第9章:戻ってきた朝
まだ低い角度から朝の光が差し込んでくる時間だった。栞は昨夜ほとんど眠れないまま朝を迎え、窓の外の空はこれまで見たどんな朝よりも澄んで見えた。
栞は身支度を整えながら、この数日間のことをあらためて振り返っていた。距離を置くことで傷つくことを避けようとしてきたが、その距離こそが栞にとってこれまで以上に深い傷となっていた。会いたいという気持ちをこれ以上抑えることはもうできそうになかった。
栞は、しばらく洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめていた。寝不足のせいか目元にはうっすらと影があったが、その奥にある表情にはこれまでにない意志のようなものが宿っているように見えた。栞は水で顔を洗い、深く息を吸い込んでから身支度を続けた。
台所に立ち、簡単な朝食をとりながら、昨夜考え続けたことをもう一度頭の中で整理した。恐れを理由に距離を置き続けることはもう自分には向いていない、そのことだけははっきりと分かっていた。
鬼子母神の参道を栞はまっすぐに歩いた。遠回りの道を選ぶことはもうしなかった。ケヤキの葉は色づきをさらに深めていた。季節は迷っている栞を待ってはくれない。そのことを栞は身をもって感じていた。
参道を抜ける風はこれまでよりも冷たさを増していたが、栞はその冷たさをむしろ心地よく感じていた。迷い続けた日々の澱んだ空気をその風が少しずつ払い落としていくようだった。
商店街に着くと、栞は迷わず伊吹の店に向かった。臨時休業の貼り紙がまだあるかもしれないという不安が胸の奥をよぎったが、栞の足は止まらなかった。
商店街に並ぶ店先ではいつもと変わらぬ朝の準備が進められていた。八百屋の店主が水を撒きながら野菜を並べ替えている。その日常の音を耳にしながら、栞は自分だけがいつもと違う緊張を抱えていることをあらためて意識した。
店の前に着くと、ガラス戸の向こうに伊吹の姿が見えた。作業台に向かって活字を並べている。その姿を見た瞬間、栞の胸にこれまでにない安堵と、同じだけの緊張が同時に押し寄せてきた。
栞は戸を押した。ベルの音が静かな店内に響き、伊吹が顔を上げて栞を見た。その表情には驚きと、それを超えた何かが浮かんでいた。
「……来てくれたんですね」
伊吹の声がかすかに震えていた。栞は小さくうなずき、店の中へ足を踏み入れた。
「臨時休業の貼り紙を見て心配しました」
栞がそう言うと、伊吹は少し困ったように視線を落とした。
「すみません。少し考える時間が欲しくて」
「私も同じです。ずっと遠回りをしていました」
栞の言葉に伊吹は顔を上げ、ふたりの視線が久しぶりにまっすぐに交わった。これまでのどんな沈黙とも違う、静かな緊張が店内に満ちていた。
「怖かったんです」
栞がゆっくりと言葉を続けた。
「近づくほどに失うことが怖くなって、修復できないものがあるかもしれないと思うと、深く関わるのが怖くなってしまって」
「僕も、同じでした」
伊吹が静かに答えた。
「大切なものほど自分から手放してしまう、と言ったのは僕なのに、今度はそれを自分自身の手で繰り返しそうになっていました」
活字箱の縁に置かれた伊吹の手がわずかに震えていた。栞はその震えに気づき、自分の胸の奥がこれまでにない速さで脈打つのを感じた。
窓から差し込む朝の光が活字箱の金属の縁に反射して店内の壁に小さな光の粒をいくつも投げかけており、栞はそれを見つめながらこれまで積み重ねてきた沈黙の重さをあらためて実感していた。
「でも、気づいたんです」
栞が続けた。
「あなたに会えないことのほうが、近づいて傷つくことよりもずっと苦しいことだって」
