第4章:街角の間合い
空が薄い水色から次第に乾いた白へと変わっていく時間だった。栞は工房への道を歩きながら、昨日の店のことをまた思い出していた。忘れようとしているわけではない。ただ、思い出さないでいることの方が栞には難しかった。
参道の脇に並ぶ家々の窓にはまだ雨戸を開けたばかりの家もあれば、すでに洗濯物を干し始めている家もあった。朝の光の中に人の暮らしの気配がいくつも重なって漂っている。栞はその気配の一つ一つをいつもより丁寧に感じ取りながら歩いていた。
道端の水たまりに朝の空が映り込んでおり、栞は少しの間その水面を見つめた。昨日までなら気に留めなかったはずの光景が今日はなぜか目に留まった。心のどこかがいつもより開かれているのかもしれない、と栞はぼんやりと思った。
工房での仕事は朝から立て込んでいた。古い和装本の綴じ直しで、糸の張り具合を一つ一つ確かめながら進める時間のかかる作業だった。指先に集中していると頭の中の余計な考えは少しずつ後ろへ退いていく。
窓の外を宅配の自転車が通り過ぎていく音がする。糊の匂いと古い紙特有の乾いた匂いが工房の中でゆるやかに混ざり合っていた。栞はその匂いに囲まれているとき、いつも少しだけ呼吸が深くなる気がした。
作業台の隅に置かれた道具箱には大小さまざまな針が並んでいる。栞は、その中からいちばん細い針を選び糸を通す。糸を通す瞬間のわずかな抵抗の感触が指先に伝わってくる。この感触ひとつで糸の質や太さを確かめられるようになるまでには何年もかかった。
昼食の時間になっても栞はしばらく作業を続けていた。手を止めるきっかけを自分でも探しあぐねているような、そんな午前だった。
昼過ぎ、栞は工房を出てまた商店街の方向へ足を向けた。用があるわけではなかったが、あの店の前をもう一度通ってみたいという気持ちが自分でも意外なほど強かった。
商店街に入ると、惣菜屋の匂いと乾物屋で陰干しされた昆布の匂いが風に混ざって漂ってくる。栞はゆっくりと歩きながら店先の様子をひとつずつ目で追っていった。
アーケードの屋根の隙間から光がまだらに差し込み、地面に落ちる光の形が歩くたびに足元で揺れる。八百屋の店先には夏の名残のような茄子や胡瓜が並び、店主が水を撒いた跡がアスファルトの色を濃くしていた。
栞はいつもより歩みを緩めていた。急ぐ理由は何もないのに足取りだけがどこか浮ついており、そのことに自分でも半ば呆れながら栞は歩き続けた。
活版印刷の店の前まで来ると、ガラス戸の向こうに見覚えのある背中があった。作業台に向かって活字を並べている、あの男の後ろ姿だった。
栞は少し迷ってから戸を押した。
「こんにちは」
男が振り返り、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに小さくうなずいた。
「また来てくれたんですね」
「近くまで来たので。あの、この前いただいた冊子、読ませていただきました」
「気に入ってもらえましたか?」
「はい。活字の並びが、とても丁寧で」
男は少し照れたように視線を外した。栞はそのしぐさに以前見たことのある既視感を覚えたが、今日はそれを深く考えないことにした。
「お名前、何とお呼びすればいいですか?」
栞が尋ねると、男は少し間を置いてから答えた。
「墨谷といいます。墨谷伊吹」
「栞といいます。綴野栞です」
名乗り合った後の短い沈黙は、しかし、気まずいものではなかった。むしろ、お互いの名前を口にしたことで、それまでよりも少しだけ距離が近づいたような感覚があった。
「仕事は古い本の修復だと言っていましたね」
「はい、破れたり糸が緩んだりした本を直す仕事です」
「紙の扱い方が似ているんですね。僕は新しく刷る側で、栞さんは直す側で」
伊吹の言葉に、栞は小さくうなずいた。方向は逆だが、同じ紙という素材を通して時間に向き合っているという点では確かに似ているのかもしれない。
「今日は何か直す予定の本があるんですか?」
「はい、江戸時代の写本で虫食いがひどいんです」
「虫食い……時間の跡、ですね」
伊吹がそうつぶやくのを聞いて、栞は思わず顔を上げた。その言葉の選び方が、机の上に置かれていたあの紙に書かれた言葉とどこか似ている気がしたからだった。
「そういう言い方、好きです」
栞がそう言うと、伊吹は少し驚いたような顔をしてから小さく笑った。笑うというよりも口元だけがわずかに緩むような控えめな表情だった。
「東京に来て、何年になるんですか?」
