第1章:匂いのない部屋
朝の光がまだ乾いたままの色で、雑司ヶ谷の路地に差し込む時刻だった。
綴野栞は、自転車の鍵を外しながら鬼子母神の参道につながる細い道を歩いていた。石畳は、まだ夜の湿りを含んでいて踏むたびに、靴底に冷たさが伝わってくる。頭上では欅の葉がわずかに揺れ、足元の影の形が崩れては元に戻る。
工房までの道はいつも同じだが、同じ道でも朝ごとに匂いが違う。今日は隣家の生垣から、金木犀の名残のような少し湿った緑の匂いが漂っていた。まだ早い時間で通りに人影は少なく、古書修復の工房は鬼子母神の裏手にある木造の建物の一角にあり、栞はそこで週四日、破れた本や崩れた製本を直す仕事をしている。
工房に着き扉を開けると、古い紙とわずかなにかの匂いが迎えてくれる。この匂いには慣れているはずなのに、朝一番はいつも少しだけ胸の奥が引き締まる。仕事道具を並べ、白い布を広げ、今日直す本を机の上に置いた。
それは明治期に出版された随筆集で、背表紙の糸が緩み、ページの間には茶色い染みが点々とあった。染みの形から、その本がどんな部屋でどんな時間を過ごしてきたのかを、栞はなんとなく想像していた。水に濡れたのか、雨漏りか、それとも誰かがこぼしたお茶か。栞はそういうことを考えるのが好きだった。
昼前、工房の先輩である宮下から声をかけられた。
「栞ちゃん、そっちの染み抜き、慎重にね」
「はい、分かってます」
「無理はしないでいいから。急ぐ依頼じゃないし」
短いやりとりだったが、宮下の声にはいつもの優しさが表れていた。栞はうなずいて、また作業に戻った。針の先ほどのしみひとつにも、その本が歩んできた時間があるのだと思うと、指先が自然に慎重になる。
昼過ぎ、休憩に出た栞は近くの喫茶店で軽い昼食をとった。窓の外では自転車に乗った郵便配達員が通り過ぎ、猫が塀の上をゆっくり歩いていた。そんな光景を見ていると、時間の流れがいつもより緩やかに感じられた。
工房での仕事を終えたのは、夕方に近い時間だった。
栞の生活の中に静かに組み込まれているもうひとつの場所。それは、工房から歩いて十分ほどの場所にある小さな共同アトリエだ。古い商店の二階を改装した部屋で、昼は栞が、夜は別の誰かが使っている。時間差で借りているため、互いに顔を合わせたことはほとんどない。
その部屋を借り始めたのは半年ほど前だった。 工房での作業とは別に、自分のための小さな製本や修復の練習をする場所がほしかったからだ。
初めてその部屋に入った時、机の上にインクの匂いが残っていた。かすかに、けれど確かに香っていて、誰かがそこで何かを刷っていたのだと分かった。それ以来、栞は、その匂いを部屋そのものの気配のように感じるようになった。
机の端に置かれた活字のかけら、壁際に積まれた紙の束、誰かがそこにいた痕跡はいつも静かにそこにある。栞はその気配に名前をつけたことはないが、部屋に入るたびにその気配が変わらずそこにあることを無意識のうちに確かめていた。
その日、栞が部屋の扉を開けたとき、最初に気づいたのは匂いのなさだった。
いつもならうっすらと漂っているはずのインクの匂いがどこにもない。
窓は閉まったままで、朝からずっと空気が動いていないような重たい静けさが、部屋の中に沈んでいた。
栞は立ち止まり、部屋の中をゆっくりと見回した。机の上はいつもと変わらず片付いているし、活字の欠片や紙の束もいつもと同じ場所にある。しかし、それらすべてがなぜか急に他人行儀に感じられた。
いつもそこにあるはずの気配がない。
栞は、自分の中に生まれた小さな違和感に戸惑った。誰かがいなくなったというよりも、部屋そのものが息を止めているような感覚だった。
