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三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

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段熲

 昨年、護羌校尉・段熲だんけいが西羌を平定したが、東羌の先零等の種族はまだ服従していなかった。


 度遼将軍・皇甫規こうほき、中郎将・張奐ちょうかんが年を連ねて招降しても、東羌は投降と離反を繰り返しす状況であった。


 そこで霊帝れいていが詔を発して段熲に問うた。


「先零、東羌が悪を為して叛逆しているが、皇甫規と張奐はそれぞれ強衆(強い軍隊)を擁しながらすぐに平定しないため、汝に兵を移して東討させようと考えている。しかし相応しいかどうかが分からない。故に術略をよく検討せよ」


 段熲が上書した。


「私が伏して先零、東羌を見るに、しばしば叛逆はしていますが、皇甫規に降った者も既に二万戸います。善悪が既に分かれており、残った賊はわずかしかいません。今、張奐が躊躇して進まないのは、投降した者が外見は叛羌から離れていても内では通じており、兵が向かえば、必ず驚かすことになると心配しているからです。しかも叛羌は冬から春を経ても屯を結んで解散せず、人畜ともに疲羸しており、自亡の勢があるので(叛羌には自滅の形勢があるので)、張奐は改めて招降し、坐して強敵を制しようと欲しているのです」


 時間をかければ彼らの方からこちらに下ると二人は考えているため動かないのである。


「しかし私が思うに、狼子野心(強暴な本性をもつ人の喩え。狼は小さい時から凶暴な心を持つ。それと同じような人です)に対して恩納(恩徳による招降)を用いるのは困難であると考えます。彼らは勢が窮したら服しますが、兵が去ったらまた動きます。よって、長矛で胸を制して白刃を頸に加えるしかありません」


 二人とは違い、彼は羌族に対して見下している部分がある。


「計るに東羌の残りは三万余落で、近く塞内に住み、路には険折(険阻)がなく、燕・斉・秦・趙の従横の勢があるわけでもないのに、久しく并・涼を乱し、繰り返し三輔を侵し、西河・上郡が既にそれぞれ内郡に移動し、安定・北地にまた単危(孤立の危機)が訪れています。雲中・五原から西は漢陽に至る二千余里は、匈奴と諸羌が共にその地を占有しています。これは癰疽(悪性の腫瘍)が伏疾(病が潜伏すること)して脅下(胸の下)で留滞(停留)しているのと同じことですので、もし誅を加えなければ、増大することになります。騎五千、歩万人、車三千両(輌)を使えば、三冬二夏で撃破平定するに足り、費用の総計は銭五十四億ですみましょう。このようにすれば、群羌を破滅させて匈奴を長服させることができ、内地に遷った郡県も本土に戻ることができます。伏して計るに、永初中(安帝の永初年間)に諸羌が反叛して十四年で二百四十億を使いました。順帝の永和の末からもまた七年を経て八十余億を使いました。ところが、出費がこのようであったのにも関わらず、まだ誅尽(誅滅)できず、余孽(残った賊)が再び起ちあがって今に至るまで害を為しています。今、暫くの間、民を疲労させなければ、永寧はいつまでも訪れません。私は駑劣(愚劣な能力)を尽くすことを願い、伏して節度(指揮。指示)を待ちます」


 霊帝は上書に同意し、段熲の意見を全て採用した。


 段熲は一万余人の兵を指揮し、十五日分の食糧を携帯して、彭陽から直接、高平を目指して、先零諸種(族)と逢義山(「途義山」)で戦った。


 しかし虜(先零)の兵が強盛だったため、段熲の兵が皆、恐れを抱いた。


 そこで段熲は軍中に令を発し、弩の鏃を長くして矛の刃を鋭利にさせ、長矛兵を三重に配置して、その間に強弩兵を配置した。更に軽騎を並べて左右両翼にした。


 陣を構えてから段熲が将士にこう言った。


「今、家を去って数千里におり、進めば事が成るが、逃走すれば、必ずや死に尽くすことになる。努力して功名を共にしようではないか」


 段熲が大呼すると兵達は皆、声を挙げ、疾駆して敵陣に向かった。段熲も傍で兵達と一緒に騎馬を駆けさせて突撃した。


 虜衆(羌兵)が大潰(壊滅)して八千余級が斬首された。


 竇太后が詔書を与えて功績を称賛し、こう言った。


「東羌が全て平定されるのを待って、併せて論功行賞を行います。今はとりあえず段熲に銭二十万を下賜し、家の一人を郎中にします」


 竇太后は中藏府に金銭、綵物を準備させて軍費を補充し、段熲を破羌将軍に任命した。








 段熲は続けて軽兵を率いて東羌を追撃し、橋門(地名)に至り、朝から夜まで兼行し、奢延沢、落川、令鮮水の辺で戦って連破した。


 更に霊武の谷で戦い、羌を大敗した。


 段熲が涇陽に到った。残った寇(羌人)は四千落で、全て分散して漢陽の山谷の中に入った。


 ここで護匈奴中郎将・張奐が上書した。


「東羌は破れましたが、余種(余族)を滅ぼすのは困難であり、段熲は性が軽果(軽率果敢)でございます。負敗が一定ではないことを考慮して(東羌が敗れるとは限らないことを考慮して)、とりあえず恩徳によって降すべきです。そうすれば後悔せずにすみましょう」