栞が尋ねると、伊吹は活字箱を整理する手を止めずに答えた。
「五年ほどです。もともとはもっと北の方にいました」
「印刷の仕事はそこで」
「見習いから始めて、こちらに来てからは自分の店を」
伊吹は多くを語らなかったが、言葉の端々からこれまで歩んできた時間の重みのようなものを感じ取れた。栞はそれを無理に聞き出そうとはせず、ただ静かに耳を傾けた。
「栞さんはずっと東京に?」
「はい、生まれてからずっと、雑司が谷の近くで」
「あの辺りは静かな街ですよね」
「はい……好きなんです、あの街の音が」
栞がそう言うと、伊吹は少しだけ目を細めた。同意とも共感とも取れる控えめな表情だった。
「音、ですか?」
「木の葉が鳴る音とか、参道の砂利を踏む音とか。派手な音ではないんですけど」
「分かる気がします。僕も活字を組んでいるときの音が好きなのです」
「活字の音」
「小さく、カチリと嵌まる音です。地味なんですけど、それが好きでこの仕事を続けています」
伊吹はそう言って手元の活字箱に視線を落とした。栞はその横顔を見つめながら、この人もまた自分と同じように小さな音や気配を大切にする人なのだとあらためて感じていた。
その日、二人は小一時間ほど店の中で言葉を交わした。仕事のこと、紙のこと、東京の街のこと。特別な話をしたわけではなかったが、栞にとってはこれまでのどんな会話よりも時間の流れ方が違って感じられた。
途中で伊吹が棚から取り出したのは、まだインクの匂いが新しい試し刷りの紙だった。
「これ、今朝刷ったばかりのものです」
栞は紙を受け取り目を通した。詩の断片のような短い言葉が並んでいた。読み進めるうちに栞は、自分の頬がわずかに熱くなるのを感じた。言葉そのものよりもその言葉を選んだ手の存在が紙越しに伝わってくるようだった。
夕方近くになって、栞は店を出た。伊吹は作業に戻る前に少しだけ栞を見送ろうと、戸口まで出てきた。
「また来てください」
「はい、また来ます」
短いやりとりだったが、その言葉にははっきりとした温度があった。栞は商店街を歩きながら、その温度を胸の中で何度も確かめていた。
共同アトリエに向かう道すがら、栞は自分の足取りがいつもより軽いことに気づいた。理由は分かっていたが、その理由をはっきりと言葉にすることはまだためらわれた。
部屋の扉を開けると、今日もまた静けさが迎えてくれたが、以前ほど重たくは感じられなかった。栞は机の上の紙束を確かめて新しい言葉が加わっていないかそっと確認した。
窓から差し込む光が床の木目にまだらな模様を描き、栞は靴を脱いで部屋の空気を確かめるように深く息を吸った。インクの匂いは今日はまだ薄く残っており、誰かが少し前までここにいた証だった。
棚の上の小さな鉢植えに栞は指先でそっと触れた。誰が置いたのかは分からないが、いつの間にか部屋の一部になっている小さな緑だった。葉の先が少し乾いているのに気づき、栞は迷った末に備え付けの小さなジョウロで少しだけ水をやった。余計なことかもしれないと思いながらも、そうせずにはいられなかった。
部屋の壁には以前は気づかなかった小さな傷が残っていた。何かを掛けていたのか、画びょうの跡のような小さな穴だった。
栞はその穴を指先でなぞりながら、この部屋を使ってきた時間の積み重ねをあらためて意識した。自分がここで過ごした時間と、もう一人の誰かが過ごしてきた時間。二つの時間が同じ壁と床の上に静かに重なっている。
椅子に腰かけ、栞はしばらく部屋全体を眺めていた。窓から差し込む光の角度が少しずつ変わっていく。その変化を見ているだけで、時間が確かに流れていることを実感できるような気がした。
窓辺の光が指先を温める。
そう書かれたメモの一枚を、栞は見つめながら今日伊吹と交わした会話を思い出していた。窓辺で交わした言葉ではなかったが、指先が温まるような感覚は確かに今日自分の中にもあった。
栞は、無意識のうちに棚の並びを整え始めた。考え事をするときの癖だった。本の背表紙を指でなぞりながら、栞は今日の出来事を頭の中で何度も繰り返し辿っていた。
墨谷伊吹という名前。
低い声。
少しだけ外された視線。
それらが栞の中で少しずつひとつの輪郭を結んでいった。しかし、この部屋の主が本当に伊吹なのかどうか、栞にはまだ確かめる勇気がなかった。もし違っていたら、自分の想像がただの思い込みに過ぎなかったら、と考えると指先が小さくこわばった。
窓の外では夕方の光が少しずつ橙色を深め、壁に伸びる影がゆっくりと長さを変えていく。栞は机の前に座って修復の道具を広げたが、今日もまた集中することは難しかった。
