三日:午前「黎明」
早朝、眩しい光で目が覚めた。
あまりの眩しさに身を捩らせ、光の方向へ細めた目を向ける。赤色のカーテンの先に、昨日の天気が嘘みたいに綺麗な空色が広がっていた。
「おはようございます、陛下。」
カーテンが開く音が止まった。リーウェンは、僕が起きたのに気づいたのだろう。
彼の声が耳に届いた。
「…うーん…おはよう…。」
欠伸をしながら、モゾモゾとベッドから起き上がった。
眠たくて重たい瞼を擦って、大きく欠伸をする。
彼はいつの間にか傍に立っていて、紅茶の準備をしてくれていた。
淹れたてなのだろう。ぽわぽわと湯気が立っていて、爽やかでフローラルな匂いが鼻をくすぐる。
この匂いは…アールグレイだ。眠気覚ましにちょうどいい。
「どうぞ、陛下。熱いのでお気をつけください。」
「うん、ありがとう…。」
まだしっかりとしていない意識で、彼から両手で紅茶を受け取る。
温かい。少しだけ冷たい手に熱が伝わる。
ゆっくりとそれに口をつける。一口、また一口と飲めば、ぼんやりとしていた頭も、次第にはっきりしはじめた。
「昨晩は、本を熱心に読まれていたようですね。お身体には触っておりませんか?」
「昨晩…ああ、うん。大丈夫だよ。」
少しずつ昨夜のことを思い出す。そういえば、まずは情報収集から、とアレンから借りた本を読んでいて、寝るのが遅くなってしまったんだっけ。
口では大丈夫だと言いつつも、普段寝ている時間に起きていたから、体があまり慣れてなかったみたいだ。いつもより少しだけ体が重たい。
紅茶を置いて、ベッドから降りる。服を着替えながら、机にある本を見て、そういえば。と気づく。
リーウェンにスラムに行くという話をしていなかった。早いうちに報告しないと。
「ねえ、リーウェン。今日の業務内容だけど――」
「はい。本日は8時から10時に書類確認、その後小休憩を挟み、10時半から剣の訓練。12時に昼食を取り、午後からは…。」
「ち、違う違う! そうじゃなくて! 一旦ストップ。」
言葉を遮って今日の業務予定を報告し始めるリーウェンに焦りながら、それを止める。
彼はきょとんとした顔で小首を傾げながらも、素直に言葉を止めた。
「申し訳ございません。なにかご不明な点が?」
「ううん、そういうことじゃないんだ。リーウェン、昨日の隣国との会談で、新しく領土が入ったのは知ってるよね?」
僕がそう言うと、リーウェンは一瞬だけ体を固める。そして、鋭い目を細めたあと、静かに閉じた。
どうしたんだろう、リーウェンもまだ眠いのかな?
彼の様子に少しだけ疑問を感じたが、僕はジャボをつけながら彼と会話を続けた。
「はい。存じております。」
「それでね、今日はそこの現状を確かめに行きたいんだ。ほら、初めての環境の土地だから、早いうちに見ておいて、そこの住民を安心させたいし…。それに、アレンも見てみるのがいいって――」
「なりません。」
芯のある声が、部屋に響く。マントをかけようとした手がピタリと止まった。
僕は彼の言った言葉が上手く理解…いや、予想していない返答だったから、言葉を詰まらせる。
顔を上げた。彼と目が合わない。
こちらから目を離していて、合わせようとしていない。
僕は彼をまっすぐ見て、問いかけた。
「どうして?」
「スラムは危険です。なので、行かせられません。」
「危険なのは分かってる。けれど、それもこの国の王である僕の務めだ。」
「…なりません。」
「リーウェン、僕の目を見て。どうして逸らすの? それに、駄目な理由をもっと詳しく話して。それじゃあ納得できない。」
リーウェンの喉が小さく上下する。
しかし、彼は最後まで僕を見ようとはしなかった。
ムキになって、マントから手を離し、彼との距離を縮める。少しだけ高いリーウェンの肩を掴んで問い詰めた。
「リーウェンってば! ちゃんと僕の目を見て!」
なおも拒むように、リーウェンは頑なにこちらを見ようとしない。掴んだ彼の肩が、微かに強張るのが伝わってきた。
「…陛下は、自分の立場がよく分かっておられません。スラムがどのような場所なのか、ご存知なのですか。」
「な、なに当たり前のことを…。僕のことを馬鹿にしてるの?」
「いえ、そのような事は決して。」
「っ、じゃあなんで…!」
ますますわけがわからない。
いつもならすぐに僕の願いを叶えてくれる彼が、どうしてこんなにも頑固に、何かを隠すように拒絶するのか。
それが悔しくて、悲しくて、僕がさらに言葉を重ねようとした――その時。
「おーおー、朝っぱらから元気やなぁ?」
「いった!?」
後ろから頭を叩かれて、思わず声が出る。少しだけじんじんと痛む頭を抑えた。
強く叩きすぎだろう、一体誰が…。
