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春を待つ部屋  作者: reika1021


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7/10

第7章:近づくほどの距離

あの日を境に、栞と伊吹の日々は少しずつ形を変えていった。工房の帰りに店へ寄ることも、共同アトリエで顔を合わせることも以前よりずっと自然になっていたが、その自然さの中に栞は時折説明のつかない硬さを感じることがあった。


朝の空気は、もう秋の気配を含み始めていた。鬼子母神の参道を歩く栞の吐く息がうっすらと白く見える朝もあった。季節が移ろうようにふたりの関係も少しずつ変わっていったが、その変化がいつも同じ方向を向いているとは限らなかった。


商店街の店先に並ぶ果物もいつの間にか夏の名残の桃から秋の走りである梨へと変わっていた。栞はそうした小さな変化の一つ一つにこれまでよりも敏感になっている自分に気づいていた。季節の移ろいは止められない。それと同じように人の心の移ろいもまた意志の力だけでは簡単には止められないものなのかもしれない。


境内のケヤキは葉先からわずかに色を変え始めており、緑の奥にほんのりと黄色の兆しが見え始めていた。栞は、その変化を目で追いながら、季節と同じように人の心もまた気づかぬうちに色を変えていくものなのだろうかとぼんやりと考えていた。


この頃、工房での作業は以前より落ち着いた手つきで進められるようになっていたが、その落ち着きの奥には栞自身も気づいていない小さな揺らぎが確かに潜んでいた。


その日、栞が店を訪れると、伊吹は珍しく作業の手を止めたまま窓の外を眺めていた。


「どうかしましたか?」


栞が声をかけると、伊吹はゆっくりとこちらを向いた。


「いえ、少し昔のことを思い出していて」


「昔のこと?」


「前に、大切にしていた印刷所があったんです。北にいた頃、師匠の下で働いていた場所です」


伊吹の声にはこれまで聞いたことのない静かな重みがあり、栞は椅子に腰を下ろしてその言葉の続きを待った。窓から差し込む午後の光が伊吹の輪郭をいつもより淡く縁取っていた。


「経営が苦しくなって、僕にも意見を求められました。でも、僕は何も言えませんでした。何かを言えば、師匠を傷つけるかもしれないと思って」


「それで」


「結局、印刷所は閉じました。僕は大切なものを守るために動くべきだったのに、何もできなかった」


伊吹はそう言って視線を落とし、栞は伊吹の横顔にこれまでに見たことのない影を見つけた。窓の外を通り過ぎる自転車のベルの音さえ、その静けさの中ではやけに大きく響いた。


「それから、大切なものほど自分から手放してしまう癖がついたのかもしれません」


「手放すというのは」


「深く関わる前に少し距離を置いてしまう。傷つけたくないし、傷つきたくないから」


伊吹の告白に、栞は胸の奥が静かに締め付けられるのを感じた。これまで見てきた伊吹の控えめな態度の裏にこんな過去が横たわっていたことを栞はまだ知らなかった。


活字箱の中の金属が光を受けて鈍く光っていた。栞はその光を見つめながら伊吹の言葉の一つ一つを丁寧に胸の中にしまい込んでいった。


「私にも似たようなところがあります」


栞がそう言うと、伊吹は顔を上げた。


「本の修復をしていると、どうしても直せないものに出会うことがあります。糸がすっかり切れていたり、紙そのものが崩れていたり。そういう時、私は人との距離も同じなんじゃないかと思うことがあります」


「同じ、というと」


「一度壊れてしまったら元には戻せないかもしれない、そう思うと深く近づくことが少し怖くなるんです」


栞は自分の指先を見つめながら言葉を続けた。長年紙の繊維や糸の緩みと向き合ってきた指先は、修復できるものとできないものとの境界を経験として知っていたが、その経験は時として栞自身の心を必要以上に慎重にさせてしまうのだった。


「修復できないとわかった本を目の前にすると、いつも申し訳ない気持ちになります。直してあげられなかったというよりも、その本が歩んできた時間そのものをもう誰も取り戻せないのだと気づかされるからです」


栞の言葉に伊吹は小さくうなずき、二人の間にこれまでとは違う種類の沈黙が流れた。それは、理解し合ったからこそ生まれる静かな距離だった。


その日の会話はそこで終わったが、栞の中にはこれまでにない不安が芽生えていた。互いに近づくほどに傷が見えてくるが、その傷をどう扱えばいいのか栞にはまだ分からなかった。


