表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志  作者: 大田牛二
序章 王朝はこうして衰退する

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/372

第一次党錮の禁

 河内の人・張成ちょうせいは風角(四方の風から吉凶を占う術)を得意としており、占いによって近く大赦があると予測した。


「今、殺さなければ損ってことだ」


 彼はそこで自分の子に人を殺させた。


 司隸校尉・李膺りようがこれを知るや否や、官吏を督促して張成父子を逮捕させたが、張成の占い通り、大赦にあり、張成父子は赦免を獲た。


「悪が許されるなどあってはならない」


 李膺はますます憤疾(憤怒憎悪)を抱き、この父子を罪に基いて処刑した。


 張成は以前から方伎(方術)によって宦官と交流しており、桓帝もしばしば張成の占に意見を求めていたため、宦官が張成の弟子・牢脩ろうしゅう(「牢順」)を使ってこう上書させた。


「李膺らは太学の游士を養い、諸郡の生徒と交結し、互いに尽力・奔走し合って、共に部党を為して、朝廷を誹訕(誹謗)することで、風俗を疑乱(困惑・混乱)させております」


 これを聞いて激怒した桓帝は党人の逮捕令を郡国に下し、天下に布告して共に党人を忿疾(憤疾。憤怒憎悪)させようとした。


 ここでいう「党人」とは、李膺らの官員や太学生等、宦官の専横に反対する士人、知識人を指す。


 これが後世における「第一次党錮の禁」という。


 案(文案。桓帝の命令)が三府(三公府)を経由した。


「なんという命令か」


 太尉・陳蕃ちんはんは文書を退けて、


「今、逮捕の対象にした者は、皆、海内の人々が称賛している憂国忠公の臣であり、このような者達は十世にわたっても寛恕されるべきである。どうして罪名が明らかではないのに收掠(逮捕拷問)をもたらすのか」


 と言い、平署(連署。他の大臣と並んで署名すること)を拒否した。


 桓帝はますます怒って李膺らを黄門北寺獄に下した。


 李膺らが逮捕されると、供述が他の者にも影響を与え、太僕・杜密とみつ、御史中丞・陳翔ちんしょうおよび陳寔ちんしょく范滂はんぼうら二百余人が巻き込まれ逮捕された。


 ある者は逃亡して逮捕されなかったが、朝廷は全ての党人に賞金をかけて身柄を求め、多数の使者を四方に派遣した。


 陳寔は、


「私が獄に就かなければ、他の者が獄に行けない」


 と言って自ら出頭した。 自らが率先していかなければ巻き込まれる者がもっと増えることになると考えたのだろう。この人は常に慈愛のために動いている人である。


 范滂が獄に入った時、獄吏が言った。


「罪に坐して繋がれた者は皆、皋陶(堯・舜時代の法官)を祭れ」


 范滂はこう言い返した。


「皋陶は古の直臣であるため、私の無罪を知れば、天帝の前で弁明するだろう。もしも本当に罪があるのならば、これを祭って何の益があるのか」


 この後、他の囚人たちも皋陶を祭らなくなった。


 陳蕃が逮捕された者たちを救うために再び上書して桓帝を強く諫めた。


 桓帝は上書の言葉が激切だったことを嫌い、陳蕃が辟召(招聘)した者が相応しくなかったという理由で策免した。


 太僕・杜密は以前から名行(名声と品行)が李膺と並んでおり、当時の人々から「李・杜」と併称されていたため、同時に逮捕された。


 杜密はかつて北海相を勤め、春の巡行で高密に到ったことがあった。


 杜密は高密で郷の嗇夫を勤める鄭玄じょうげんに遇い、その異器(異才)を知った。そこで、すぐに召して郡職に就けてから、京師に送って就学させた。


 この鄭玄こそ、長い間、大儒として尊敬されることになる人である。


 後に杜密は官を去って家に還った。


 杜密はいつも守令(太守や県令)に謁見して多くの事を陳託(請託)した。


 同郡の劉勝りゅうしょうも蜀郡から官を辞して郷里に帰ったが、門を閉じて人との交わりを絶ち、守令に干渉しなかった。


 太守・王昱おういくが杜密に言った。


「劉季陵(季陵は劉勝の字)は清高の士であるため、公卿には彼を推挙する者が多数いる」


(この人は私を煽っておられるのだな)