窓辺に近づき、鍵を確認する。閉まっている。誰かが最後にここを出た時のまま、時間が止まっているようだった。
栞は机の前に座って持ってきた道具を広げ、作業を始めようとした。しかし、指先がいつものように動かない。針を持つ手が何か違うものを探しているような気がした。
窓の外では夕方の光が少しずつ色を変えていく。オレンジ色に近かった光が壁に伸び、やがて薄れていった。時間の流れは変わらないはずなのに、部屋の中だけがどこか取り残されたようだった。
しばらくして、栞は棚に並んだ本の背を無意識に指でなぞっていた。
それは、考え事をするときの栞の癖だった。本の並びを整えることで、頭の中の何かも整うような気がした。しかし、今日はいくら並びを整えても、落ち着かない感覚が消えなかった。
夕暮れが深くなり、部屋の中に藍色の影が広がり始めたころ、栞はふと机の隅に置かれた小さな栞に目を留めた。
紙でできた栞で、ほんの少し厚みがあり、丁寧に断ち切られていた。いつもならそこにあるかどうかも意識しない部屋の風景の一部だが、今日はその栞だけが妙にくっきりと目に映った。
指先でそっと触れると、紙の縁に沿ってわずかな凹凸があり、誰かが手で断ち揃えたものだということがわかる質感だった。栞はしばらくその紙を見つめていたが、やがてそっと元の場所に戻した。
窓の外はすでに暗くなり始めており、路地の向こうでは街灯の明かりがぽつりぽつりと灯り始めていた。栞は道具を片付けて鞄にしまいながら、もう一度部屋を見回した。
やはり、何かが足りない。
その足りなさの正体が何なのか、栞にはまだ分からなかったが、いつもの帰り道よりも少しだけ胸の奥が静かに冷えているのを感じていた。
部屋を出て鍵をかけるとき、栞は珍しく扉の向こうの静けさに耳を澄ませたが、物音はなかった。閉じられた部屋の中には何も動かない時間だけが残り、栞はそんな気がした。
帰り道、鬼子母神の参道に差し掛かると、木々の間からケヤキの葉擦れの音が聞こえてきた。風は昼間よりも少し冷たく、頬に触れる感触がわずかに湿っていた。
栞は歩きながら今日一日のことを思い返していた。 工房での仕事、宮下との短いやりとり、喫茶店の窓から見た猫。 どれもいつも通りの一日だったはずなのに、あの部屋の静けさだけがいつまでも頭の隅に残っていた。
自宅のアパートに着き灯りをつけると、部屋の中はいつも通りだった。小さな本棚、机の上に置かれた眼鏡ケース、窓辺に干された布巾。何も変わっていないはずなのに、栞はなぜか落ち着かない気持ちのまま椅子に腰を下ろした。
眼鏡を外し、袖でそっとレンズを拭う。考え事をするときのいつものしぐさだった。
窓の外では街の灯りが夜の色に沈み始め、遠くで電車の音が響いては消えていく。栞はしばらくぼんやりと窓の外を眺めていたが、今日の部屋のことがふと頭に浮かび、小さくつぶやいた。
「……匂いが、なかった」
誰に向けた言葉でもなかった。ただ、自分の中に生まれた違和感を言葉にしてみただけだった。
その夜、栞は眠りにつくまで何度もあの部屋の静けさを思い出した。誰かがいなくなったわけではない。ただ、いつもそこにあった気配が今日はどこにもなかった、それだけのことだ。
けれど、その「それだけのこと」が栞の中に小さな穴を開けていた。
まだ名前もつけられない、小さな違和感。
窓の外の夜はゆっくりと深くなり、街の音も少しずつ静かになっていく。栞は目を閉じながら、明日もまたあの部屋に行くのだろうかとぼんやりと考えていた。
答えの出ないまま、夜は静かに更けていった。




