↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春を待つ部屋  作者: reika1021


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/10

第10章:同じ時間の朝

窓の外が白く明るくなり始める時間だった。栞は共同アトリエの扉の前に立ち、鍵を取り出した。今日はいつもより早い時間だった。伊吹もまた同じ時間にここへ来る約束をしていた。


まだ人通りの少ない路地に栞の足音だけが規則正しく響き、いつもなら急ぐことのない朝の時間が今日は少しだけ逸る気持ちに引っ張られているように感じられた。


参道を抜けてきた朝の空気はこれまでよりも澄み切っており、欅の葉の間から漏れる光が石畳の上に細かな模様を描いていた。栞は、その模様を踏みながらこれまでとは違う心持ちでこの道を歩いてきたことに気づいていた。


鍵を鍵穴に差し込む指先にいつもとは違う軽やかさを感じた。これまでこの扉を開けるたびに、そこにあるかもしれない不在に栞は身構えていたが、今日はその先に確かな約束が待っていることを知っていた。


扉を開けると、朝の光が部屋の奥まで静かに差し込んでいた。これまで幾度となく見てきたはずの光景なのに、今日はどこか初めて目にする景色のように感じられた。窓辺の鉢植えはすっかり葉を持ち上げ、朝の光を受けて瑞々しい緑を放っていた。


栞は靴を脱いで部屋の中へ進み、机の上のいつもの紙束を手に取ろうとしたが、今日はその前に窓を開けた。すると、秋の澄んだ空気が部屋の中へゆっくりと流れ込んできた。


しばらくすると、階段を上がってくる足音が聞こえた。栞は振り返って扉を見つめた。すると、扉が開き、伊吹が立っていた。


「おはようございます」


伊吹がそう言って静かに微笑んだので、栞もまた同じように微笑み返した。


「おはようございます」


これまでこんなにも自然な朝の挨拶をこの部屋で交わしたことはなかった。時間差でしか存在しなかった二人の気配が今初めて同じ朝の光の中で重なり合っていた。


伊吹は上着を脱ぎ、いつもの場所に丁寧に掛けた。そのしぐさひとつにも、これがもう日常の一部になり始めていることが感じられた。栞は、その様子を見ながら、これからの朝がこんな風に積み重なっていくのだろうとぼんやりと思いを巡らせていた。


伊吹は部屋に入り、窓辺の鉢植えに目をやった。


「元気になりましたね」


「はい、おかげさまで」


栞がそう答えると、伊吹は小さくうなずいた。窓から差し込む光が鉢植えの葉の輪郭をくっきりと縁取っていた。


栞は机の前に座り、鞄から一冊の本を取り出した。先日修復を終えたばかりの古い随筆集で、糸を新しく張り直して破れていた表紙を丁寧に補修した本だった。


表紙をめくると、見返しの紙にも栞が一つ一つ手を入れた跡が見て取れた。長い時間をかけて向き合った証が、この一冊に静かに積み重なっている。


「これ、見てもらえますか?」


栞が差し出すと、伊吹はその本を両手で丁寧に受け取った。


「きれいに直っていますね」


「完全に元通りにはできませんでした。でも、これから先も誰かの手に渡っていくようにと思って」


栞の言葉に、伊吹は本の表紙を指先でそっと撫でた。修復の跡はよく見なければ分からないほど丁寧に仕上げられており、糸の張り方、紙の継ぎ目、そのどれもが栞の長年の経験を物語っていた。


伊吹は本を開き、ページをゆっくりとめくった。染みの残る箇所をあえて完全には消さず、その本が歩んできた時間をそのまま残す形で仕上げてあった。伊吹は、そのやり方から栞という人の仕事への向き合い方をはっきりと感じ取っていた。


「これならまた長く読み継がれていきそうです」


伊吹はそう言って本を栞に返し、栞はそれを机の上にそっと置いた。


「実は私も、あなたに見てもらいたいものがあります」


伊吹がそう言って鞄から小さな包みを取り出し、丁寧に開けた。そこには一枚のしおりが入っていた。淡い青色の紙に細やかな模様が刷られている。


「新しく刷ったものです。あなたが直したその本に挟んでもらえたらと思って」


栞は驚いたようにその栞を見つめた。紙の質感、活字の並び、そのすべてに伊吹らしい丁寧さが宿っていた。淡い青の色合いはまるで朝の空の色をそのまま写し取ったかのようだった。