店を出る時、栞は一度だけ振り返って伊吹の姿を目に焼き付けるように見た。活字箱に向かうその背中はいつもと変わらないはずなのに、今日はどこか遠くにあるもののように感じられた。栞はその感覚を持て余したまま商店街を歩いて帰った。


数日後、栞は工房でいつも以上に丁寧な作業を求められる依頼を受けた。江戸期の写本で糸がほとんど朽ちかけており、難しい修復だった。栞は作業に没頭することで心の中の落ち着かなさを少しずつ紛らわせていた。


写本のページは触れるだけで崩れてしまいそうなほど脆くなっていたため、栞は特製の和紙を薄くすいた補修材一片一片を丁寧に当てながら時間をかけて作業を進めた。細心の注意を払わなければ直すつもりがかえって壊してしまうこともあり、そのギリギリの緊張感が今の栞にはどこか自分自身の心境と重なって感じられた。


しかし、作業に没頭すればするほど、共同アトリエへ行く足は遠のいていった。伊吹と顔を合わせることが、これまでのように単純に嬉しいこととして受け止められなくなっていたのだ。近づきたい気持ちとこれ以上近づくことへの戸惑いが栞の中で綱引きを続けていた。


午後になるにつれ、工房の窓から差し込む光は少しずつ角度を変えていく。栞は、その光の移ろいをいつもより長く見つめる時間が増えた。


同僚の職人たちの手元から糊を溶く水音や鋏が紙を切る乾いた音が断続的に響いてくる。栞は、その音の連なりに耳を傾けながら自分の手元にある写本と向き合っていた。写本のページの隅には、かつての持ち主が書き込んだのだろう、消えかけた文字が薄く残っている。誰かの生きた時間がこんなにもささやかな形で紙の上に留まっているのだと思うと、栞の胸にいつも以上に慎重な気持ちが宿った。


修復とは失われたものを完全に取り戻すことではない。栞はこれまでの仕事を通してそのことを身をもって学んできた。できるのはこれ以上壊れないように支えることと、残された時間を丁寧に守り続けることだけだった。人との関係もまた同じなのかもしれない、と栞はふと思った。


ある夕方、栞が共同アトリエの扉を開けると、伊吹はすでにそこにいた。栞にとっては久しぶりの訪問で、窓から差し込む夕方の光が伊吹の背中を橙色に縁取っていた。


「最近、忙しいんですか?」


伊吹が尋ねると、栞は小さくうなずいた。


「難しい修復の依頼があって。糸がほとんど残っていない写本で」


「大変そうですね」


「はい。でも、それだけじゃなくて」


栞は言葉を濁した。伊吹はそれ以上詮索せず、ただ静かにうなずいて栞の言葉を待った。その待ち方には、これまで見てきたどんなしぐさよりも深い誠実さが宿っていた。


「直せないものがあるかもしれないって、そう思うと手が止まってしまうんです」


「本の話ですか。それとも」


伊吹の問いに栞は答えられなかった。本の話でもあり、それ以外の話でもある。二つの意味を同時に抱えたまま栞は視線を落とした。


「無理に話さなくてもいいです」


伊吹がそう言った。その優しさに栞はかえって胸が締め付けられるのを感じた。優しくされるほど自分の中の臆病さがはっきりと浮かび上がってくるようだった。


部屋の中にこれまでとは違う静けさが満ちていた。互いに踏み込みたい気持ちと踏み込むことへのためらいが同じ空間の中で静かにせめぎ合っていた。栞はその空気の重さを痛いほど感じ取っていた。


その夜、栞は帰り道で、これまでとは違う重さを胸に抱えていた。近づくことがこんなにも怖いことだったとは。栞はこれまで、恋というものは静かに生活の中に入り込んでくるものだと思っていた。だが、その静かさの奥にこれほどの緊張が潜んでいるとは、思ってもみなかった。


商店街の灯りがいつもよりにじんで見えた。栞は目を細め、そのにじみの正体が涙のせいなのか、それとも単に疲れているだけなのか自分でも見極めかねた。ただ、胸の奥に沈む重さだけがはっきりと感じ取れた。


