勧められ……目を覚ませば、山の中の寺におりました」
光秀は「うむ」と頷き、盃を傾けた。
岸が父の盃に酒を注ぎながら言った。
「清玉と名乗る僧が、丹波の山道を案内してくれました」
光秀は静かに頷き、今度は娘たちへ酒を勧めた。
たまは盃を見つめ、小さく戸惑いの声を漏らした。
「眠り薬など、入っておりませぬか……」
その言葉に、姉の岸が即座に言い返した。
「入っておらぬ!」
その酒は、男城の警護兵たちが届けた差し入れであり、着物もまた、彼らが用意してくれたものだった。
光秀は娘たちのやり取りに、優しい微笑みを浮かべた。そして、左馬之助へ視線を向ける。
左馬之助は月を仰ぎ、静かに呟いた。
「今頃……京の都は、どうなっておるのでしょうな……」
その声は、山の夜気に溶けていった。