「これを、あの本に」


「はい。あなたが時間をかけて直した本に僕が刷ったものを添えられたら、なんだか嬉しいなと思って」


栞は小さくうなずき、そのしおりを受け取った。手のひらに伝わる紙の重みは、これまで感じたどんなものよりも確かな温もりに感じられた。指先でしおりの縁をなぞると、丁寧に断ち切られた感触がこれまで見てきた伊吹の几帳面さをそのまま映し出しているように思われた。


栞は本を開き、そのしおりを真ん中のページにそっと挟んだ。修復した紙と新しく刷られた栞の質感が同じ一冊の中で静かに寄り添っていた。


ページをゆっくりと閉じると、しおりは本の一部となり、外からは見えなくなった。しかし、栞は指先の感触を通して、確かに新しい何かが加わったことをはっきりと感じ取っていた。栞は本を胸に抱くようにして、しばらくその重みを味わっていた。


「不思議ですね」


栞が静かに言った。


「直したものと新しく作られたものがこうして重なり合うなんて」


「僕は、そうやって重なっていくものが好きです」


伊吹の言葉に栞は目を伏せて微笑んだ。嬉しい時のいつもの仕草だった。


窓から差し込む朝の光が栞の伏せたまつげの先に小さな輪郭を作っていた。伊吹は、その表情をしばらく見つめていた。これまで数えきれないほど見てきたはずの微笑みが、今日はこれまでとは違う意味を持って目に映っているように感じられた。


窓の外では朝の光が少しずつ角度を変え、部屋の中に差し込む光の帯が床の上をゆっくりと移動していく。栞は伊吹と並んでその光の動きを静かに眺めていた。


「これからこの部屋をどう使っていきましょうか?」


伊吹がふと尋ねた。


「時間差ではなく、同じ時間に、ということですか?」


「はい。せっかくなら少しずつそうしていけたらと思って」


栞は小さくうなずいた。


「私も同じ気持ちです。昼と夜で分けるのではなく、重なる時間を増やしていけたら」


伊吹は棚に近づき、活字の並びを指先で整え始めた。栞もまた、本棚の背表紙を無意識のうちに整えていた。それぞれの癖が同じ部屋の中で同時に動いている。その光景を栞はどこか不思議な気持ちで眺めていた。


かつては互いの気配だけがこの部屋の時間差の中で静かにすれ違っていたが、今は同じ光の中で同じ動作をそれぞれのやり方で重ねている。栞は、その小さな変化にこれまでの日々の積み重ねが確かに実を結んでいるのだと感じていた。


「机の配置、少し変えてみませんか?」


伊吹がふとそう提案した。


「これまでは昼と夜、それぞれが使いやすいように置かれていたから」


「そうですね。これからは一緒に使う前提で考えてみましょうか」


栞がそう答えると、伊吹は少しうれしそうに机の脚に手をかけた。二人で少しずつ位置を調整しながらこれまでとは違う部屋の姿を一緒に作り上げていく。その作業の一つひとつが栞にとってはこれからの日々を象徴するようなささやかな儀式のように感じられた。


机を窓際に寄せると、朝の光がこれまでよりもまっすぐに作業台へ差し込むようになった。伊吹はその変化を確かめるように活字箱を一度そこに置いてみた。


椅子を二脚並べてみると、狭い部屋がこれまでよりも広く感じられた。物理的な広さが変わったわけではないのに、そこに流れる空気そのものがこれまでとは違う伸びやかさを帯びているようだった。


「これなら朝の作業もはかどりそうです」


「私もこの位置なら、修復の細かい作業がしやすそうです」


栞がそう言うと、伊吹は満足げにうなずいた。二人で作り上げたこの新しい配置が、これから先、一緒に過ごす時間の土台になっていくのだろうと、栞は静かに感じていた。


「これまでこの部屋は私にとって、誰かの気配を感じるだけの場所でした」


栞が静かに言葉を続けた。


「今はその気配に名前と顔と声がある。それがこんなにも違うものだとは思っていませんでした」


伊吹は手を止め、栞のほうを見た。


「僕にとっても同じです。あなたという存在がこんなにも日々を変えるものだとは思っていませんでした」


栞は窓辺に近づき、鉢植えの葉にそっと触れた。指先に伝わる葉の張りに、これまでとは違う確かな生命力を感じた。


「この鉢植えも最初は誰の世話も受けずに萎れかけていました」


栞がそう言うと、伊吹は小さくうなずいた。


「はい。でも、少しずつ水をやり続けたら、こうして元に戻ってくるものです」


「私たちの関係も、同じだったのかもしれません」


栞の言葉に伊吹は目を細めた。何かを深くかみしめるような、そんな表情だった。窓の外から差し込む光が鉢植えの緑を一層鮮やかに際立たせていた。


葉先に残っていたわずかな萎れも今朝はもうほとんど目立たなくなっていた。栞はその変化を見つめながら、時間をかけて手をかければ失われかけたものもまた息を吹き返すのだとあらためて実感していた。