 そう思いながら杜密は王昱にこう答えた。


「劉勝は位が大夫になり、見礼(太守が劉勝を接見する時の礼)は上賓に対するものですが、善を知っても薦めず、悪を聞いても言わず、実情を隠して保身し、自ら寒蟬(ヒグラシ等の秋の蝉。寒くなってから寂しく鳴く蝉。寂寞の比喩として使われる)と同じくしているため、これは罪人です。今、志義力行の賢(義を志して尽力している賢才)は私がこれを推薦し、違道失節の士(道を違えて節を失った士)は私がこれを糾弾し、明府の賞刑に中を得させ(賞刑を公正中庸にさせ)、美しい名声を顕揚しています。万分の一の助けにもなっていませんか」


 王昱は恥じ入って敬服し、ますます厚く待遇するようになった。


 この党人の獄で染逮(牽連・逮捕)された者は皆、天下の名賢であった。


 度遼将軍・皇甫規こうほきは西州の豪桀を自任していたため、党人に入らなかったことを恥とし、自ら上書した。彼は自尊心は良い意味で強いと言わざる追えない。


「私は以前、元大司農・張奐ちょうかんを推薦しました。これは党人に阿附することです。また、私が昔、左校で労役の刑に処された時、太学生・張鳳ちょうおうらが上書して私のために訴えました。これは党人に阿附されることです。私はこの罪に坐すべきであると考えます」


 朝廷は上書の内容を知っても不問にした。


 このように軍人に関しては朝廷は党人の類であっても捕らえなかった。偽善というべきである。








 167年


 陳蕃が罷免されてから、朝臣が震撼戦慄した。敢えて再び党人のために発言する者がいなくなった。


 この状況において行動した者がいる。潁川の賈彪かひょうである。


「私が西行しなければ、この大禍は解けないだろう」


 賈彪は洛陽に入ってから城門校尉・竇武とうぶ、尚書・霍諝かくそ等を説得して党人のために訴えさせた。


 竇武とうぶは前年、城門校尉に任命されており、彼が官位にいた時は、多くの名士を招き、身を清めて悪を憎み、礼賂(賄賂)も拒絶した。妻子の衣食は最小限にし、両宮(天子と皇后)からの賞賜は全て太学の諸生に分け与えたり貧民に施したため、衆誉(世論の称賛)が竇武に帰していた。そのため賈彪は彼を動かしたのである。


 尊敬を集める賈彪に頼れられて奮起した竇武は上書した。


「陛下が即位して以来、いまだ善政を聞かず、常侍・黄門が競って譎詐(欺瞞、詐術)を行い、妄りに相応しくない者に爵位を与えております。伏して前漢の前例を考察するに、西漢は佞臣が執政して最後は天下を喪いました。今は前事の失(往時の失敗)を考慮せず、再び覆車の軌を巡っているため、私は二世(秦二世皇帝)の難が将来必ずまた及んで、趙高の変が時間の問題であることを恐れます。最近は姦臣・牢脩が党人の議を造り出したため、前司隸校尉・李膺らを収めて逮捕拷問し、牽連する者が数百人に及びましたが、長い時を経て拘留しても、この事によって確実な証拠など得られるはずがございません。私が思うに、李膺らは忠を建てて節を堅持し、王室の経営を志していますので、これは誠に陛下にとって后稷、契、伊尹、呂尚のような輔佐の大臣であります。ところが虚しく姦臣賊子の讒言に遭っているので、天下が心を寒くし、海内が失望しています。陛下が心を留めて明察し、すぐにでも道理を見て釈放することで、人鬼(神鬼)の期待を満足させることを願います」


