第5章:確信の手前
朝の空気にこれまでとは違う重さを感じた。それは湿度のせいなのか、それとも自分の心のせいなのか、栞には分からなかった。鬼子母神の参道を歩きながら、栞は昨日伊吹が言った言葉を何度も反芻していた。
境内のケヤキは朝の光を受けて葉の縁だけがうっすらと金色に輝き、栞はその光を見上げながら歩みを緩めた。参道の石畳には昨夜の露がまだ乾ききっておらず、踏むたびにかすかな湿り気が靴底から伝わってきた。
数羽の鳩が参道の脇で餌をついばんでおり、その羽音が朝の静けさの中で思いのほか大きく響いた。栞はその音に一瞬だけ我に返り、また昨日の言葉へと意識を戻した。
誰かがそこにいるような気配が前より濃くなった気がする。
その一言が頭の中に居座ったまま離れてくれない。もし本当に伊吹があの夜の主であるのなら、栞はその可能性の重みにまだ慣れることができずにいた。
工房に着くと、栞はいつも通りに道具を並べ、今日の作業に取りかかった。だが、指先の動きはいつもよりわずかに鈍く、糸を通す手が何度も止まる。集中すればするほど、伊吹の声が頭の隅に割り込んでくる。
今日の依頼品は、大正期に刷られたという小さな詩集だった。表紙の角は丸く擦り減り、ページの間には長い年月による変色が広がっていた。栞はいつもならこうした変色の形から本の歩んできた時間を丁寧に読み取っていくのだが、今日はその手順すらどこかおろそかになっていた。
窓の外を宅配のトラックが通り過ぎ、工房の中にはいつもと変わらない糊の匂いが漂っていた。しかし、栞の意識は遠くを向いたままだった。
針を持つ手を一度止め、栞は深く息を吐いた。胸の中で、落ち着こうとする自分と落ち着けない自分がせめぎ合っている。そのせめぎ合いを持て余しながら、栞はもう一度作業に向き直った。
昼休み、栞は工房の裏手にある小さな縁側に腰を下ろし、持参した弁当を広げたが、食欲はあまりなかった。箸を持つ手を止め、栞は空を見上げた。雲がゆっくりと形を変えながら東の方角へ流れていく。
縁側の板は長年の日差しに焼かれてところどころ色が抜けており、栞は素足でその板を踏みしめて木の温もりを確かめるように足の裏でゆっくりと重心を移した。近くの生け垣から蝉の声が途切れがちに響いてきて、もう季節の終わりが近いのだと教えてくれた。
栞は、その雲の動きを目で追いながら自分の中にあるふたつの気持ちの綱引きに気づいていた。ひとつは確かめたいという気持ち、そしてもうひとつは、確かめることで今の穏やかな時間が壊れてしまうかもしれないという恐れだった。
栞はようやく弁当箱の中身に箸をつけた。卵焼きの甘さがいつもより強く感じられ、味覚さえも今日はどこか普段と違って感じられた。栞はそれに小さく苦笑した。恋というものがこんなふうに味覚にまで影響を及ぼすとは、思ってもみなかった。
午後、栞は工房での作業を早目に切り上げて共同アトリエに向かった。今日はいつもより早い時間に部屋に入るつもりだった。何かを確かめたいという思いが栞の足を自然とその方向に向けさせていた。
途中、いつもの参道とは違う脇道を抜けた。細い路地には鉢植えの朝顔がいくつか並び、つるが隣家の塀まで伸びていた。誰かが丹精込めて育てているのだろう、その緑を横目に栞は歩を進めた。
扉を開けると、部屋の中にはまだ昼間の光が満ちており、窓から差し込む光の帯が床の上に長く伸びていた。栞はその光の中に立ち、しばらく動かなかった。
いつもより部屋の空気がわずかに動いているように感じられ、それはまるで、誰かが少し前までここで呼吸していたことを示すような微かな揺らぎだった。栞は靴を脱ぎ、その揺らぎを確かめるようにゆっくりと部屋の奥へ進んだ。
机の上にはいつものように紙束が置かれており、栞はそれを手に取って目を通した。
紙の匂いはいつも同じ場所から生まれる。
その一文を読んだとき、栞の胸が小さく波打った。同じ場所という言葉がまるで自分に向けられているかのように感じられたからだった。
栞は棚の奥へ視線を移した。以前見つけた木製の小箱が、変わらずそこに置かれている。今日はその箱の隣に見慣れない道具が並んでいた。木製の定規のようなもので、目盛りの代わりに細かい溝が等間隔に刻まれていた。