栞の言葉に伊吹は目を見開き、しばらく言葉を失っていた。
「僕も同じことに気づきました。大切なものと向き合わずに終わることのほうが手放すことよりもずっと恐ろしいって」
店内にこれまでとは違う穏やかな沈黙が満ちていく。窓から差し込む朝の光がふたりの間の空気を淡い金色に染めていた。
「これから先も、修復できないものがあると思います」
栞が静かに言葉を続けた。
「でも、修復できないことと支えられないことは違うんだって。最近、そう思うようになりました」
「支えるというのは」
「完全に元通りにできなくても、これから先の時間を一緒に守っていくことはできるんじゃないかって」
栞の言葉に伊吹は小さくうなずいた。そのうなずきには、これまでのどんなしぐさよりも深い納得がにじんでいた。
「僕も同じように思います。守るために距離を置くのではなく、そばにいながら守っていく方法を探したいです」
伊吹の言葉が栞の胸にまっすぐに届き、これまで積み重ねてきた恐れが少しずつ形を変えていくのを栞は確かに感じていた。
活字を組む手と紙を修復する手、それぞれが選んできた仕事の道は違っても、大切なものを支え続けたいという思いは同じ場所にたどり着いていた。栞はそのことにこれまでにない安心を覚えていた。
窓辺に置かれた小さな時計の針が静かに時を刻み、栞は耳を澄ませながらこれまでの遠回りの日々が決して無駄ではなかったのだとあらためて感じていた。迷い続けた分だけ、今この瞬間の温かさがより確かなものに感じられた。
その日の午後、二人は店の奥の作業台を挟んでこれまでのことを少しずつ言葉にしていった。過去の傷、それぞれが抱えてきた恐れ、そしてこれから先の時間への静かな決意。一つ一つの言葉を丁寧に交わしながら二人の距離はこれまでよりも確かなものへと変わっていった。
窓の外を昼下がりの光がゆっくりと角度を変えながら通り過ぎていく。話す言葉が途切れてもその沈黙は気まずいものではなかった。互いの呼吸の間合いを少しずつ確かめ合うようなそんな穏やかな時間だった。
途中、伊吹は栞にあたたかいお茶を淹れてくれた。湯呑みを受け取りながら、栞はその何気ない気遣いにこれまでにない安心を覚えた。言葉にされた愛情よりも、こうした日常のささやかなしぐさの中にこそ伊吹の本質があるのだと栞はあらためて実感した。
夕方近く、栞は店を出る準備をしながら伊吹に尋ねた。
「今日、共同アトリエに寄って行きますか?」
「はい。久しぶりに」
伊吹がそう答えると、栞は小さく微笑んだ。これまでのように時間差で使うだけの部屋ではなく、これからは少しずつ同じ時間を重ねていけるかもしれない、という予感が栞の胸に静かに灯っていた。
商店街を歩きながら、栞は自分の足取りがこれまでのどんな日よりも軽いことに気づいた。夕方の光がいつもと同じように商店街を照らしているはずなのに、今日はその光さえいつもより優しく感じられた。
八百屋の店先では夕方の値引きを知らせる声が響き、惣菜屋からは揚げ物の香ばしい匂いが漂っていた。栞は、その匂いの一つ一つをこれまでよりも深く吸い込みながら歩いた。数日前、同じ道を歩いた時には伊吹の姿を探して不安に胸を焦がしていたが、今日は隣を歩くその人の存在そのものが栞の心をこれ以上ないほど落ち着かせていた。
商店街の外れまで来ると、栞は一度立ち止まり、隣にいる伊吹の横顔をそっと見つめた。伊吹もまたその視線に気づいたのか、少し照れたように微笑んだ。言葉を交わさなくても通じ合うものがあると、栞は初めてはっきりと実感した。
共同アトリエに着き、扉を開けると、部屋の中には久しぶりに昼と夜の気配が重なる予感が満ちていた。栞は靴を脱ぎ、部屋の中へ進んだ。窓辺の鉢植えが以前よりも幾分かは元気を取り戻しているように見えた。
