第2章:紙の上の輪郭
朝の光がまだ低く、道路の白線に長い影を落としている時間だった。
栞は、いつもより数分早く家を出て、工房へ向かっていた。昨夜からあの部屋の静けさが頭の片隅に残っていて、眠りが浅かったのだ。栞は歩きながら、自分でも理由の分からない落ち着かなさを持て余していた。
工房に着くと、宮下はすでに作業台の前に座って古い和綴じの本を広げていた。
「おはよう。今日は早いね」
「あ、はい。少し目が覚めてしまって」
宮下は軽くうなずいただけでそれ以上は聞かず、栞はその配慮をありがたく思いながら自分の作業台に向かった。
その日の依頼は昭和初期の詩集で、表紙は擦り切れており、背の部分は完全に剥がれていた。栞は虫眼鏡を手に取り、糸のほつれを確認しながら修復の手順を頭の中で組み立てていく。
作業に没頭していると時間の感覚が緩やかに薄れていき、針を通す動作や糊を薄く塗る動作ひとつひとつに集中することで昨夜からの落ち着かなさが少しずつ和らいでいった。
昼過ぎ、栞は工房を出ていつもの喫茶店に向かった。窓際の席に座り、コーヒーを待つ間、外の通りをぼんやりと眺めた。自転車が通り過ぎ、傘を差した老婦人がゆっくりと歩いていく。傘を差すほどの雨ではないのに、彼女はいつもそうしているようだった。
コーヒーが運ばれてくると、栞は一口飲んでから鞄から小さなノートを取り出した。修復の記録をつけるためのものだが、時々こうして関係のないことも書き留めてしまう癖があった。
ノートを開くと、前のページに昨日の共同アトリエのことが短く記されていた。
匂いがなかった。
たったそれだけの一文だったが、栞はしばらくその文字を見つめていた。書いた時には気づかなかったが、今読み返すと、その一文には自分でも説明のつかない寂しさがにじみ出ているように思われた。
午後、栞は工房での作業を終えると共同アトリエに向かった。今日もまたあの静けさが待っているのだろうかと思うと足取りが少し重くなった。
扉を開けると、昨日と同じように部屋の中は静かだったが、よく見ると机の上に小さな変化があった。
昨日はなかったはずの紙の束が机の隅に重ねて置かれている。栞はゆっくりと近づき、その紙を手に取った。
薄い和紙のような質感で、片面に小さな活字の跡が薄く残っている。試し刷りだろうか。文字はまだ完成していないのか、途中で途切れているものもあった。
栞は紙をめくりながら、そこに刻まれた言葉の断片を目で追った。
窓辺に、光が。
そこまでで途切れている一枚。
別の紙にはこう記されていた。
「紙の上に、時間が積もる」
栞はその言葉を声に出さずに何度か心の中で繰り返した。
誰が書いたのかは分からないけれど、その言葉の選び方からはどこか慎重で丁寧な手つきが感じられ、文字の並びひとつひとつに書いた人の呼吸のようなものが宿っているように思われた。
栞は紙を丁寧に重ね直し、元の場所に戻した。
自分がここにいることをその紙の主は知っているのだろうか、それともただ偶然に置き忘れられただけなのだろうか。
考えているうちに、栞はふと自分の癖に気づいた。指先が無意識のうちに紙の端をなぞっていた。
修復の仕事をしているときと同じしぐさだった。だが今は、傷んだ本の時間を読み取るためではなく、ただその紙に触れていたいという名前のつけられない気持ちからだった。
窓の外では午後の光がゆっくりと角度を変え、壁に伸びる影が少しずつ長くなっていく。
栞は机の前に座って持参した作業に取り掛かったが、いつものように集中することができなかった。何度も視線が机の隅に置かれた紙の束に戻ってしまうのだ。
しばらくして栞は、棚の奥に見慣れない小さな箱があることに気づいた。
木製の小さな箱で、ふたには彫刻のような模様が施されている。栞は、そっとふたを持ち上げようとして途中で手を止めた。
これは自分のものではない。開けていいものかどうか、迷いが生じる。
結局、栞はふたを開けずにそっと元の場所へ戻した。誰かの大切なものかもしれないという思いが指先の動きを止めさせていた。
夕方近く、栞は作業を切り上げ鞄をまとめ、部屋を出る前にもう一度机の上を見渡した。紙の束は変わらずそこにあり、木箱も棚の奥に静かに収まっていた。
昨日の静けさとは少し違う、誰かがいない寂しさの中に確かにその人の気配が戻ってきているような感覚だった。
部屋を出て鍵をかけながら、栞は小さく息を吸った。困ったときの癖だったが、今日は何に困っているのか自分でもよく分からなかった。
帰り道、栞は普段とは違う道を選んだ。鬼子母神の参道ではなく、少し遠回りをして商店街の方へ足を向けた。理由は特にない。ただ、まっすぐ帰る気になれなかっただけだ。
商店街は夕方の買い物客でほどよいにぎわいを見せており、惣菜屋や魚屋のにおいが混ざり合って街全体がひとつの生きもののように息をしているように感じられた。
栞は歩きながらふと立ち止まった。小さな古本屋の前だった。店先のワゴンに色あせた文庫本が並んでいる。
栞は何気なくその中の一冊を手に取った。詩集だった。ページをめくると、活字の並びが昼間見た試し刷りの文字と重なるように思われた。
もちろん、印刷方式も時代も違うが、活字という存在そのものが持つ質感が栞の中であの紙の主の存在と静かに結びついていく。
栞は詩集を買わずにそっと棚に戻した。今はまだそれを持ち帰る気持ちにはなれなかったからだ。
商店街を抜け住宅街の路地に入ると、ビルの隙間から夕焼けの色が差し込んでいた。栞は、オレンジと藍色が混ざり合う空を見上げながら今日一日のことを思い返した。
紙に刻まれた言葉。
木箱の存在。
そして、まだ見ぬ誰かの気配。
それらはどれも、はっきりとした答えを持たないまま栞の中に静かに積もっていく。
自宅に着き灯りをつけると、栞はいつものように鞄を置いて椅子に腰を下ろした。今日はノートを開かずにただぼんやりと窓の外を眺めていた。
遠くで電車の音が響き、やがて静かになった。栞は目を閉じて、昼間見た活字の並びを思い出していた。
窓辺に光が差し込む。
紙の上に、時間が積もる。
その二つの言葉が頭の中で静かに反響していた。
栞は目を開き、小さくつぶやいた。
「……誰なんだろう」
自分でもその言葉が誰に向けられたものなのかはっきりと分からなかったが、まだ見ぬその人の輪郭が少しずつ自分の中で形を持ち始めていることだけは確かに感じていた。
窓の外の夜は昨日よりも少しだけ柔らかい色をしていた。栞は布団に入り目を閉じた。眠りに落ちる直前、頭の中に浮かんだのはあの紙に刻まれた文字の静かな筆致だった。
明日もまたあの部屋へ行くのだろう。
そこに何が待っているのかは、まだ分からなかったが、昨日までとは違う何かが少しずつ動き始めていることは確かだった。
夜は静かに更け、街の音も次第に遠くなっていった。