栞はその道具を手に取り、しげしげと眺めた。活字を組む際に使う専用の道具だろうと栞は見当をつけた。伊吹の店で見た作業台の隅に似たような道具が並んでいたことを思い出した。
道具の木肌には長く使い込まれたことを示す艶のようなものが浮かび、指先で触れるとところどころに細かい傷が残っていた。それは失敗の跡なのか、それとも長い時間をかけて手に馴染ませた証なのか、栞には判断しかねたが、その傷の一つ一つに誰かの丁寧な仕事ぶりが宿っているように感じられた。
栞は道具を持ったまましばらく窓辺に立った。光にかざすと木目の奥に細かい木くずが挟まっていることに気づいた。使われたばかりの証しだった。誰かがつい先ほどまでここでこの道具を手にしていたのかもしれない。そう思うと栞の胸にこれまでとは違う親しさが広がっていった。
道具を元の場所に戻しながら、栞は自分の中で確信めいたものが少しずつ形になっていくのを感じていた。もう偶然や気のせいという言葉では片付けられないところまで来ている。
窓の外では午後の光が少しずつ角度を変え、壁に映る影の輪郭がゆっくりと伸びていった。栞は机の前に腰を下ろし、持ってきた修復の道具を広げたが、手が動かない時間のほうが長かった。
しばらくして栞はノートを取り出し、思いつくままに言葉を書き留めた。
もしこの部屋の夜の主が伊吹さんなら。
書いた文字を見つめながら、栞は自分の頬がじんわりと熱を持つのを覚えた。名前を書くことすらこれまではためらわれたはずなのに、今はもうその名前を書かずにはいられなかった。
ノートのページをめくると、これまで書き留めてきた短い言葉の数々が目に飛び込んできた。匂いがなかった。誰なんだろう。どれも答えの出ないまま置き去りにされた問いだった。栞はその問いの連なりを指先でなぞるように読み返した。一つ一つの言葉が今になって少しずつ意味を結び始めているように感じられた。
窓の外を鳥の影がひとつ横切っていったので、栞は影を目で追いながらペンを置いた。これ以上書き進める言葉は今の自分にはまだ見つからなかったからだ。
夕方近く、栞は道具を片付け、部屋を出る準備をした。しかし、いつものように鞄をまとめる手を止め、もう一度部屋の中を見渡した。
机、棚、壁、窓。どれも見慣れた景色のはずなのに、今日はその一つ一つに伊吹の存在を重ねずにはいられなかった。
部屋を出て鍵をかけるとき、栞は小さく息を吸った。困ったときの癖だったが、今日のそれはこれまでとは少し違う質の息だった。戸惑いの中に、かすかな期待が混じっているような、そんな息だった。
帰り道、栞はいつもとは違う道を選び、商店街を通り抜けることにした。伊吹の店の前を通るつもりはなかったが、気づけば足はそちらの方向に向かっていた。
商店街の灯りがひとつまたひとつと夕闇の中にともり始め、栞は店先の光を数えるように歩きながら自分の胸の中にある落ち着かなさを少しずつ意識し始めた。
店の前に着くと、ガラス戸の向こうに伊吹の姿が見えた。伊吹は作業台に向かい活字を並べていた。栞はしばらくその姿を外から眺めていたが、声をかける勇気はまだ持てなかった。
伊吹の横顔にはいつもと変わらぬ静かな集中があり、その横顔を見ているだけで栞の胸にはこれまでとは違う種類の温かさが広がっていった。窓ガラス一枚を隔てているだけなのに、その距離は今の栞には途方もなく遠く感じられた。
その日は結局、戸を押さずに栞はそのまま帰路についた。心の中では確かめたいという気持ちが強くなっていたが、同時に確かめることへの恐れも同じだけ大きくなっていた。
自宅に着き灯りをつけると、栞は椅子に腰を下ろし窓の外を眺めた。夕焼けの残り火のような光がビルの隙間から差し込んでいた。栞は、その光を見つめながら今日一日の出来事を順番に思い返した。
紙に記された言葉、木製の道具、そしてガラス戸越しに見た伊吹の後ろ姿。
それらすべてが栞の中でひとつの答えへと近づいていくように感じられたが、答えに近づくほどに栞の胸にはこれまでにない緊張が募っていった。
「……もう少しで」
と、小さくつぶやいた言葉はそこで途切れた。もう少しで何がわかるのか、栞自身にもはっきりとした形は見えていなかった。ただ、何かが確実に近づいて来ているという予感だけが胸の中にあった。