「水をやってくれたんですか?」
栞が尋ねると、伊吹は少し照れたようにうなずいた。
「はい。萎れているのを見て放っておけなくて」
その言葉に栞の胸はあたたかく満たされていった。誰にも頼まれていないのに大切なものを守ろうとする伊吹の姿勢がこれまで積み重ねてきた恋の温度をより確かなものにしていく。
鉢植えの葉先にはまだ完全には戻りきっていないわずかな萎れが残っていたが、それでも茎全体はしっかりと立ち上がっており、確かな回復の兆しを見せていた。栞は、その姿にこれまで自分が悩んできたことの答えをそっと重ね合わせていた。完全に元通りにならなくても、支え続ければまた立ち上がることができる、と。
窓の外の光が少しずつ橙色を深めていく中、栞は机の前に座ってこれまで積み重ねてきた紙束をあらためて手に取った。伊吹の言葉一つ一つが今、目の前にいる本人の声とようやく重なり合っていく。
紙の手触り、インクの匂い、そしてその言葉を綴った手の持ち主。これまで別々に存在していたものが今ひとつに結びついていく感覚を栞ははっきりと味わっていた。修復してきた無数の本たちもこうして時間の断片がひとつの物語としてつながっていくものなのかもしれない、と栞はふと思った。
「これまでたくさんの言葉をこの部屋に残してきましたね」
栞がそう言うと、伊吹は小さくうなずいた。
「はい。あなたに届くかどうか分からないまま」
「全部、届いていました」
栞の言葉に伊吹は目を細めた。その表情にはこれまで見たどんな笑顔よりも深い安堵がにじんでいた。
「窓辺の光が指先を温めるという一文が特に好きでした」
栞がそう続けると、伊吹は少し驚いたように顔を上げた。
「覚えていてくれたんですね」
「全部覚えています。一つ一つの言葉を何度も読み返していたので」
栞の言葉に伊吹はしばらく黙り込んでいた。窓の外を鳥の影がひとつ静かに横切っていった。その沈黙の中で伊吹はゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「僕の言葉がそんな風にあなたの中に残っていたなんて、想像していた以上でした」
窓の外の光が藍色へと変わっていく間、二人はしばらく言葉を交わさず、ただ同じ部屋の中に立っていた。だが、その沈黙はこれまでのどんな沈黙とも違い、確かな温かさに満ちていた。
「これから少しずつ同じ時間を重ねていけたらと思います」
伊吹が静かにそう言うと、栞は小さくうなずき、窓の外に目をやった。夕暮れの空がこれまでよりもはっきりとした色を保っているように見えた。
「私も、同じ気持ちです」
伊吹は棚に近づき、そこに並んだ活字の欠片を指先で一本ずつ揃え始めた。考え事をするときのいつもの癖だったが、今日のその仕草にはこれまでにない穏やかさが宿っていた。
栞はその横顔を見つめながら、この人の些細な癖の一つ一つがこれから先も自分の日常の一部になっていくのだろうと静かに感じていた。
窓の外では商店街の灯りが夕闇の中にひとつまたひとつとともり始めていた。以前ならその灯りを見るたびに遠くにいる誰かを思って胸が締めつけられるような感覚があったが、今はその灯りの下に確かにこの人がいるという安心感だけが栞の中にあった。
その夜、栞は自宅に戻り、机の上にあの栞紐をそっと置いた。窓を開けたのは、あなたの匂いを少しでも長く留めておきたかったから、という。その言葉の主は、もう目の前にいる人だった。想像の中の存在ではなく、確かな体温を持つ伊吹だった。
眼鏡を外し、袖でレンズを拭う。いつものしぐさをしながら、栞は自分の頬がこれまでにないほどあたたかく緩んでいることに気づいていた。
