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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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桓帝

 桓帝かんていが詔書を発して鉤党(党人)を検挙させた時、郡国の上奏によって連座した者が、多い場所では百人を数えた。しかし平原相・史弼しひつだけは誰も検挙・報告しなかった。


 詔書が前後して平原の州郡に党人の逮捕を強要し、掾史が髠笞(髪を剃る刑や笞打ちの刑)に処された。


 青洲の従事が伝舍(客舎)に坐って史弼を譴責した。


「詔書は党人を疾悪(憎悪)しており、その旨意は懇惻(懇切・痛切)である。青州六郡のうち、五つには党人がいたのに、なぜ平原だけは党人がいないのだ?」


 史弼はこう答えた。


「先王が天下を疆理(境界を正すこと)し、界を画して境を分けました。水土は等しくなく、風俗は同じではございません。他の郡には自ずからあり、平原には自ずからないことを、どうして比較できましょうか。もしも上司に承望(迎合)して良善を誣陷(讒言)し、刑罰を妄りに行い、そうすることで非理(道理がないこと)を実現させれば、平原の民は各戸が党になりましょう。私に死があるだけであり、そのような事はできません」


 従事は激怒して郡の僚職を逮捕し、獄に送った。その後、史弼に対する弾劾の上奏を行った。


 しかしちょうど党禁が途中で解かれたため、史弼は俸禄を使って贖罪した。


 史弼のおかげで禍から逃れた者は大勢いた。


 この年、巴郡で、「黄龍が現れた」という報告があった。しかしながらこれは事実ではない。


 巴郡の人が池で水浴びをしようとした時、池の水が濁っているのを見た。


 そこで人々はお互いを嚇かすために冗談で、


「この中には黄龍がいる」


 と言った。


 これが民間に広がり、太守が美事とみなして朝廷に報告したのである。


 郡吏・傅堅ふけんが諫めて、


「これは走卒(奴僕)の戯言に過ぎません」


 と言ったが、太守は聴かなかった。。


 こうして「黄龍が現れた」という報告がされ、記録に残されたのである。


 十月、先零羌が三輔を侵したが、使匈奴中郎将・張奐ちょうかんが司馬・尹端いんたん董卓とうたくを派遣して対抗し、羌人を撃って大破した。酋豪を斬り、首虜(首級と捕虜。または首級)が一万余人に上った。


 こうして三州が平定された。


 張奐の功績は封侯に値したが、宦官に従わなかったため、銭二十万を下賜されて家から一人が郎に任命されただけであった。


 張奐はこれを辞退し、弘農への移住を請うた。


 張奐は燉煌(敦煌)淵泉の人で、辺境の人である。


 旧制では辺境の人が内地に移ることを許可していなかったが、張奐には功績があったため、桓帝は詔を発して特別に許可した。


 さて、この戦の功績をもって朝廷は董卓を郎中に任命した。


 董卓は隴西の人で、性格が粗猛で智謀があったため、羌・胡に畏れられていたというのもあるだろう。


「ふん、私が郎中か……」


 後に悪逆を成すことになる男はこの任命を不快そうに呟いた。









 桓帝が徳陽前殿で崩御した。三十六歳という若さである。


 この桓帝の君主としてに評価は低い。当初、梁冀によって思うように政治を行えず、自分を出せなかったことは同情するが、梁冀の打倒した後、誰もが彼がどのような政治を行うのかということに期待されていながら、やったことは政治に対して知識の少ない宦官の寵愛であり、政治は積極的に行わなかった。更に先の第一次党錮の禁によって、多くの人臣の口を封じようとした。天下の心を失望させたと言ってよく、後漢王朝の滅亡を早めたのは彼である。


 竇皇后が尊ばれ皇太后とされ、太后が政治を行うことが決定した。


 竇氏は皇后に立ってからも御見(御幸)が非常に少なく、采女・田聖でんせいらだけが寵愛を受けていた。


 竇氏はもとから忌忍(嫉妬深くて惨忍)だったため、桓帝の梓宮(皇帝の棺)がまだ前殿にあるうちに田聖を殺してしまった。


 城門校尉・竇武とうぶ(竇太后の父)が立嗣(後嗣擁立)を議し、侍御史・劉鯈(「劉儵」)を招いて国中の宗室における賢者について問うた。


 劉鯈は解瀆亭侯・劉宏りゅうこうを称賛した。


 劉宏は河間孝王・劉開(章帝の子)の曾孫である。劉宏の母は董夫人という。


 竇武が入宮して竇太后に報告し、禁中で策を定めた。


 劉鯈を守光禄大夫(光禄大夫代理)に任命し、中常侍・曹節そうせつと共に持節を持って、中黄門・虎賁・左右羽林千人を率いて劉宏を迎えさせた。


 劉宏はこの時十二歳であった。正式に即位するために都へ向かった。


 168年


 正月、竇武は大将軍に任命された。


 また、前太尉・陳蕃ちんはんが太傅となった。


 当時は大喪に遭ったばかりで国嗣(国の後継者)がまだ即位していなかったため、諸尚書が懼れを抱き、多くの者が病を理由に入朝しなかった。


 そこで陳蕃が書を送って諸尚書を譴責した。


「古人は節を立てて主が亡くなっても存命中のように仕えたものである。今は帝位がまだ立たず、政事が日々緊迫しているのだ。諸君はどうして荼蓼の苦(辛苦・困難を表す)を棄てて寝床で休息しているのだ。義において安逸でいられるのか」


 諸尚書は怖れて起ちあがり、政務を行うようになった。


 解瀆亭侯・劉宏が夏門亭に到った。


 劉宏は夏門外の万寿亭に至り、群臣の謁見を受けた。


 竇太后が竇武に符節を持たせ、王青蓋車(皇子が封王された時に下賜される車)で劉宏を殿中に迎え入れさせた。


 こうして劉宏が正式に皇帝の位に即いた。これを後漢の霊帝れいていという。




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