湖上の密談
六月十一日、琵琶湖湖上――。
湖面に落ちる雨音だけが響く中、二艘の小舟が、静かに揺れていた。
乗っていたのは、剃髪したばかりの細川藤孝と、戦を覚悟した明智光秀であった。
藤孝が、口を開いた。
「なぜ、あのようなことを書く――」
開口一番、藤孝が懐から取り出したのは、六月九日付の光秀の書状であった。
そこには、光秀の筆跡でこう記されていた。
『不慮の儀(思いもよらぬこと)、
すべては嫡男・明智信慶、
義理の息子・細川忠興のため』
光秀の眉間が、わずかに動いた。
藤孝は静かに続けた。
「貴殿がやっておらぬことなど、承知しておる。あの夜、貴殿の軍がどこにいたかもな。 なぜ貴殿一人が手を下したなどと、無様な嘘を書く」
光秀の声が震えた。
「ならば、なぜ私に加勢してくれぬ!御館様亡き後、この日ノ本を支えるのは、我ら二人のはずであろう!」
食い下がる光秀の瞳には、友への切実な叫びが宿っていた。
しかし――藤孝の眼差しは、冷徹なまでに静かであった。
「道は一つではない――」
「道だと……」
「御館様は亡くなられた。もはや、あのお方はおらぬ。光秀殿、それ以上は申すな。真実が何であれ、『表の理』は一つよ」
藤孝は遠く、西の空を見つめていた。
「筑前殿(秀吉)が尼崎に入ったのは、存じておろう」
「ああ……」
前日の六月十日、洞ヶ峠で筒井順慶の加勢を待ったが、順慶は現れなかった。
そして――
味方になると思われていた中川清秀、高山右近が、秀吉方に加勢したとの報も入っていた。
その時――雨脚が次第に強くなっていった。
藤孝が静かに言った。
「貴殿の負け戦だ。もはや戦う前から雌雄は決しておる。合戦場は山崎か、伏見の宇治川沿いか……光秀殿、三河へ落ちなされ。近衛様も、そのおつもりよ」
光秀は眉をひそめた。
「待て。近衛様とは、京でお会いしたばかりだ」
藤孝は淡々と告げた。
「近衛様は三河へ逃れられる。貴殿が負ける……そう見ておられる」
わずかな沈黙が落ちた――。
湖面を渡る風が、光秀の決意を揺らすかのように吹き抜けた。
藤孝は、なおも諭すように言った。
「今ならまだ間に合う。この湖を渡りきれば、道は開けるのじゃ。このまま『明智光秀』として死ぬつもりか」
光秀は静かに首を振った。その顔には、絶望ではなく、どこか清々しさすら漂っていた。
「お心尽くし、痛み入る。されど藤孝殿。私はあの日より、この嘘を墓まで持っていくと決めたのだ」
光秀は立ち上がり、舟の縁を掴んだ。
「さらばだ、藤孝殿。次の戦で役目を終える――」
藤孝はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、去りゆく友の背中と、音もなく波紋を広げる琵琶湖の暗い水面を、じっと見つめていた。