窓の外の光が部屋全体を明るく満たしていく中、栞はこれまでの日々を静かに振り返っていた。気配の消えた朝から始まり、名前を知り、距離を恐れ、そして今、同じ朝を迎えている。長い道のりだったはずなのに、振り返ればそれは瞬く間の出来事のようにも感じられた。


「これからも、よろしくお願いします」


栞がそう言うと、伊吹は小さくうなずいた。


「はい。こちらこそ」


短いやり取りだったが、その言葉にはこれまでのどんな約束よりも確かな重みがあった。まだどちらも「恋」という言葉を口にしてはいなかったが、その温度は確かに静かな朝の光の中に満ちていた。


伊吹は椅子から立ち上がり窓辺に近づき、栞もまたその隣に立って外の景色を眺めた。ビルの隙間から見える空は澄んだ青一色で雲の影ひとつなく、二つの視線は同じ方向を向いていた。それだけのことが栞にとってはこれまでのどんな言葉よりも雄弁な証のように感じられた。


栞は窓の外を見た。商店街の方角から朝の喧騒がかすかに聞こえてくる。惣菜屋が店を開ける音、自転車のベルの音。いつもと変わらない街の朝が今日も静かに始まっていた。


伊吹は修復された本を机の上に丁寧に置き直した。栞が刻んだ時間の痕跡と伊吹が添えた新しいしおり。二つの手が関わった一冊の本が朝の光の中で静かに佇んでいた。


「この本、大切にしますね」


栞がそう言うと、伊吹は小さく微笑んだ。


「はい。僕もそのしおりが大切に使われるところを想像しています」


栞は本を手に取り、表紙をそっと撫でた。糸の一針一針にこれまでの自分の時間が込められ、そこに伊吹の刷った栞が加わることでこの一冊は二つの時間が重なった特別な一冊になった。


窓の外に鳥の声が澄んだ音で響き渡る。栞は、その音に耳を澄ませながら、これまでの不安や恐れが少しずつ穏やかな確信へと変わっていくのを感じていた。


修復できないものはこれからもあるだろう。しかし、修復できないことと、共に生きていけないことは違うのだと栞は今確かに理解していた。伊吹もまた、大切なものを手放す代わりにそばで支え続けるという道を選び直していた。


窓の外の空は雲ひとつなく晴れ渡り、栞と伊吹はしばらく言葉を交わさずにその空を並んで眺めていた。会話がなくても気詰まりではなく、むしろその静けさこそがこれまで積み重ねてきた時間の確かな証だった。


空の青は季節が進むごとに少しずつ深みを増し、栞は、その色の変化に自分たちが過ごしてきた時間の重なりを静かに重ね合わせていた。同じ空をこれまで何度も見上げてきたはずなのに、今日ほどその青さが心にまっすぐ届いたことはなかった。


伊吹がふと栞のほうを見た。栞もまたちょうど同じ瞬間に伊吹のほうを見ており、どちらからともなく小さく笑い合った。言葉にしなくても通じ合うものがあると、栞はあらためて実感した。


「そろそろ仕事に行きます」


栞がそう言うと、伊吹はうなずいた。


「はい。僕も店を開けないと」


栞は鞄を手に取り、扉の方へ歩いた。伊吹もまたその後ろについて部屋を出る準備をした。二人で一緒に部屋を出るのはこれが初めてのことだった。


鞄の中に修復した本と伊吹が刷ったしおりをそっと一緒にしまい、栞はその重みを手に感じながらこれから毎日この本を持ち歩くことになるのだろうと静かに思いを巡らせた。誰かに見せびらかすためではなくただ自分の胸の内でその存在を確かめるためのささやかな習慣になりそうだった。