「今、台閣の近臣では、尚書・朱㝢(しゅぐう)、荀緄じゅんこん劉祐りゅうゆう魏朗ぎろう劉矩りゅうきょ尹勳いんくんらが皆、国の貞士、朝(皇帝)の良佐であり、尚書郎・張陵ちょうりょう嬀皓ぎこう苑康えんこう楊喬ようきょう辺韶へんしょう戴恢たいかいらは文質彬彬(挙止が端正で礼がある様子)として国典に明達(精通)しています」


「このように内外の職において群才が並列しているにも関わらず、陛下は近習に委任して専ら饕餮(伝説の猛獣。貪婪惨忍な人の喩えとして使います)を樹立し、外では州郡を管理させ、内では心膂(中枢)を形成させています。このような者たちは順に罷免排斥したうえで罪を裁いて糾弾して罰していき、忠良を信任して善悪を評決し、邪正・毀誉にそれぞれ帰すべき場所を得させ、天官(官位)を大切にして善人だけに官位を授けるべきです。そうすれば咎徵(災異)を消して天応を待つことができましょう」


「最近、嘉禾、芝草、黄龍が出現しました。瑞(瑞祥)は必ず嘉士によって生まれ、善人によって福が至るのです。徳があれば瑞となり、徳がなければ災となります。陛下の行いは天意に合わないため、慶祝するべきではありません」


 竇武は上書を終えると病を理由に城門校尉と槐里侯の印綬を返上した。


 霍諝も党人のために上書した


 そのおかげで桓帝が若干怒りを解いたのか。桓帝は中常侍・王甫おうほを派遣して獄中で党人・范滂らを審問させた。


 范滂らは皆、三木囊頭(「三木」は頭、手、足に刑具をつけること、「囊頭」は布等を使って頭を覆うこと)という姿で階下に曝された。


 王甫が順に詰問した。


「卿等は互いに推挙し合い、唇と歯の関係のように助け合っているが、何を企んでいるのか?」


 范滂が答えた。


「仲尼の言に『善を見れば、すぐに学び、悪を見れば、すぐに避けよ』(『論語』の言葉)とある。私は善人とその善人の清廉を奨励させ、悪人とその悪人の汚れを憎ませようとしました。これは朝廷はこのようなことを聞きたいはずだと思っておりましたが、図らずも党(徒党)とみなされてしまいました。古の人が善を修めることで多くの福を得られたが、今は善を修めると身が大戮に陥れられることになっています。この身が死ぬ日は私を首陽山の側に埋めることを願います。上は皇天を裏切らず、下は伯夷と伯斉に恥じらずようにしたいのです」


 王甫は愍然(憐憫の様子)を示して顔色を改め、全ての桎梏を解いた。


 また、李膺らが供述において多くの宦官の子弟の悪事を供述したため、懼れを抱いた宦官が桓帝に対して五月に日食があったことを理由に赦免するように請うた。


 六月、天下に大赦して延熹十年から永康元年に改元された。


 党人二百余人は全て田里に帰され、名を三府に記録して終身禁固に処された。


 范滂が霍諝に遇いに行ったが、謝意を示さなかった。


 ある人が范滂を譴責すると、范滂はこう言った。


「昔、叔向は祁奚に会わなかったではないか。私がなぜ謝すというのか」


 范滂は南の汝南に帰った。南陽の士大夫で出迎えた者の車が千両(輌)を数え、郷人の殷陶いんとう黄穆こうぼくが范滂の傍で侍衛して賓客の応対をした。二人も捕えられており、范滂と共に釈放されて故郷に帰ってきたのである。


 しかし范滂は殷陶らに、


「今、汝らが私に従ったが、これは私の禍を重くすることになる」


 と言い、還郷に逃げ帰った。




















 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