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春を待つ部屋  作者: reika1021


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8/10

第8章:空白に戻る部屋

ある朝、伊吹は共同アトリエの扉を開けた。夜の間使い続けてきた部屋にはいつも通り机と棚、そして使い慣れた道具が並んでいたが、机の上には栞の痕跡が見当たらなかった。


窓辺に置かれていたはずの小さな鉢植えは少し萎れており、水をやる者がいなくなったことをその葉の垂れ方が静かに物語っていた。伊吹はしばらくその鉢植えの前に立ち尽くしていた。


窓から斜めに差し込む朝の光の中を、塵がゆっくりと舞っている。伊吹は、その塵の動きを目で追いながら、部屋の空気そのものが以前より重く、そして静かになっていることに気づいた。


かつてこの部屋には朝と夜というはっきりとした境目があったが、今その境目は以前よりも曖昧になっている。夜だけの静けさではなく、一日中通じた静けさが部屋全体を覆っているように伊吹には感じられた。


机の表面には指でなぞられた跡のようなかすかな筋がいくつも残っていた。伊吹は、いつも栞が本の背表紙を整えていた棚を目で確かめた。並びは以前見た時と同じで乱れておらず、誰の手もしばらく触れていないことの証だった。


伊吹は鉢植えに近づき、萎れた葉にそっと指先を触れた。土は乾ききっていた。伊吹はこれまでこの鉢植えの世話をしたことはなかったが、この日ばかりは備え付けのジョウロを手に取り、静かに水を注いだ。誰かが大切にしていたものを代わりに守ろうとする自分の行為に伊吹は少し戸惑いながらも、その手を止めなかった。


水を吸い込んだ土が黒く色を変えていくのを、伊吹はしばらく見つめていた。植物は水さえ絶やさなければまた葉を持ち上げてくれるが、人の心はそう簡単には戻らないのかもしれない。伊吹はそんなことを考えながらじょうろを元の場所に戻した。


次の日もその次の日も、部屋には昼の気配が戻ってこなかった。伊吹はこれまで栞が座っていた椅子の位置を無意識に目で確かめるようになっていた。誰も座っていない椅子はただの木の塊に過ぎないはずなのに、その空白は伊吹の中にこれまでにない重さを残していった。


一方、栞は工房での仕事にこれまで以上に没頭していた。難しい修復の依頼が続いていたこともあったが、それ以上に栞は、自分の心を意識的に忙しさで満たそうとしていた。栞は、共同アトリエへ足を運ぶことを自分でも気づかぬうちに避け始めていた。


朝、鬼子母神の参道を歩くとき、栞はいつもとは違う経路を選ぶようになっていた。伊吹の店がある商店街を通らず、遠回りして工房に向かうことで、伊吹と顔を合わせる機会を静かに減らしていた。


遠回りをした先の道に見慣れない小さな祠があり、栞はその前を通るたびに足を止め、なんとなく手を合わせるようになっていた。何を願っているのかは、栞自身にもはっきりとは分からなかったが、ただ迷っている自分の心を何かに委ねたいという思いだけがそこにあった。


祠の周りには誰かが供えたのだろう、小さな花が数輪置かれていた。栞はその花の名前を知らなかったが、色あせながらもまだ形を保っているその姿になぜか目を引かれた。枯れ切る前の、ギリギリの美しさというものが確かにあるのだ、と栞は思った。


遠回りの道はいつもより時間がかかったが、その分だけ栞は自分の心と向き合う時間を確保しているのかもしれない。急ぎ足で通り過ぎていた景色の中にこれまで気づかなかった細部が少しずつ見えてきた。栞は、そのことに皮肉な発見を感じていた。


「近づくほどに、遠ざかる影がある」


伊吹が残したあの言葉が栞の頭から離れなかった。その意味を栞は自分なりに理解しているつもりだった。だが、理解することと恐れが消えることとは別のことだった。


工房での作業はいつもより丁寧に、そしていつもより長く続けられていた。栞は写本のページ隅の消えかけた文字と向き合いながら、自分の中にある恐れの正体をなんとか言葉にしようと試みていた。