参道に差し掛かると、ケヤキの葉が乾いた音を立てて落ちてきた。季節が着実に進んでいることをその一枚の葉が静かに告げており、栞はその葉を拾い上げてしばらく手のひらの上で眺めた後、そっと地面に戻した。


自宅に着き灯りをつけると、栞は椅子に座って窓の外を眺めた。夜の街の灯りがいつもより遠く感じられた。


「……怖い」


と、小さくつぶやいた言葉が静かな部屋に溶けていった。何が怖いのか、栞は自分でもうまく説明できなかった。ただ、これまで積み重ねてきた温かい時間が何かの拍子に崩れてしまうかもしれないという予感だけが胸の中にあった。


眼鏡を外し、袖でレンズを拭う。いつものしぐさをしながら、栞は自分の中にある矛盾に気づいていた。伊吹に近づきたいという気持ちと、これ以上近づいていつか手放すことになるのなら、今のうちに距離を置いておきたいという気持ち。その二つが絶えず胸の中でせめぎ合っていた。


一方、伊吹もまた自分の中の変化に戸惑っていた。栞との距離が縮まるほど、伊吹の中で過去の記憶がより鮮明に蘇るようになっていた。師匠のもとを離れた時の後悔、大切なものを守れなかった自分への失望が栞との関係にも影を落とし始めていた。


伊吹は店の作業台で活字を並べる手を止め、窓の外に目をやった。商店街の灯りが夕闇の中にひとつ、またひとつとともり始めている。伊吹は灯りを眺めながら、自分の中にある矛盾を静かに見つめていた。


指先に残る活字の冷たさをいつもより強く感じていた。金属という素材は時間が経っても変わることなくそこにあるが、人との関係はそうはいかない。触れ方ひとつ、間合いひとつで簡単に形を変えてしまう。伊吹はそのことをこれまでの人生で何度も思い知らされてきた。


栞のことを大切に思う気持ちは確かにあるが、大切に思うほどに失うことへの恐れも同じだけ大きくなっていく。伊吹は、その恐れをこれまでずっと誰にも打ち明けたことがなかった。今日初めてその一端を口にしたことで、伊吹の中にはこれまでにない解放感と、同じだけの後悔が入り混じっていた。


言わなければよかったのか、それとも言えたことは良かったのか。伊吹は活字箱の縁を指先でなぞりながら答えの出ない自問を何度も繰り返していた。


数日の間、二人の関係にはこれまでにない静けさが漂っていた。会うたびに交わす言葉は以前より少なくなり、代わりに互いの様子を注意深くうかがうような空気が生まれていた。


商店街を歩く栞の足取りにも以前ほどの軽さはなく、店の戸を押す手にもわずかなためらいが混じるようになっていたが、それでも栞は店を訪れることをやめなかった。近づくことへの恐れと離れることへの寂しさが拮抗したまま、栞の毎日を形作っていた。


ある日栞が店を訪れると、伊吹はいつものように活字を並べていた。しかし、その手つきにはこれまでにない硬さがあった。


「お疲れですか?」


栞が尋ねると、伊吹は顔を上げ、少し無理をしたように微笑んだ。


「いえ、大丈夫です」


その返事に栞は違和感を覚えたが、それを問いただす勇気は今の栞にはなかった。二人の間にこれまでとは違う目に見えない距離が生まれていることを栞ははっきりと感じ取っていた。


店内にはいつもと変わらぬインクの香りが漂っていたが、その香りさえも今日はどこかよそよそしく感じられた。栞は棚に並んだ試作品に目をやりながら次の言葉を探していたが、うまい言葉は見つからなかった。


下校途中の学生たちが窓の外を賑やかに通り過ぎていった。その声が店内の静けさと対照的に響き、栞はかえって自分たちの沈黙の深さをはっきりと意識させられた。伊吹もまたその声に耳を傾けるように一瞬だけ窓の外へ視線を向けた。


「また来ますね」


栞がそう言うと、伊吹は小さくうなずいた。


「はい。待っています」


短いやり取りだったが、その声にはこれまでのような屈託のなさはもうなかった。互いに気を遣い合っているような硬さが言葉の端々ににじんでいた。


その日、栞は店を出る際、いつもより早く別れを告げた。伊吹もまた引き止めることはなかった。互いに近づきたい気持ちがありながら、同時に踏み込むことへのためらいが二人の間に静かに横たわっていた。