その夜、栞は布団に入ってからもなかなか寝つけず、天井を見上げながらこれまでの出来事を順番にたどっていた。部屋の静けさ、店での会話、紙に刻まれた言葉。
すべてが少しずつ重なり合ってひとつの輪郭を描き始め、栞はそれが伊吹の姿と重なることを疑えなくなっていた。
窓の外の夜はこれまでよりもどこか張り詰めたような静けさをたたえており、栞は目を閉じて明日あの部屋を訪れたときに何かが変わるかもしれないとぼんやりと考えていた。
答えは、まだ確かめていなかった。ただ、心の中の予感だけが、確かに次の一歩を促していた。
翌日、栞は工房での仕事を終えると、いつもより慎重な足取りで共同アトリエに向かった。今日こそ何か手がかりを見つけられるかもしれないという期待が胸の中にあった。
道すがら、栞は空の色に目をやった。昨日までとは違う、透き通るような青がビルとビルの隙間から覗いている。その青さを見上げながら、栞は自分の心がいつもより軽く、それでいて張り詰めていることに気づいた。参道のケヤキの葉が風に揺れ、乾いた音を立てている。その音の一つ一つが今日はいつもより鮮明に耳に届いた。
扉を開けると、部屋の中にはいつもと違う気配があった。窓が少しだけ開いている。誰かが最近この部屋を訪れたことを示す確かな証拠だった。
栞は窓辺に近づき外を見た。商店街の屋根が遠くに見え、その向こうに伊吹の店がある方向が広がっていた。二つの場所がこんなにも近くにあったのだと栞は今さらながら気づいた。
開かれた窓から夕方の風が部屋の中へゆっくりと流れ込み、カーテンの裾がわずかに揺れる。栞は、その揺れを見つめながら、この部屋に流れ込む空気そのものが伊吹の店の方角から来ているのではないかと埒もないことを考えた。
机の上には新しい紙が一枚置かれており、栞はそれを手に取って目を通した。
窓を開けたのは、あなたの匂いを少しでも長く留めておきたかったから。
その一文を読んだ瞬間、栞の心臓が大きく跳ねた。これまでの言葉とは明らかに違う質の言葉だった。抽象的な情景描写ではなく、はっきりと「あなた」という言葉が使われている。
栞は、その紙を両手で丁寧に持ち直した。指先がかすかに震えていた。これは誰かに向けた明確なメッセージだ。そしてその誰かは、おそらく自分自身なのだと栞は確信し始めていた。
紙の縁にわずかなインクのにじみがあった。急いで書いたのか、それとも何度も書き直した末の一枚なのか。そのにじみの形からも書いた人の逡巡が伝わってくるようだった。栞は自分の修復の仕事でもこうしたにじみの跡から書き手の心情を読み取ることがあるが、今日ほどその読み取りに胸が締めつけられたことはなかった。
紙を鼻先に近づけると、かすかにインクのにおいがした。栞は、そのにおいをゆっくりと吸い込んだ。店で嗅いだにおい、部屋で嗅いできたにおい、そして今手にしている紙のにおい。三つのにおいが頭の中でひとつに重なり合っていく。もうそれらを別々のものとして扱うことは栞にはできそうになかった。
窓の外では午後の光が少しずつ橙色を帯び始めており、栞は紙を胸に抱くようにしてしばらくその場に立ち尽くしていた。
もしこの推測が正しければ、伊吹もまた自分と同じようにこの部屋を通して見えない誰かの存在を感じ続けてきたのだ。そう思うと栞の胸にこれまで感じたことのない温かくそして少し怖いような感覚が広がった。
栞は机の前に座り、紙を丁寧に机の隅へ戻した。自分がここにいたことを相手に伝える手段はないが、この紙を読んだという事実だけが確かに自分の中に刻まれていた。
しばらくして栞は、棚の隅に新しく置かれた小さな栞紐に気づいた。以前見たものとは違う色合いで、丁寧に断ち切られた紙の縁が光を受けてわずかに白く光っていた。
栞は、その栞紐を手に取り指先でそっと撫でた。誰かが自分のために作ったものかもしれないという思いが胸の奥に静かに広がっていくが、それを確かめる術は今の栞にはまだなかった。
栞紐の端には小さな穴が開けられ、細い紐が通されていた。几帳面な性格が結び目の作り方に表れているように思えた。栞は、伊吹が活字を一本ずつ指先で揃えるという癖を思い出した。この結び目にも同じ丁寧さが宿っているように見えた。