振り返ると、金色の髪が太陽の光でキラキラと輝いているのが見えた。
「コローレ!」
いつの間に部屋に入ってきたのだろう。気づかなかった。
驚いてしまった僕は、反射的に彼の名前を呼んだ。
彼――この国の騎士団長・コローレは、顔の高さでひらりと手を振って、軽快に笑う。
「おはよーさん、シエロ。って…あー、マント落ちてるやん。」
彼は僕が落としたマントに気づくと、少しだけ呆れるように肩をすくめる。
コツコツとかかとを鳴らしながらゆっくり歩いて、そのマントを拾い、手でホコリを払った。
よし。と彼は満足そうに頷くと、僕の後ろに周り、肩にかけてくれた。
突然のことで拍子抜けしてしまう。
その後、ぼくらの間に割って入るように彼は身を出す。
「あ、ありがとう。」
「どーいたしまして。んで、なんの喧嘩をしとったん? 廊下まで響いとったよ。」
「…申し訳ございません。私のミスです。」
「ほーん、リーウェンのミス、ねぇ…?」
ますます状況が分からないとでも言うように眉をひそめた彼に、僕は先程の説明をする。
昨日の外交で領土に新しくスラムが入ったこと。現状を見るためにスラムに行きたいこと。リーウェンに拒否されてしまったこと。
コローレは頷きながら僕の話を聞いてくれる。ある程度話終えると、彼は顎に手を当て、考えるように言った。
「要するに、シエロはリーウェンがなんで反対するのかが知りたいんやね?」
「うん、そーゆーこと! だって、リーウェンは駄目って言うばかりで、理由も話してくれないんだ。」
「んー…否定せんとこを見るに、シエロが言うてることは正しいみたいやな? リーウェン。」
コローレはまっすぐリーウェンを見ると、彼はそれを肯定するかのように静かに目を閉じるだけで、何も言わなかった。
コローレはふっと笑うと、僕の頭を片手でわしゃわしゃと撫で回す。
「わっ! ちょ、なに、コローレっ…!」
「まあ、リーウェンはシエロんこと心配しとんのやろ。スラムはお前が思ってる以上に、危ない場所やからな。」
子供扱いをされている。僕は顔をしかめて、その手を払い除ける。
守られているだけじゃ、王としての資格がない。王だから、僕は国を守らなきゃいけないんだ。
コローレをじっと見つめて、意を決して彼へ訴える。
「ちゃんと分かってるよ! でも、だからって僕が何もしないわけにはいかない!」
彼は驚くように目を見開いたあと、すぐにいつものこちらを見定めているかのような表情に戻る。
そして、対抗するように、腕を組みながら僕の顔を見つめ返した。
口角をニッとあげ、彼は笑った。
「そーか、それもそうやな。なら、リーウェンをちゃんと説得せなあかんな。ボクも付き合うよ。」
「コ、コローレ〜…!」
嬉しさで思わず顔が綻ぶ。彼は楽しそうに吹き出して、くつくつと肩を揺らした。
「ふはっ! お前、ほんま表情コロコロ変わるよなぁ。」
「…コローレ様。」
ずっと静かだったリーウェンが口を開く。ジト、とコローレを金色の瞳で見つめていた。
僕はコローレの影からその様子を見る。二人は普段馬が合うことは少ないし、仲が良さそうにしているのもあまり見たことがない。
コローレが味方になってくれるのは大変喜ばしいことなのだが、衝突しないか。と少し心配になるというのも本心だ。
ごくりと喉がなる。コローレは彼を窘めるように見つめ返したあと、ふっと笑った。
「そんな怖い目すんなや。別にええやろ? シエロが言うてることは正しいんやから。」
「…確かに、コローレ様のおっしゃる通りですが…。」
コローレに釘を刺され、リーウェンは低く小さなため息をつくと、視線を床へと落とした。
その横顔には、まだ納得のいかないような苦い色が滲んでいる。
心配だとは思っているが、最強の味方を得た僕の足取りは軽い。僕はコローレの背中の後ろから、ふん、と鼻を鳴らしてリーウェンを見据えた。
「ほら、リーウェン! コローレもこう言ってるんだから!」
「…陛下、私が先程した質問の意味、お分かりいただけますか?」
「質問?」
はて、質問とはなんだろうか。
腕を組んで、首を傾げる。
リーウェンは一瞬眉をひそめたが、一度息を吸って、すぐに表情を戻した。
「スラムがどのような場所か。という質問です。」
「ああ、そういえば。」
言われて思い出す。盾にしているコローレは、少しだけ苦笑していた。
彼はどうしてそんな質問をしたのだろう。スラムのことを知るために、本を借りて、読んで、色々考えたのだ。
スラムのことを知らなかったら、僕だってすぐに行こうだなんて言わない。
こちらの返答を待つようなリーウェンの瞳を捉えて、頷いた。
「もちろん、分かってるよ。そのために色々調べたんだ。」
「…そういうことではなく…。」
じゃあどういうことだよ!