 詔書が段熲に下されたため、段熲が返書を提出した。


「私は元から東羌の人数が多くても輭弱(軟弱)で制しやすいと知っていましたので、繰り返し愚見を述べ、永寧の算(計)を為そうと思いました。逆に中郎将・張奐は、虜は強くて破るのが難しいので招降を用いるべきだと申しました。しかし陛下は明監(洞察力があること)で、瞽言(盲人による見識がない言葉。ここでは段熲の言葉を指す)を信じて採用しましたので、私の謀が行われるようになり、張奐の計は用いられなかったのです。その後、事勢(形勢)が相反したため(張奐の予測と実情が異なったため)、張奐は猜恨(猜疑・怨恨)を抱き、叛羌の訴えを信じ、辞意を飾潤(潤色)して『段熲の兵は繰り返し挫折している』と言い、また、『羌も一気によって生まれたので誅滅はできない(漢人も羌人も天の一気(万物の根源)から生まれたので、羌人を誅滅してはならないという意味)。山谷は広大であるため、羌人を全て殺すことはできず、血が流れて野を汚したら和を傷つけて禍をもたらす』と申しているのです」


 ようは張奐は自分に嫉妬しているための進言である。


「私が伏して考えるに、周・秦の際には戎狄が害となり、中興(東漢建国)以来は羌寇が最も盛んで、これを誅しても尽きず、彼らはたとえ降っても再び叛しました。今、先零雑種(先零等の諸族)は反覆を繰り返しており、県邑を攻め落とし、人や物を略奪し、墓を掘って死体を露わにし、禍いが生死(生者と死者)に及んでいるため、上天が震怒し、手(段熲の手)を借りて誅を行っているのです。昔、邢が無道を為したので衛がこれを討伐しましたが、衛が軍を興すと雨が降りました(春秋時代の故事)。私が兵を動かして夏を越えましたが、続けて甘澍(農事に応じた雨)を獲て作物が豊穣になり、人には疵疫(災害疫病)がありません。上に天心を窺えば、東羌討伐が天心に応じているので、災傷となるようなことはないと分かります。下に人事について考察すれば、東羌討伐が人々に支持されているため、兵が和して軍が勝つことが分かります。橋門以西、落川以東では、故宮(古い宮殿、または官府)や県邑が互いに通属(連接)しています。深険絶域の地(深遠険阻で隔絶された地)とはならず、車騎が安行しているため、張奐が「挫折している」と言っていますが、そのような事実はありません」


 この戦は天にまで認められているほどに大義ある行為なのである。ある意味、彼の中では聖戦という意識もあるかもしれない。


「思うに、張奐は漢吏になってその身が武職に当たっているにも関わらず、駐軍して二年経っても寇を平定できなかったため、虚しく文徳を修めて武器を休め、獷敵(凶悪な敵)を招降することを欲しているのです。これはまさに荒唐無稽で中身がない話で、信用できず、あてにもならないことです。何をもってこう申しているのでしょうか。昔、先零が寇(侵略)を為した時は、趙充国が内地に移住させ、煎当が辺境で乱を起こした時は、馬援がこれを三輔に遷しましたが、始めは服しても最後は叛し、今に至るまで鯁(病)となっています。だからこそ遠識の士はこれを深憂(深い憂患)とみなしているのです。今、傍郡(辺郡)の戸口は単少(稀少)で、しばしば羌によって傷害を受けています。それにも関わらず、降徒をこれと雑居させようとしたら、それは枳棘(棘が多い悪木)の種を良田に撒き、蛇虺(毒蛇)を室内で養うようなものです」


 彼は今まで張奐のやり方が気に食わなかった。連中などさっさと始末してしまえばいいのである。


「よって私は大漢の威を奉じ、長久の策を建て、その本根(根本)を絶って生殖できないようにすることを欲します。本規(元の計画)では三歳(三年)の費として五十四億を用いることになっていましたが、今、ちょうど一年が経っても消費は半数に至らず、しかも余寇残燼(燃え残りのような余寇)は全滅に向かっています。私はいつも詔書を奉じていますが、軍とは朝廷が制御してはならないものです。この言(軍不内御)を貫徹して一切を私に任せ、私が時に臨んで宜(便宜)を量り、権便(臨機応変な態度、方法)を失わないことを願います」


 羌との戦いでの実権を彼は握ることを欲したのである。


 張奐に比べ、彼は強硬派であり、力によって羌を屈服させようとした。しかしながら同じように力によって羌族に影響力を持った董卓が尊敬したのは恩徳を示すやり方を取った張奐であるところに董卓という男の面白さがある。



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