修復できないものがあるかもしれない。伊吹との関係もいつかそうなるかもしれない、という不安が栞の指先をいつも以上に慎重にさせていた。


だが、慎重になればなるほど、栞は自分自身の心から少しずつ遠ざかっているような感覚に襲われていた。伊吹に会いたいという気持ちと、会うことで生まれる緊張を避けたいという気持ち。その二つが栞の中で絶えずせめぎ合っていた。


工房での日々の中で、栞は時折、周囲の視線が自分に向けられていることに気づいていた。手が止まりがちなことも、いつもより長く外を眺めていることも、傍から見れば分かりやすい変化だったのかもしれない。だが、栞はそれを指摘されないよう努めていつも通りの表情を保っていた。


急いでいいものではない。それは目の前の写本のことだけでなく、今の自分の心にも当てはまる言葉のように思えた。焦って壊してしまうくらいなら、時間をかけて少しずつ確かめていくべきなのかもしれない。栞はそう思いながらも、まだ次の一歩を踏み出す勇気を完全には掴めていなかった。


窓の外を秋めいた風が吹き抜け、工房の中の紙の匂いもいつもより乾いて感じられた。栞は、その匂いを吸い込みながら自分の心の乾き方もこの空気と似ているのかもしれないとぼんやり思った。


数日が経ち、伊吹は店の作業を終えた後、いつものように共同アトリエに向かった。扉を開けると、そこにはやはり誰もいない静けさが待っていた。


伊吹は机の前に座り、窓の外を眺めた。夕方の光が少しずつ橙色を深めていく。以前ならこの時間帯には栞の気配が部屋のどこかに残っているはずだった。だが今はその気配すら薄れかけているように感じられた。


階段を上がってくる足音に伊吹は、何度も期待を寄せてしまう自分に気づいていた。だがその足音はいつも、別の部屋の住人のものか、あるいはただの風の音だった。期待と落胆を繰り返すうちに伊吹の胸にはこれまでにない疲労のようなものが静かに蓄積されていった。


窓の外を眺めながら、伊吹は活字を組む手をいつもより緩慢に動かしていた。指先に染みついた金属の匂いさえ今日はどこかよそよそしく感じられ、丁寧さを何よりも大切にしてきたはずの仕事に集中できない自分に伊吹は静かな戸惑いを覚えた。


窓際に置かれた小さな鏡に伊吹は自分の顔を映してみた。そこに映る表情はこれまで自分が知っていたものよりも幾分かは疲れて見えた。伊吹は、誰かを大切に思うことがこんなにも心を削るものだとはこれまで深く考えたことがなかった。


伊吹は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。栞に向けて書こうとして書けずにいた言葉の断片がそこには残っていた。


「会えない時間にも、あなたのことを考えている」


そう書きかけて伊吹はその先を続けられずにいた。もし栞が距離を置きたいと思っているのなら、自分の言葉がかえって負担になるかもしれない、という躊躇いが伊吹のペンを止めさせていた。


紙の上には書きかけの文字の横に幾つもの線が引かれ、消された跡が残っていた。伊吹はその跡を見つめながら、これまで自分がどれほど多くの言葉を書いては消してきたかをあらためて思い知らされた。


窓の外を夕暮れの風が吹き抜け、カーテンがわずかに揺れる。伊吹は、その揺れを見つめながら、これまでの自分の言葉が栞にとってどれほどの重みを持っていたのかをあらためて考えていた。


大切なものほど自分から手放してしまう。あの日、自分自身が語った言葉が今、伊吹自身にまっすぐに跳ね返ってきている。栞が距離を置くのはもしかしたら自分のあの告白がきっかけだったのかもしれない、と思うと伊吹の胸にこれまでにない後悔が広がった。


その夜、伊吹は店に戻って活字箱の前に座ったが、手を動かす気にはなれなかった。窓の外の商店街はいつも通りの灯りをともしていたが、伊吹の目にはその灯りがこれまでより淡く映っていた。