彼の意図が全く読めない。もっと歯に衣着せぬ言い方をして欲しい。
手をぎゅっと強く握りしめて、顔を顰めながら言った。
「リーウェンは言葉が足りなすぎるよ! なにか伝えたいことがあるなら、ちゃんと言って!」
「伝えたいことは、しっかりと伝えているつもりです。」
「はいはい、ヒートアップすんなよ〜。」
コローレから肩をポンポンと叩かれ、制止の言葉が挟まれる。
詰めつつあった距離は再度剥がされ、僕らはまた距離をとった。
「リーウェン、お前は口下手なんやからはっきり言わなあかん。シエロもその間抜けな顔やめ。」
「間抜けっ…!?」
「口っ……こほん。…いえ、確かに、コローレ様が仰ることは正しいですね。」
間抜けってなんだ、そんな顔してないのに。
リーウェンもなにか物申したいような顔をしたが、すぐに拳を口元に当てて小さな咳払いをして誤魔化していた。
…でも、周りから見れば僕はそんな顔をしているということなのかな。
顔の表情筋を緩ませないようにと、掌で頬を軽く叩く。
「…では、一つだけ、無礼を承知の上で言わせていただきます。」
そうこうしていると、リーウェンは僕に向かって頭を下げて言った。
そして顔を上げると、今度こそ逃げずにまっすぐ僕の目を見つめてきた。その瞳の奥にある、痛みを堪えるかのような光に、僕は思わず背筋を伸ばす。
「陛下。アレン様の書物には、あそこがどれだけ《飢えている場所なのか》しか、記されていなかったのではないでしょうか。」
「…それが、全てじゃないってこと?」
「おっしゃるとおりです。」
リーウェンはどこか静かな、冷たい熱を孕んだ声で頷いた。
「…なぜあの場所を『ゴミ溜め』と呼んで我が国へ手放したか、本当の理由をご存知ですか。」
「本当の、理由……。」
冷や汗がでる。知ってはいけないことのような気がして、手が少しだけ震えているのがわかる。
けれど、これもこの国のためだ。
僕はその拳をぎゅっと握り、続きを話すリーウェンを目に焼き付けた。
「あそこは先の内戦の際、傷つき、そして隣国の軍から《戦争の役に立たない、使い道のない人材》だと判断された人々が、まとめて遺棄された場所です。」
リーウェンの言葉が、冷たく部屋の空気を凍らせていく。
横にいるコローレは、静かに腕を組んだ。
「戦えない老人や子供、そして、軍にとって利のない、不十分な能力しか持たぬ者たちを、彼らは『汚物』として一箇所に押し込め、見捨てた。それが、あのスラムの真実です。」
そんな酷いことが、本当にあるのか。
開いた口が塞がらない。声を出したいのに、喉から出るのは掠れた息の音ばかりで。
そこにいる民のことを想像して、胸が苦しくなる。
リーウェンは一度言葉を区切ると、僕の机の上にある、アレンから借りた本に悲しげな視線を落とした。
「陛下が昨晩、熱心に勉強されていたのは存じております。ご自身の《空間操作》の力で、彼らに豊かな物資を作り出して与えたい、と……。そうお考えなのでしょう。ですが、陛下の能力はまだ完璧ではありません。作り出したものは、長い時間残らずに消えてしまう」
「それは……そう、だけど……。でも、今困ってるなら……。」
「シエロ、その考えはあかんよ。」
顔をあげる。隣にたっていたコローレは、窓の外を静かに見つめていた。
眉を潜めていて、鋭い眼光が、空を睨みつけている。出会った時のような、怖い顔。
心配になって名前を呼ぶと、彼ははっとしてこちらを見た。
先程の顔から一転して、彼は目尻を下げて優しい表情を浮かべた。
「そこにいるのは、大国に『いらない』って切り捨てられて、絶望の底にいるやつらばっかりや。一度与えられた《幸せ》が、時間の経過とともに消えていく……。それがそいつらにどんな思いをさせるのか。それは、シエロなら理解できるやろ?」
子供をあやすような、優しい口調だ。けど、その声には彼のいろんな思いが乗っているような気がして、より重く受け止めてしまう。
