第3章:ガラス越しの声
朝に小雨が降っていたのか、鬼子母神の参道の石畳はまだ濡れて光っていた。栞は傘をたたみながら、工房に向かう道を歩いていた。空気の湿り気が肌にまとわりつき、ケヤキの葉先から落ちる水滴が時折、首筋に触れて冷たかった。
その日の工房での仕事は、一冊の詩集の見返しを直す作業だった。栞は、糊の乾き具合を見ながら何度も紙の反り返りを指で確かめた。手を動かしている間は、頭の中の靄のようなものが少しだけ薄くなる気がした。
昼過ぎ、雨は上がっていた。栞は工房を出て、いつもとは違う道を選んだ。理由はなかった。ただ、まっすぐ帰る気になれない日というのは時々あるものだ。
以前どこかで、商店街の外れに小さな活版印刷の展示をしている店があるらしいという話を耳にしたことがあった。栞は、その店の前を通りかかったときに足を止めた。
ガラス戸の向こうに古い印刷機と壁一面に貼られた刷り物が見え、栞は吸い寄せられるようにその戸を押した。
店の中はインクと紙の匂いで満ちており、共同アトリエで感じるあの匂いとどこか似ている気がした。栞は棚に並んだ小さな冊子を手に取り、ページをめくった。
「その本、活版で刷ったものです」
声がして振り返ると、奥の作業台に一人の男が立っていた。年齢は栞より少し上だろうか。男は黒いエプロンをつけ、指先にはうっすらとインクの跡が残っていた。
「活字を組んで、一枚ずつ刷るんです。時間はかかりますけど」
男の声は低く静かだった。栞は何と答えていいか分からず、手にしていた冊子にただ視線を落とした。
「見せてもらってもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
栞は冊子をめくりながら活字の凹凸を指先でなぞった。紙の表面に文字がわずかに沈み込んでおり、機械で印刷されたものとは異なる手作業の痕跡があった。
「こういう風合いは機械の印刷では出ないんですね」
「はい、一枚ずつ微妙に力の入り方が違うので」
男はそう言って少しだけ視線を外し、栞はそれに、なんとなく既視感を覚えた。しかし、それが何に由来するのかは分からなかった。
「お仕事は、印刷を」
「ええ。小さな出版物を専門に」
男はそれ以上多くを語らなかった。栞もまた、自分から詮索するような性格ではない。二人の間に、短い沈黙が流れた。だが、それは気まずさというよりも、互いに相手の間合いを探っているような静かな時間だった。
「その本、気に入ったら差し上げますよ。試作品なので」
「いいんですか?」
「どうせ売り物にはならないので」
栞は礼を言って冊子を受け取り、手のひらに伝わる紙の重みが思いのほか心地よかった。
店を出る時、栞は振り返ってもう一度男の顔を見た。特に印象的な顔立ちというわけではないが、その落ち着いた佇まいがなぜか記憶に残った。
「ありがとうございました」
「いえ」
短いやりとりだけで栞は店を出た。名前を尋ねることも名乗ることもなかったが、なんとなくまた会うことがあるかもしれないという予感だけが胸の奥にわずかに残った。
帰り道、栞は手にした冊子を鞄の中にしまいながら今日の出来事を思い返していた。偶然に入った店で偶然に出会った人。それだけのことのはずなのに、なぜか心の片隅に小さな灯りがともったような感覚があった。
夕方、栞は共同アトリエに向かった。今日もまた、あの部屋がどんな様子なのか少し緊張しながら、扉を開けた。
部屋の中には変わらず静けさがあったが、机の上には新しい紙の束が置かれていた。栞はそれをそっと手に取り、目を通した。
窓の外には雨上がりの匂いが残っていた。
そう書かれた紙が一枚あり、栞はその言葉に思わず立ち止まった。今日、まさに雨上がりの街を歩いていたばかりだったからだ。
偶然だろうか。それとも、この部屋の主も、同じ空の下で同じ雨を見ていたのだろうか。
栞はしばらくその紙を見つめていた。窓の外では夕方の光が徐々に色を変えていく。橙色が薄れ、藍色がにじむように広がっていく時間だった。
栞は道具を広げ作業を始めようとしたが、指先は今日もまたいつものようには動かなかった。頭の中に昼間の店で見た男の姿と机の上の言葉が重なり合うように浮かんでは消えていった。
考えても仕方のないことだと分かっていたが、その仕方のなさこそが栞の中で静かに膨らんでいくものの正体だった。
しばらくして、栞は棚の隅に見覚えのある冊子があることに気づいた。それは、今日店で受け取ったものと同じ活字の並びをしていた。
栞は驚いてその冊子を手に取った。表紙の意匠は違っていたが、活字の癖や文字の沈み込み方が明らかに同じ手によるものだった。
胸の奥が静かにざわめいた。
「まさか」という思いと「やはり」という思いが同時に湧き上がってきたが、栞は、その考えを深追いすることをためらった。もし本当にそうだとしても、今はまだ確かめる勇気が持てなかった。
窓の外はすでに暗くなり始めており、栞は道具を片付けて鞄に冊子をしまいながらもう一度机の上を見渡した。紙の束は静かにそこにある。部屋全体が昼間よりも少しだけ温かい気配を帯びているように感じられた。
部屋を出て鍵をかけるとき、栞は無意識に袖口を軽くつまんでいた。それは、緊張したときの癖だった。自分が何に緊張しているのか、うまく説明できなかった。
帰り道、栞は空を見上げた。雲の切れ間から星がひとつ、ふたつと見え始めていた。昼間の店の匂い、机の上の言葉、そして棚にあった冊子。それらが頭の中でゆっくりと結びついていく。
自宅に着き灯りをつけると、栞は鞄から冊子を取り出し机の上に並べた。同じ活字、同じ紙の質感。見比べるほどに確信めいたものが強くなっていく。
しかし、栞はそれでもまだ、その考えを誰にも、自分自身にさえもはっきりとは言葉にしなかった。
「……もし」
と、小さくつぶやいた言葉はそこで途切れた。続く言葉は、まだ栞にはなかった。
窓の外では夜がゆっくりと深くなり、遠くで電車の音が響いては消えていく。栞は椅子に座ったまま、しばらく冊子を見つめていた。
もし本当にあの人がこの部屋の夜の主だったとしたら。
そう考えるだけで胸の奥にこれまで感じたことのない温度が生まれるのを感じていた。それは恋と呼ぶにはまだあまりに曖昧で名前のつけようのないものだった。
その夜、栞は眠りにつくまで、何度も昼間の店の光景を思い返していた。低い声、インクの匂い、少しだけ逸れた視線。どれも些細な記憶だったが、なぜか鮮明に心の中に刻まれていた。
窓の外の夜は昨日よりも静かに更けていき、栞は目を閉じながら明日またあの店の前を通るかもしれないとぼんやりと考えていた。
答えはまだどこにもなかったが、心の中に灯った小さな温度だけが確かにそこにあった。