台所で湯を沸かし、白湯を淹れる。湯気の立ち上るカップを両手で包みながら、栞は今日一日の出来事をゆっくりと振り返っていた。遠回りをやめた朝、店の扉を押した瞬間、そしてこれからのことを語り合った時間。どの場面もこれまでにない確かな重みを持って栞の中に刻まれていた。
白湯を一口飲むと、体の内側からじんわりとした温もりが広がっていく。栞はその温もりを味わいながら、これまで自分が抱えてきた恐れの正体をあらためて見つめ直していた。傷つくことを恐れて距離を置くよりも、傷ついてもなおそばにいたいと思える相手がいることのほうがずっと得難いものなのかもしれない、と栞は静かに結論づけていた。
窓の外の夜は、これまでのどんな夜よりも穏やかな色をしているように感じられた。栞は目を閉じながら、失いかけたことでようやく気づけたものの重さを静かに噛みしめていた。
これまで栞は、恋というものは静かに生活の中に入り込んでくるものだと思っていた。だが今夜は、その静かさの中にも確かな熱を伴う瞬間があるのだと初めて実感していた。
「……好きです」
と、小さくつぶやいた言葉が誰もいない部屋に静かに溶けていった。だが、その言葉はこれまでのどんな沈黙よりも確かな形を持っていた。まだ伊吹本人に伝えたわけではないが、自分の中でその言葉を初めてはっきりと形にできたことに栞は静かな安堵を覚えていた。
一方、伊吹もまたその夜、店の奥の部屋でこれまでの日々を振り返っていた。栞と再会したことで、大切なものと向き合わずに終わることの恐ろしさを初めて実感として理解できた気がした。
北の印刷所を去った時のことを伊吹はもう一度静かに思い返していた。あの時、自分は何も言えずに大切な場所を失った。だが今度は同じ過ちを繰り返したくないという思いがこれまでにないほど強く伊吹の胸の中にあった。
伊吹はこれまで書きかけては消してきた紙を取り出し、今度こそ最後まで書き終えるつもりでペンを手に取った。「会えない時間にも、あなたのことを考えている」その一文の続きに伊吹はこれまでよりも率直な言葉を静かに書き加えていった。
ペン先が紙の上を滑る音だけが静かな部屋に響き、これまで幾度も途中で止まっていた手が今夜は迷いなく最後まで動き続けた。書き終えた紙を伊吹はしばらくじっと見つめていた。次にこの紙を栞に手渡すときのことを想像すると胸の奥にこれまでにない温かさが広がった。
書き終えた紙を伊吹は丁寧に折りたたみ、机の引き出しの一番取り出しやすい場所にしまった。明日渡すべきかどうかは、まだ決めかねていたが、これまでのように書いては消す繰り返しに終わらせたくないという思いは確かにあった。
窓の外から、遠くの電車の音がかすかに響いてきた。伊吹はその音に耳を澄ませながら、これまでの臆病な自分とこれから向き合っていく自分との間に、確かな境界線が引かれたことを感じていた。
窓の外の夜は静かに更け、それぞれの部屋でそれぞれの心が同じ温度の中で次の朝を待ち望んでいた。近づくことへの恐れは完全には消えていないが、その恐れよりも大きな何かが確かにふたりの間に芽生え始めていた。
遠くで電車が、最終に近い時刻を告げるかのようにかすかな音を響かせていた。栞は、その音を聞きながらこれまでとは違う静けさの中で眠りに落ちていった。夢の中でも伊吹の穏やかな声がどこかで響いているような気がした。
伊吹もまた、書き終えた紙をそっと引き出しにしまい、明かりを消した。窓の外に浮かぶ月は、これまでのどんな夜よりも澄んだ光を放っているように見えた。伊吹はその光をしばらく見つめてから静かに眠りについた。二つの部屋を隔てる距離は確かにそこにあったが、その距離を埋める橋のようなものがすでに二人の間に架かり始めていた。




