山崎敗走
六月十三日、山崎――。
この日は昼過ぎから雨が降り続いていた。
光秀は本陣の恵解山にて、戦況を静かに見据えていた。次々と壊滅していく部隊。それに伴い届く討死の報。明智軍は総崩れとなり、もはや陣を立て直す力は残っていなかった。
戦場では、敗走する兵たちが泥にまみれ、我先と山道を駆けていく。槍を捨てる者、兜を投げ捨てる者、転び、立ち上がれず、他の兵に踏み越えられていく者が大勢いた。
だが――本陣の光秀は、まだ動かなかった。
遠くから、羽柴勢の鬨の声が響いてくる。
「殿!お急ぎくだされ!」
馬回りの者が叫んだ。
雨粒が光秀の兜を叩きつけ、視界の先で水が滴り落ちていた。
光秀は静かに言った。
「皆を先に行かせよ」
「殿!」
藤田伝吾が声を張り上げた。伝吾は最前線で羽柴勢に部隊を壊滅させられ、辛うじて本隊へ戻ってきたばかりであった。
光秀は、雨音に負けぬほどの静けさで告げた。
「もはや立て直せぬ……」
その言葉に、側にいた家臣たちは息を呑んだ。
そして光秀は、はっきりと言い放った。
「光秀が殿を務める!」
その場の空気が凍りついた。
総大将自らが退却する軍勢の最後尾に立ち、敵の追撃を食い止めるなど――本来、あってはならぬことだった。
「なりませぬ!」
叫んだのは、藤田伝吾であった。
「今ならまだ間に合います。早く退陣を!」
光秀は雨の中、静かに言った。
「これ以上、兵を死なせるな」
「しかし!」
「十分だ――」
光秀はもう一度、低く呟いた。
「もう、十分だ――」
雨脚が一段と強まり、遠くで雷鳴が轟いた。
それでも光秀は動かなかった。
近習、馬回り衆、家臣たちは、藤田伝吾の顔を見た。総大将を説得できるのは、彼しかいないと悟ったからだ。
伝吾は光秀の横顔を見つめ、その表情からすべてを悟った――殿は、もう死を決めておられる。敗軍の将として。織田信長公の逆臣として。すべての罪を一身に背負い、ここで果てる覚悟を固めているのだと。
伝吾は泥に膝をつき、声を絞り出した。
「殿、せめて最後に、一献だけでも……」
光秀はようやく顔を上げた。
馬回り衆が急ぎ盃と酒を運んできた。
「長きに渡り、殿にお仕えできましたこと……この伝吾、生涯の誉にございました……」
光秀は小さく息を吐いた。
「相変わらず大げさな男よ、伝吾は……」
伝吾の頬を伝う水滴は、雨か涙か判別できなかった。
供回り衆にも酒が注がれたが、誰一人、盃に手を付けようとはしなかった。
光秀は冷えた酒を一気に飲み干し、小さな盃を地面へ叩きつけた。盃は砕け、泥の中に沈んだ。
その瞬間――光秀の指先が止まった。
視界が揺れ、地面が波打つように見えた。
「で……伝吾……」
光秀は眉を寄せ、立ち上がろうとしたが、膝から崩れ落ちた。
周囲の者たちが慌てて支えようとするが、光秀はその手を振り払おうとした。ただ一人、藤田伝吾だけを見据えていた。
「な……何をした……」
低く、震える声だった。
しかし――誰も答えなかった。ただ一人、伝吾だけが泥へ額を擦りつけた。
「殿!お許しくだされ!」
光秀の視界は大きく歪み、そのまま意識を失った。
伝吾は顔を上げ、叫んだ。
「勝龍寺城へ急げ!追手が来るぞ!」
その声は、雨と雷鳴の中に吸い込まれていった。
***
男は目を覚ました。体が揺れていた。すぐに――ここが船の中であると気づいた。
暗い船内で、明智光秀はゆっくりと目を開いた。頭の奥が鈍く痛み、体は重く、まるで泥の底に沈んだように思うように動かなかった。
耳に届くのは、絶え間ない雨音。屋根を叩く音ではない。水面を打つ雨の音。波が船腹にぶつかり、木板が軋む。湿った木の匂いと油の匂いが混じり合い、船内の空気は重く淀んでいた。
光秀は大きく息を吐き、体を起こそうとした。だが、腕に力が入らない。視界もまだ揺れていた。
その時――船が大きく傾いた。
外から怒号が響く。
「帆を抑えろ!」
「その綱を放すな!」
悪天候で荒れているのだと分かった。
光秀は片手で船板を掴み、周囲を見渡した。積まれていたのは、商人の荷物だった。油紙に包まれた反物。縄で縛られた米俵。木箱。濡れた藁。
その荷物の隙間に、自分は寝かされていたのだと気づいた。
そして――初めて、自分が鎧を着ていないことに気づいた。粗末な小袖姿。刀もない。
光秀は、静かに息を呑んだ。
光秀の眉がわずかに動いた。
喉の奥には、まだ酒の苦みが残っていた。
雨の本陣――敗走する兵。伝吾が差し出した盃。泥に沈む視界。
そこまで記憶が戻ったところで、光秀はそっと目を閉じた。
「伝吾……」
掠れた声だった。返事はない。
代わりに、船内の奥から低い声が返ってきた。
「お目覚めになられましたか」
光秀は顔を声の方へ向けた。薄暗い行灯の向こうに、百姓姿の男が座っていた。年の分からぬ男であった。濡れた衣のまま、静かに佇んでいる。
光秀はしばらく男を見つめていたが、やがて低く問うた。
「ここはどこだ――」
男は、すぐには答えなかった。
波が船腹を叩き、船が再び大きく揺れた。外では船頭たちの怒号が飛び交っている。
男はようやく口を開いた。
「湖上にございます」
「琵琶湖か――」
男は黙ったまま頷いた。
その瞬間、光秀はようやく理解した。
生かされたのだ。死ねなかった。いや、死なせてもらえなかった。その事実だけが、鉛のように胸へ沈んだ。
光秀は揺れる行灯の火を見つめたまま、小さく呟いた。
「なぜ、死なせなんだ――」
百姓は答えなかった。
ただ、雨だけが暗い湖へ降り続いていた。