しばらくして栞はノートを取り出し、今日の出来事を簡潔に書き留めた。
墨谷さんと話した。
紙の匂いが店にも部屋にも同じようにある。
書きながら栞は、自分の頬がわずかに熱を持っていることに気づいた。恋だとはまだ言い切れないが、これまで感じたことのない何かが確かに動き始めていた。
夜、部屋を出て鍵をかけるとき、栞は袖口を軽くつまんだ。緊張したときの癖だったが、今日のそれは不安からくるものではなく、どこか浮き立つような感覚に近かった。
帰り道、栞は空を見上げた。雲はほとんどなく、いくつかの星がはっきりと見えていた。今日一日のことを思い返しながら、栞は自分の中に生まれた小さな変化をそっと確かめていた。
自宅に着き灯りをつけると、栞はノートを開き、今日の言葉をもう一度読み返した。墨谷さんと話した。紙の匂いが店にも部屋にも同じように漂っている。
その二つの文の間に、栞はまだ書けない言葉があることを自分でも分かっていた。
その夜、栞は眠りにつくまで、伊吹の声を何度も思い出した。虫食いは時間の跡、その言葉が頭の中で静かに繰り返された。
窓の外の夜はこれまでよりも少しだけ優しい色をしているように感じられ、栞は目を閉じながら明日もまたあの店に行こうかどうか迷いながら考えていた。
答えは、まだ出ていなかった。ただ、心の中に灯った温度だけが、確かに昨日よりも少しだけ強くなっていた。
それから数日間、栞は工房の帰りに何度か商店街の店に立ち寄るようになった。伊吹はいつも作業台の前にいて、活字を組む手つきはいつ見ても丁寧で迷いがなかった。
雨の日には店のガラス戸に水滴が並び、外の景色をやわらかくにじませた。晴れた日には午後の光が作業台の上に落ちて活字の金属の縁がかすかに光った。天気によって変わる店の表情を栞はいつのまにか楽しみにするようになっていた。
ある日は栞が店に着く前に雨が降り出し、傘を持たずに来た栞は軒先でしばらく雨宿りをした。伊吹はそれに気づくと何も言わずにタオルを一枚差し出した。ただそれだけのことだったが、栞は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「今日はどんな本を直していたんですか?」
伊吹が尋ねると、栞は今日の作業についてぽつぽつと話し始めた。糸の緩み、紙の反り、染みの形から読み取れる本の歩んできた時間のことだった。
「本にも時間が積もるんですね」
「はい、人と同じように」
栞がそう答えると、伊吹は少しの間黙り込み、それから小さくうなずいた。何かを考えているような静かな間だった。
「僕の仕事も似ています。紙にこれから積もる時間を刻んでいるので」
「刻む、時間」
「まだ何も書かれていない紙に言葉を刻む。それがこれからの誰かの時間になる」
伊吹の言葉にはいつも独特の静けさがあり、栞はその静けさに触れるたびに自分の中の何かが少しずつ緩んでいくのを感じていた。
会話を重ねるほどに二人の間合いは少しずつ縮まっていったが、それでもなお互いに踏み込みすぎることはなかった。伊吹は言葉よりも行動で示すタイプで、栞は感情を内に秘めるタイプだった。だからこそ、その距離の縮まり方はゆっくりとした静かなものだった。
ある日、栞が店を訪れると、伊吹は珍しく作業の手を止めて窓の外を眺めていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、少し考え事を」
伊吹はそう言って鉛筆を指先で静かに回した。考えるときの癖なのだろう、と栞は思った。
「最近、使っている作業場所の様子が少し変わった気がして」
その言葉に栞の胸が小さく跳ねた。作業場所という言葉が共同アトリエのことを指しているのではないかという予感が頭をよぎったからだった。
「変わったというのは」
「誰かがそこにいるような気配が前より濃くなった気がするんです。もちろん気のせいかもしれませんが」
伊吹はそう言って少し困ったように微笑んだ。栞は何と答えていいか分からず、ただ小さくうなずいた。
「気配というのは、不思議なものですね」
栞がそう言うと、伊吹は鉛筆を指で回す手を止め、こちらを見た。
「僕は目に見えないものをあまり信じない性質なんです。活字も紙も、目に見えて手で触れられるものしか信じてこなかった」
「でも」
「でも、あの場所に行くと、いつも誰かがそこにいたという痕跡だけがなぜか信じられる気がするんです。理由はうまく説明できませんが」