戸口を出る時、栞は一度だけ振り返った。伊吹はすでに作業台に向き直っていたが、その背中にこれまでにない孤独のようなものがうっすらと浮かんでいるように見えた。栞はしばらくその背中を見つめたまま動けなかったが、結局声をかけることができず、店を出た。


共同アトリエに向かう道中、栞は自分の胸の内を何度も整理しようとした。伊吹の過去の話、そして自分自身の修復できないものへの恐れ。この二つの恐れが重なり合って、これまでの穏やかな時間を少しずつ揺らがせていた。


夕暮れの空はいつもより雲が多く、橙色と灰色とが複雑に混ざり合っていた。栞はその空を見上げながら、自分の心の中もあんな風に、はっきりとした色を持てずにいるのだと感じた。


部屋に着き扉を開けると、いつもの静けさが栞を迎えたが、その静けさは以前のような温かいものではなく、どこか張り詰めたものだった。栞は、窓の隙間から入り込む風にさえ敏感に反応してしまう自分に気づいていた。


机の上にはいつものように紙が置かれており、栞はそれを手に取って目を通した。


近づくほどに遠ざかる影がある。


その一文を読んだとき、栞の胸が鈍く痛んだ。伊吹もまた同じ戸惑いを抱えているのだと、その言葉から伝わってきた。近づきたいのに近づくことが怖い、という矛盾した感情を二人は同時に抱えていた。


紙の余白には何度も書き直した跡のような薄い消し跡が残っていた。伊吹がこの一文にたどり着くまでにどれほどの言葉を書いては消したのか。栞はその痕跡を指先でなぞりながら伊吹の逡巡をそのまま自分のものとして感じ取っていた。


栞はしばらくその紙を見つめていた。窓の外では、夕方の光がいつもより早く藍色に沈んでいくように感じられた。季節が進むにつれ日が短くなっているせいもあるのだろうが、栞にはその変化がふたりの間の空気の変化と重なって感じられた。


棚に並んだ本の背表紙を栞は無意識のうちに指でなぞった。考え事をするときのいつもの癖だった。しかし、今日は本の並びを整えても心の中の乱れは少しも収まらなかった。


その夜、栞は布団に入ってからもなかなか寝つけなかった。近づくほどに距離が生まれるという矛盾をどう受け止めればいいのか、栞にはまだ分からなかった。ただ、伊吹の過去の話と自分自身の恐れが頭の中で静かに絡み合っていた。


天井を見つめながら栞は、これまでの日々を順番に振り返っていった。気配の消えた朝から始まり、名前を知り笑顔を見た日まで。積み重ねてきた時間は確かにあたたかいものだったはずなのに、今はその温かさの中にこれまでにない冷たい影が差し込んでいるように感じられた。


窓の外の夜はこれまでよりもどこか冷たい色をしているように感じられ、栞は目を閉じながらこの静けさが何かの終わりの前触れなのか、それとも次の一歩へ向かうために必要な沈黙なのか答えの出ないまま考え続けていた。


遠くで電車の音が響いた。いつもならその音を聞くと少しだけ心が落ち着くはずだったのに、今夜は音さえどこか遠くよそよそしく感じられた。栞は寝返りを打ちながら伊吹の言葉をもう一度頭の中で反芻した。


大切なものほど自分から手放してしまう。


その言葉は栞自身の中にも確かに共鳴する部分があり、もしこのまま近づき続けたらいつか自分もまた同じように大切なものを手放してしまうのではないかという不安が栞の眠りを浅く覚束ないものにしていった。


窓の外に雲間から月がのぞき、栞はその光を見つめながら答えの出ない自問をいつまでも繰り返していた。近づくことと遠ざかること、そのどちらが二人にとって正しい選択なのか、今の栞にはまだ判断がつかなかった。


月明かりが机の上に置かれた栞紐をうっすらと照らしていた。栞は、その光の中で栞紐の輪郭をしばらく見つめていた。手放したくないという思いと傷つく前に離れておきたいという思いが同じ光の中で静かに重なり合っていた。答えはまだどこにも見つからないまま、夜は静かに更けていった。


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