扉を出て鍵をかけながら栞が小さく笑うと、伊吹もまた口元を緩めた。


「また、夕方に」


「はい。また、夕方に」


短い挨拶を交わし、栞は工房へ、伊吹は商店街へと、それぞれ歩き始めたが、その足取りはこれまでのどんな朝よりも軽やかだった。


数歩進んだところで栞はふと振り返り、伊吹もまた同じように振り返った。互いに小さく手を挙げ、それぞれの方向へまた歩き出した。何気ないしぐさの一つひとつに、これまで積み重ねてきた時間の重みが確かに宿っているように感じられた。


商店街の入り口で伊吹の後ろ姿が朝の光の中で少しずつ小さくなっていく。栞はその背中を見送りながら、夕方にはまたあの後ろ姿に会えるという確かな安心を静かにかみしめていた。これまでの不安げな別れとはまったく違う質の見送り方だった。


参道のケヤキは朝の光を受けて色づいた葉を静かに輝かせており、栞はその光景を見上げながらこれから先の季節がこれまでとは違う色を帯びていくのだろうと静かに感じていた。


工房への道すがら、栞はこれまでのことをもう一度静かに振り返っていた。気配だけの日々、名前を知った驚き、近づくほどに生まれた距離、そして失いかけて気づいた本当の気持ち。長い回り道だったが、その道のりのすべてが今の穏やかな朝に確かにつながっていた。


もしあの日、部屋の扉を開けたときに感じた違和感がなければ、今のこの朝は存在しなかったのかもしれない、と栞は思った。あの小さな喪失感さえも今となっては大切な始まりのひとつだったのだ、と栞は感謝の気持ちを抱きながら振り返ることができた。


工房の看板が見えてくるころには朝の光が街全体をすっかり明るく包み込んでおり、栞は最後にもう一度伊吹と過ごした部屋の方角をそっと振り返った。


まだ恋と呼べる温度ではないかもしれないが、その温度は確かにふたりの間にこれからも静かに息づいていくのだろう。栞はそう思いながら、工房への道をいつもよりゆっくりと歩いていった。


商店街に差し掛かると、伊吹の店の方角から活字を組む音が聞こえてくるような錯覚を栞は覚えた。実際にはまだそこまで届くはずのない距離だったが、心の中では確かにその音が響いている気がした。


工房に着き扉を開けると、いつもと変わらぬ紙と糊の匂いが栞を迎えたが、今日はその匂いにさえこれまでにない親しみを感じた。栞は鞄から修復した本を取り出し、作業台の隅にそっと立てかけた。


窓から差し込む朝の光が本の背表紙に細く長い影を落としており、栞は、その影の形を見つめながら、この本もまたこれから先、誰かの手で新しい時間を重ねていくのだろうと静かに思いを巡らせた。表紙の内側には伊吹が刷ったしおりがまだ誰にも気づかれずにそっと挟まれていた。


修復とは時間を止めることではなく、続けていくための手当てなのだと栞は改めて思った。糸の一針、しおりの一折り、そのどちらもこれから先へと渡していくための小さな橋渡しに過ぎないが、その小さな橋渡しの積み重ねこそが人と人との時間をも静かに繋いでいくのだろう。


栞は自分の指先を見つめた。長年紙や糸に触れてきたその指先がいつの間にか人との関わり方まで少しずつ形作ってきたのかもしれない。修復の仕事を選んだことは決して偶然ではなかったのだと栞は今あらためて感じていた。


栞は窓の外を見た。澄み切った秋の空の下、商店街の方角からかすかな喧騒が届いてくる。栞は、あの喧騒の中に今も活字を組んでいるはずの伊吹の姿を思い描いた。会えない時間の中にも確かなつながりがあることを栞はもはや疑っていなかった。


離れている時間があるからこそ、再び会えた時の温度をより確かなものに感じられると、栞はこれまでの日々を通して身をもって学んでいた。だからこそ、これから離れている時間も以前のような不安ではなく、次に会うための静かな待ち時間として受け止められそうな気がした。


窓辺に置いた本の表紙が朝の光を受けて静かに白く光っていた。時間差で使っていた部屋に今朝初めて同じ光が差し込んだように、これから先の日々にも少しずつ同じ時間が重なっていくのだろう。


これから先、季節はまた巡り、街の色も何度も移り変わっていくはずだ。しかし、この部屋に灯った小さな明かりだけが、これからも変わらずそこにあり続けると栞は静かに信じていた。


まだ恋という言葉にはたどり着いていないが、その手前で灯り続ける温度こそがこの街で栞と伊吹がゆっくりと育ててきたものだった。栞は静かに微笑み、窓辺の光にしばらく目を細めていた。


-完-


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。