「……もし、そうだったら」
と、小さくつぶやいた言葉は暗い部屋の中に静かに溶けて消えた。答えを出す勇気はまだなかったが、心の中の温度だけが確かにこれまでのどんな日よりも高く灯っていた。
窓の外の夜は静かに更け、街の音も少しずつ遠のいていった。栞は目を閉じ、明日もまたあの店の戸を押すのだろうとぼんやりと考えていた。
答えは、まだ出せなかった。ただ、心の中の温度は、もう後戻りできないところまで静かに高まっていた。
伊吹の言葉に栞は、胸の奥が静かに締め付けられるのを感じた。目に見えないものを信じない人が、それでも確かに感じ取っている気配。それが自分自身のものであるかもしれないという可能性が、栞の心をこれまでにない速さで揺さぶった。
もし本当にそうだとしたら、と栞は思いながらも、その考えをまだ口にすることはできなかった。伊吹もまた、それ以上は語らなかった。二人の間に、確かめられないまま残された何かが静かに横たわっていた。
沈黙の間、店の奥の古い時計だけが規則正しい音を刻んでいた。栞はその音に耳を澄ませながら、自分の鼓動が少しだけ速くなっていることに気づいていた。
その日の帰り道、栞は共同アトリエに向かいながら、胸の奥に生まれた小さな確信と、それと同じだけの大きな迷いを同時に抱えていた。
部屋の扉を開けると、今日もまた静けさが待っていた。しかし、栞にはその静けさが、ただの不在ではないことが分かってきた。
机の上には新しい紙が置かれていた。
言葉より先に、あなたがいた気配を探している。
その一文を読んだとき、栞は思わずその場に立ち尽くし、胸の奥がこれまでにない速さで静かに脈打つのを感じた。
もしこの部屋の主が本当に伊吹だったとしたら、と栞は考えた。その可能性をこれ以上避けて通ることはできないと感じ始めていたが、それを確かめることは、これまで積み重ねてきた名前のつけられない時間を、何か別のものに変えてしまうかもしれないという恐れが、同時に胸の中にあった。
窓の外では夕方の光がゆっくりと藍色に沈んでいく。栞は紙を手にしたまましばらくその場に立っていた。
紙を持つ指先が、かすかに震えていることに栞は少し遅れて気づいた。寒さのせいではなかった。もっと別の、名前をつけるのをためらわれる何かのせいだった。
栞は紙をそっと胸元に近づけ、インクの匂いを嗅いだ。この匂いをこれまで何度も嗅いできたはずなのに、今日はまるで初めて出会う匂いのように感じられた。
机の前に座った栞はしばらく動けず、修復の道具は広げられたまま手つかずで残っていた。今日はもう作業を進める気にはなれそうになかった。
窓の外を夕方の風が通り過ぎ、カーテンの端がわずかに揺れる。栞は、その揺れひとつにも敏感に反応してしまう自分に気づいていた。
やがて部屋の中に藍色の影が完全に満ちるころ、栞はようやく道具を片付け始めた。動作はゆっくりで、何かを引き延ばしているようだった。
部屋を出る際、栞はしばらく扉の取っ手に手をかけたまま動かなかった。振り返ってもう一度部屋の中を見ると、机の上、棚の並び、鉢植えの緑、どれもいつもと変わらないはずの景色が、今日は少し異なる色を帯びて見えた。
鍵をかけ、階段を下りる足音がいつもより小さく響いた。夜の入り口に立つ商店街にはすでにいくつかの灯りがともり始めており、栞はそれらの灯りを一つ一つ目で追いながらゆっくりと歩いた。
帰り道、栞はふと伊吹の店の方角を振り返った。距離があるため明かりが見えるわけではなかったが、そちらの方向を見つめるだけで胸の奥が静かに疼いた。
自宅に着いて明かりをつけると、栞は鞄から紙を取り出して机の上にそっと置いた。「言葉より先に、あなたがいた気配を探している」。その一文を栞はもう一度、声に出さずに読んだ。
眼鏡を外し、袖でレンズを拭う。いつもの仕草だったが、今日はその動作にさえいつもより時間がかかった。
窓の外では夜がゆっくりと深くなり、遠くで電車の音が響いては消えた。栞は椅子に腰かけたまま、しばらく紙を見つめていた。
この部屋の主がもし伊吹である場合とそうでない場合、という二つの可能性が栞の中で交互に浮かんでは消えていった。どちらであっても、自分の心がもう後戻りできないところまで動いてしまっていることだけが確かだった。
その夜、栞は布団に入ってからもなかなか寝つけず、天井を見つめながらこれまでの出来事を順番に思い返していた。店で交わした言葉、紙に刻まれた言葉、そして今日のあの一文を。