結び目を指先でなぞりながら、栞は自分が修復した古書の見返しに同じような丁寧さで糸を通してきたことを思い出した。職種は違えど、誰かのために時間をかけて仕上げるという行為には共通する何かがあるのかもしれない、と栞は考えながら栞紐をそっと鞄の内側にしまった。
窓の外の光が少しずつ藍色に変わっていく中、栞は道具を片付けながら今日この部屋で見つけたものをひとつひとつ頭の中で丁寧にたどっていた。
開いた窓、あなたという言葉、新しい栞紐。
それらはどれもこれまでよりも一歩踏み込んだ確かな手がかりで、栞はもはやこの部屋の夜の主が誰であるかを疑う余地がほとんどないところまで来ていた。
部屋を出る時、栞は扉の前でしばらく立ち止まった。振り返ってもう一度部屋の中を見渡すと、開いた窓、机の上の余白、棚の栞紐が、確かにそこにある誰かの気配を静かに物語っていた。
夕方の風が、開いた窓からもう一度部屋の中に流れ込んできた。栞はその風を頬に受けながら、この部屋がこれまでよりも少しだけ自分に近い場所になったような気がしていた。
鍵をかけ階段を下りながら、栞は胸の内にこれまでにない静かな決意が芽生えていることに気づいた。伊吹と次に顔を合わせたとき、何かを言葉にできるかもしれない、という予感が栞の中にあった。
帰り道、栞は商店街を抜けながら伊吹の店の灯りを遠くに見つけたが、今日はその灯りを見ても足を止めることはなかった。ただ、その灯りが確かにそこにあることを確認するようにしばらく見つめていた。
灯りの色はいつもと変わらぬ橙色だったが、その色を見つめる栞の胸の内はこれまでとは明らかに違っていた。灯りひとつがこんなにも心を揺らすのだと栞は驚きながらその場を後にした。
自宅に着き灯りをつけると、栞は鞄から栞紐を取り出し机の上にそっと置いた。「窓を開けたのは、あなたの匂いを少しでも長く留めておきたかったから」その言葉を栞はもう一度声に出さずに読んだ。
眼鏡を外し、袖でレンズを拭うそのしぐさをしながら、栞は自分の頬がじんわりと熱を持っていることに気づいていた。
窓の外では夜が更け、遠くで電車の音が響いては消えた。栞は椅子に腰かけたまま、しばらく栞紐を見つめていた。
台所から湯を沸かすやかんの音が聞こえてきたので、栞はその音に誘われるように立ち上がり、白湯を一杯淹れて戻ってきた。湯気の立つカップを両手で包みながら、栞はもう一度机の上の栞紐に目を落とした。指先に伝わる温かさが今夜はいつもより長く体の芯に残るような気がした。
白湯を一口飲むと、体の内側からじんわりとした温もりが広がっていく。栞はその温もりを味わいながら窓の外に目をやった。隣家の窓にぽつりと灯りがともっている。誰かの帰宅を告げるようなその小さな灯りを見つめながら、栞は自分の中にある温もりの正体をもう少しだけ確かめたくないと思った。
もし明日伊吹に会えたとして、何を言葉にすればいいのか、栞にはまだ分からなかった。しかし、何も言わずにいることの方が、もう難しくなっていることだけは確かだった。
その夜、栞は布団に入ってからも何度も今日見つけた紙の言葉を思い返していた。「あなた」という言葉の重み。それがこれまでの静かな時間を少しずつ動かし始めていた。
天井の木目を見つめながら、栞はこれまでの数週間の出来事をゆっくりと振り返っていた。匂いの消えた朝から始まり、紙に刻まれた言葉、店での出会い、そして今日の一文まで、ひとつひとつの出来事がまるで糸のように静かに撚り合わされていくのを感じていた。
「……伊吹さん」
小さく名前を呼んでみた。誰もいない部屋にその声は静かに溶けて消えたが、その一言を口にしたことで栞の中の何かが確かに変わったような気がした。
声に出したことで、これまで頭の中だけで巡らせてきた思いが少しだけ現実に近づいたように感じられ、栞は自分の声の余韻をしばらく耳の奥で確かめていた。
窓の外の夜はこれまでよりもどこか穏やかな色をしているように感じられ、栞は目を閉じながら明日という日がこれまでとは違う一日になるかもしれないと静かに感じていた。
答えはまだ言葉にされていなかったが、心の中の確信だけがもう後戻りできないところまで静かに満ちていた。




