『不慮の儀』と記した男
六月九日、京――。
光秀は昨日、吉田兼見へ文を送り、この日、兼見邸での対面を許された。
「安土での非礼、深く陳謝申し上げます――」
光秀は書院にて、兼見へ深々と頭を下げた。
「つきましては、心ばかりの品にございますが……お受け取りくだされ」
光秀が言い終えると、近習三名が三方に載せた銀五十枚を、兼見の前へ静かに運び置いた。
だが――積み上げられた銀が崩れ、畳に重い音を響かせた。兼見は頬を緩め、笑みを抑えきれなかった。
「光秀殿……これに勝る悦び、他にあるまじぞ。ほほほ……」
その日、光秀が入洛すると聞き、寺社、神社、洛中の公家という公家が、こぞって時の権力者へ挨拶に訪れた。いわば――明智詣であった。
その中には、摂関家の近衛前久、九条兼孝の姿もあった。
彼らが求めるのはただ一つ。本領安堵――すなわち「何も失いたくない」という意思表示であった。
さらに光秀は、正親町天皇、誠仁親王、京都五山、有力寺社にも金銀を献上していた。
光秀は表向き「非礼をお詫びする」姿勢を見せていたが、裏では、公家たちの手のひら返しに深く失望していた。
安土で兼見に語った言葉は、光秀が考える本能寺・二条御所襲撃の内幕であった。
だが――彼らは決して真実を語らぬ。
むしろ、光秀が核心に近づくほど、彼らは自ら築いた秩序の崩壊を恐れ、勝者へ擦り寄ってくる。それが――公家たちの生き方であった。
***
光秀は、公家たちとの挨拶を次々に済ませ、夕刻には下鳥羽の南殿寺へ入っていた。今宵の宿所である。
光秀は、西の空に浮かぶ上弦の月を眺めていた――。右は明るく、左は闇に沈む月であった。
(この光秀の心は、いずれに傾いておるのだ。誰かに着せられた罪が闇なのか……真のことを成し遂げたい己が光なのか……どちらが『真の光秀』なのだ……)
光秀は筆を取り、大きく息を吐いた。
誰に書状をしたためるのか――すでに決まっていた。
(もはや……真のことを語れる者もおらぬか……)
そう悟った光秀は、筆を紙へ落とそうとした。だが、息を吐き、手が止まった。どう書き出すべきか、何を記すべきか――迷いがあった。
まずは、書状を受け取る友のことを思い、次に、子らのことを思い、そして――娘を託した男のことを思った。
その時、ある言葉が光秀の胸に浮かんだ。
『不慮の儀』――
思いもよらぬ出来事。
この先を生きる者たちへ、どうしても伝えておきたい一言であった。
五十日後、百日後――この世はどうなっているのか。
光秀は明るい月を見、暗い月を見、心を天秤にかけ、やがて暗い月へと視線を落とし、筆を走らせた。それ以上のことは、もう考えられなかった。
光秀は、静かに筆を置いた。