一方、栞は自宅で修復の記録をつけるノートを開いていたが、ペンを持つ手がなかなか動かなかった。書きたい言葉と書けない言葉の間で、栞はしばらく白紙のページを見つめていた。


「……伊吹さん」


と、小さくつぶやいた名前が静かな部屋に溶けていった。会いたいという気持ちは確かにあったが、会うことで生まれる緊張を思うと、栞の足は共同アトリエに向かなかった。


窓の外では夜がゆっくりと深まり、栞は目を閉じてこれまでの日々を順番に振り返っていた。気配だけの存在から名前を持つ存在へ、そして今また目に見えない距離が生まれている。この揺れ動きの中で栞は、自分がどこに向かおうとしているのかうまく捉えられずにいた。


数日後、栞は工房で修復を終えたばかりの写本を丁寧に箱へ収めていた。糸を新しく張り直し、破れていたページを一枚ずつ補修した本だった。完全に元通りにはできなかったが、これ以上壊れないように支えることはできた。


箱のふたを閉じながら、栞はその本がこれから先も誰かの手に渡り読み継がれていくことを思った。完璧な姿ではなくても時間を重ねた証しを残したまま次の時代へ橋渡しをする、それが自分の仕事の意味なのだと栞はあらためて感じていた。


修復の仕事を始めたばかりの頃、栞は完璧に元通りにすることばかりを目指していたが、年月を重ねるうちに完璧さよりも続いていくことのほうが大切だと少しずつ気づくようになった。壊れた部分を隠すのではなく壊れた跡ごとこれからの時間を支えていく、という考え方を今あらためて胸に刻んでいた。


その作業を終えたとき、栞はふと伊吹の言葉を思い出した。「修復できないものがあるかもしれない。だが、修復できないことと支えられないことは違うのかもしれない」。栞はその違いに初めて気づいたような気がした。


工房の窓から見える空は夕方特有の澄んだ茜色に染まっており、栞は空を見つめながらこれまでの自分の考え方に小さな穴が開いたような感覚を覚えた。完全に直せないから近づかないというのはもしかしたら逃げ道に過ぎなかったのかもしれない。


修復とは失われた時間をそのまま取り戻すことではなく、これから先の時間を共に支えていくための作業なのだと栞は今更ながら思い至った。壊れていることを理由に諦めるのではなく、壊れたままでも一緒に歩んでいく道を探すこと。それこそがこれまで自分が本当に大切にしてきたはずの姿勢ではないか。栞はそう思いながら道具を片付ける手をいつもよりゆっくりと動かしていた。


夕方、栞は工房を出て久しぶりに商店街の方向へ足を向けた。伊吹に会う勇気はまだ持てなかったが、店の灯りだけでも確かめておきたいという気持ちがあった。


歩きながら栞は、自分の中の矛盾にあらためて気づいた。会いたくないと思っているはずなのに、足は自然と伊吹の店がある方角に向かっている。頭で考えていることと体が求めていることがこんなにも食い違うものなのかと、栞は不思議な気持ちになり、自分自身を見つめ直した。


商店街に入ると、いつもと変わらぬ夕方の喧騒が栞を迎えた。惣菜屋の匂い、八百屋の値引きの声。しかし、伊吹の店の前まで来ると、栞は思わず足を止めた。


いつもなら安心して歩けたはずのこの道が今日はどこか緊張を伴って感じた。栞は自分の心臓の音がいつもより速くなっていることに気づきながらそれでも足を止めずに店の前まで進んだ。


店のガラス戸の向こうに伊吹の姿が見えなかった。


栞は少し不安になり、戸に近づいて中をのぞいた。活字箱は片付けられ、作業台の上には何も残っていなかった。店じまいをしたのか、それとも別の理由があるのか、栞には判断がつかなかった。


戸には小さな紙が一枚貼られていた。近づいて見ると、それは臨時休業を知らせる簡単な貼り紙だった。理由までは書かれていない。栞はその紙をしばらく見つめていた。文字のかすれ具合から、急いで書かれたものらしいことだけが読み取れた。


