茶入れの密書
六月八日――坂本城。
光秀は兼見に宣言したとおり、昼前には居城へ戻っていた。
坂本は華美さこそないが、光秀にとっては「自らの城」であった。三層の天守から安土城を望みながら、光秀は静かに思いを巡らせた。
(あの城は……信長様そのものよ。安土の城主など、他の誰にも務まるまい……)
だが――城代(留守居役)は左馬之助に任せていた。光秀が最も信を置く家臣であり、身内でもあった。
(もし信長様が生きておられたら。信忠様ご逝去の報せ、この光秀だけは、どうかご勘弁願いたい……)
信長が大切な後継者を失った時の心中を思うと、光秀は大きく息を吐いた。琵琶湖から吹く風が頬を撫で、光秀はそっと目を閉じた。
やがて光秀は思い立ったように座に就き、筆を走らせ始めた。時折、湖畔に打ち寄せる波の音に耳を澄ませ、筆先を整え、心を落ち着かせた。
「誰か。誰かおるか!」
すぐに近習が駆け寄り、「ハッ」と声を上げた。
「これを届けてくれ」
光秀は書状を近習に手渡した。
***
清玉上人は、お堂にて一人、祈りを捧げ、読経を続けていた。
その時――
わずかではあるが、足音が聞こえた。
上人は目を閉じたまま、口はお経を紡ぎ続け、手だけがそっと懐へ伸びていた。そこには、短刀が忍ばせてあった。
再び足音が近づいた時、上人の読経がふっと途切れた。
「どなたかな……」
ゆっくりと、何者かが近づいてくる。
上人は静かに後ろを振り向いた。
蠟燭の灯が、男の顔を浮かび上がらせた。
上人の眉がわずかに吊り上がる。
だが――男はすぐに手で顔を覆った。
「名は……伏せてくだされ」
その声を聞いた瞬間、上人は相手が誰であるかを悟った。
「誰が聞いておるか分かりませぬゆえ……」
男はそう言って口止めし、桐の箱を上人へ差し出した。手のひらに収まるほどの大きさであった。
上人は十字に結ばれた紐を解き、巾着袋を取り出し、その中身をそっと掌に載せた。
それは――
唐物の茶入れであった。
上人の目が、わずかに見開かれた。
「なぜ、これをお持ちなのだ……」
男は低く答えた。
「あるお方より、『価値を見定めよ』と頼まれ、お預かりしておりました」
上人は蠟燭の明かりを頼りに、茶入れの肌合いと模様をじっと見つめた。白い蓋が緩いと感じ、そっと開ける。
茶入れの中には、小さく折りたたまれた書状が入っていた。
男は、上人が書状の存在に気づいたのを見届けると、静かにその場を離れた。
上人は書状を開き、記された花押を見つめ、次に茶入れを見つめた。そして――書状を蠟燭の炎へくべた。
燃え尽きるのを見届けると、茶入れを巾着袋に戻し、桐の箱へ静かに収めた。