リーウェンを見上げる。彼はいつもと変わらぬ表情をしていたが、金色の瞳だけは、僕のことを心配していることのだと、訴えているようだった。
本を読んで、色々シミュレーションしていたつもりだった。顔もまだ知らぬ民の喜ぶ姿を想像して、幸せな言葉を想像して。
けれど、それはただの僕の願望だった。
僕の能力はまだ、出したものが数時間で消えてしまう。それでも、今この瞬間に飢えている人を救えるなら、意味があると思っていたんだ。
だけど、実際の『生々しい絶望』までは、僕の想像が及んでいなかった。
リーウェンが頑なに目を逸らしていたのは、僕を馬鹿にしていたからじゃない――僕が傷つくのを、恐れていたんだ。
僕は、すごく馬鹿なことを言ってしまった。永遠に続く幸せよりも、目先の幸せを第一に考えてしまったのだ。
これでは、王様失格と言われても否定できない。民のことを、きちんと考えられてすらいない。
押し寄せる悔しさで奥歯を噛み締めた僕の頭に、ポン、と大きな手が置かれた。
顔を上げれば、コローレが視線を合わせるように少しだけ屈んでくれていた。いつになく真剣な、けれど柔らかな笑みを浮かべて僕を見る。
「ま、そういうことや。どれだけ綺麗事並べても、お前の力はまだ発展途上やからな。……でもな、リーウェン」
コローレは僕の頭を優しく一撫でしたあと、姿勢を元に戻した。
リーウェンをまっすぐ捉えるその横顔は、しっかりとした意志を感じ取れた。
「そいつらが『ゴミ溜め』って見捨てた命を、この不完全で、間抜け面した優しい王様が《救いたい》って言うとんのや。なら、その未熟な力が本物になるまで、周りで支えて守り抜くのが騎士――そこで、や。」
コローレは親指で自分の胸をドンと叩いた。
にっと口角を上げ、彼は楽しそうに笑う。
「騎士団長としてのボクの役目を、果たす時が来たんやないか?」
そう自信満々に謳うその姿は、すごくキラキラとしていて。素直に、太陽みたいに眩しい人だと思う。
そして、これ以上ないほどに、とても頼もしいと感じた。そんな彼を見るのは、何度かあるようで、あまりない。
初めてのような気もするから。
「コローレ様の役目、ですか。」
「おう。ボクが選りすぐった精鋭で完全武装の護衛を組む。シエロの髪の毛一本、その辺の野良犬に触らせへんよ。まあ、この国の《最強騎士》として名高いお前から見れば、まだまだなヤツらばかりやけどな。」
「その異名はおやめください。」
「すまんすまん。」
『最強騎士』。その言葉を、コローレはわざと大きく強調していた。
微かに、リーウェンの纏う風の流れが変わる。彼は眉をひそめ、ぶっきらぼうに答えた。
コローレはケタケタと笑いながら軽く頭をかいた。
けど、と彼は言い放って、その手を胸に当てる。
「けど、その分ボクがおる。……これでも、まだ不満か?」
コローレの力強い言葉に、リーウェンはしばらく僕とコローレの顔を交互に見つめていた。けれど、ようやく諦めたように、ふっと肩の力を抜いて深い溜息をついた。
「……承知いたしました。そこまで条件が揃っているのなら、これ以上の反対は野暮というものでしょう。…午後の予定に『スラム街の視察』を組み込みます。」
「本当!? ありがとう、リーウェン!」
嬉しさのあまりパッと顔を輝かせると、リーウェンは少しだけ微笑む。その後、いつもの完璧な一礼をしながら、釘を刺すように付け加えた。
「ただし、現地では決して私やコローレ様の側を離れないこと。そして、危険を感じたらすぐに撤退すると、お約束ください。」
「うん、約束する!」
「良かったな、シエロ。」
「うん! コローレも、ありがとう!」
おう。と彼はにっと歯を見せて笑う。
こうして、念願の『スラム視察』が決まった。
僕の能力はまだ完璧じゃない。大国の残虐さや、現地の絶望に、今の僕じゃ敵わないかもしれない。
だけど、僕には信じて守ってくれるみんながいる。
王として初めて一歩を踏み出せる高揚感と使命感で、僕の胸は朝の青空のように晴れ渡っていた。