胸の奥にこれまでとは違う種類の不安が広がった。会いたくないと思っていたはずなのに、いざ会えないかもしれないと知ると、栞の心はこれまでにないほど激しく揺れ動いた。


栞はしばらく店の前に立ち尽くしていた。夕方の光が少しずつ藍色に変わっていく。栞はその変化を見つめながら、自分の中にあった恐れが実は失うことへの恐れそのものだったのだとようやく気づき始めていた。


商店街を行き交う人々の中に伊吹の姿を探すように栞は何度も視線を巡らせたが、見慣れた背中はどこにも見当たらず、その事実にこれまでにない焦りを覚えた。


夕方の人波はいつもと変わらずそれぞれの帰路を急いでいたが、栞だけがその流れの中でひとり立ち止まっているような奇妙な孤立感を覚えていた。誰かを探すという行為がこんなにも心細いものだとは栞はこれまで考えたこともなかった。


自宅に戻ってからも栞の心は落ち着かず、机の上に置かれた栞紐をもう一度そっと手に取った。窓を開けたのはあなたの匂いを少しでも長く留めておきたかったから、というその言葉の重みがこれまでとは違う形で栞の胸に迫ってきた。


栞は椅子に座ったまま、これまでの日々を順番に思い返していった。気配が消えた朝、店での偶然の出会い、名前を知った日、そして近づくほどに生まれた距離。一つ一つの出来事が今になって違う意味を持って栞の中に積み重なっていった。


もしあの時、店の戸を押さなかったら。もし栞紐を鞄に入れずに帰っていたら。栞は、数え切れないほどの分岐点を静かに思い返していた。しかし、どの瞬間でも栞は、結局伊吹の存在に心を寄せることをやめられなかった。それが栞にとっての偽らざる答えなのかもしれなかった。


眼鏡を外し、袖でレンズを拭うが、今日はそのしぐさにもいつものような落ち着きはなく、指先がかすかに震えていた。


「……会いたい」


小さくつぶやいた言葉が部屋の中に静かに響いた。これまで距離を置くことで傷つくことを避けようとしてきたが、その距離こそが栞にとってこれまで以上に深い傷になっていることにようやく気づいた。


窓の外の夜はいつもより長く感じられ、栞は目を閉じながら明日という日に何をすべきか少しずつ考え始めていた。答えはまだはっきりとは見えていなかったが、このまま黙って距離を置き続けることが正しい選択ではないということだけは確かに分かり始めていた。


その夜遅く、伊吹もまた店の奥の小さな部屋で眠れずにいた。栞に会えない日々が続くにつれ、伊吹の中でこれまで抱えてきた恐れが少しずつ形を変え始めていた。


大切なものを手放すことよりも、大切なものと向き合わずに終わることのほうがもっと恐ろしいのかもしれない、と伊吹は初めて考え至っていた。


店を臨時休業にしたのは体調のせいでも仕事の都合でもなく、ただ栞と顔を合わせないままこれまで通りに店を開け続けることが伊吹にはどうしてもできなかったからだ。何かを変えなければこのまま静かに大切なものを失ってしまう、という予感が伊吹の胸の中で日に日に強くなっていた。


伊吹はこれまで書きかけては消してきた言葉の断片をもう一度読み返した。「会えない時間にも、あなたのことを考えている」という一文だけが消されずに残っていた。伊吹はその文字を指先でなぞりながら、明日こそこの言葉を最後まで書き終えようと静かに心に決めていた。


窓の外には細い月が浮かび、伊吹は月光を見上げながら、これまでの自分の臆病さを静かに振り返っていた。守るために距離を置くという選択は、結局のところ、大切なものを手放すことと何も変わらないのかもしれない。伊吹は、そのことにようやく気づき始めていた。


窓の外の夜は静かに更けていった。それぞれの部屋で、それぞれの心が同じ静けさの中で同じ問いを抱えていた。近づくことを恐れながらも離れることをもっと恐れている自分に栞も伊吹も少しずつ気づき始めていた。


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