二日「境界線」
――カチ、カチ、カチ。
古時計が、秒針を鳴らす。
僕は自分の執務室の椅子に座り、足を組んだ。
頬杖をつき、唇を尖らせながら今回の会談録に目を通した。
「…シエロ。お行儀が悪いよ。」
「…分かってる。」
ぶっきらぼうに答えると、会談録を提出しに来た彼は、困ったように頬をかいた。
彼は、この国の外交官――アレンだ。普段は温厚だが、外交となると彼の右に出る者はいない。
そう思えるくらい、優秀で優しい外交官だ。僕のやりたいことを率先して叶えようと動いてくれる。
しかし――怒ると怖い。
「シエロ〜?」
「いたっ…ご、ごめんって…。」
アレンは溜息をつくと、足音を鳴らしながら机を挟み、僕の正面へ来る。
仏頂面の顔をあげれば、ペシッ。と額にでこぴんをされた。思わず額を抑えて声をあげると、彼はにこりと笑う。
…怒っている。
そう察した僕は、目を逸らし、両手を膝の上に乗せて、しっかりと座り直した。
「全く。さっきの会談が不満だったのも分かるけど、あの国のおかげで、この国はうまくやれているんだから」
「だって…。」
「だって、じゃない。私的理由で他国に反抗してしまうのは、大きなリスクを伴うんだよ。」
「分かってる、分かってるんだけど〜…!」
会談録を置き、唸りながら机に突っ伏した。その体勢のまま、窓の外を見つめる。そうしていると、先程の会談ばかりを思い出してしまった。
時は遡り――数時間前。
外の空は曇天で、今にも雨が降りそうなくらい静かで、暗い。
その空と連携するように、部屋も静かで。
リーウェンが紅茶を注ぐ音だけが、やけに響いた気がした。
彼は丁寧な所作でそれを終えると、優しくティーポットを置いて、僕の座る椅子の後ろへ立ち直した。
「…それでは、早速会談を初めましょう。」
来聘した隣国の外交官は、口元を歪めて微笑む。
彼から今日の会談内容について軽く説明される。事前に聞いていた通り、『領地問題』についての会談だった。
そのことについて、セイランから事前に話は聞いていた。
覚悟はできていたし、もちろん例のスラム街を受け入れようと思っていた。
そこに関しては、何も問題ではないのだ。僕がここまで不機嫌なのは、その態度が理由にある。
「では、陛下。こちらをご一読願います。」
彼は封蝋で厳重に閉じられた厚手の羊皮紙を差し出す。そこには相手国の宰相からの、『国境画定交渉請願書』が入っていた。
そこに並ぶ手書きの文字は、異常だった。
ある場所はインクがボタボタと滲み、ある場所は羊皮紙が破れんばかりに鋭く引っ掻かれている。
お世辞にも美しいとは言えない、歪んだ文字列。
それはきっと、隣国の宰相が感覚麻痺をもっているからだろう。大分歳をとっていたはずだ。
普通ならば、このような異常な状態で今後に関わる重要な書類を渡すなど、王が許可を出さないはずだ。
しかし、この書類にはしっかりと王のサインが入っている。
下に見られているのだろう。だが、事実なのだから仕方がない。
一文一文、頭で情報を整理しながら読み進めていく。
ひと通り読み終われば、書類から目を離し、隣に座るアレンへ手渡した。
その一瞬、アレンからも動揺が見えた。きっと、思っていることは同じだろう。
けれど、彼はすぐに平然とした顔をして、読み進めていた。
要約するとこうだ。
自国の力による弾圧では犠牲を生むばかりだから、早期に手放したい。人道的なこの国にスラム街の領地を割譲したい。そのために、請願書へサインをしてほしい。
こういう小さな国にとっては、ありきたりな話だ。基本的に断ることはできない。
断った際のリスクが大きすぎるからが理由だ。
どのような対応をすべきか、思考を張り巡らせながらアレンが読み終わるのを待つ。
数十秒もしないうちに、アレンは書類を机に置いて、話を始めた。
「大方、把握いたしました。貴国の宰相殿は、土地の割譲のかわりに、国境画定の申し出を受けてほしいと。」
アレンの落ち着いた声が、重苦しい空気を切り裂く。
隣国の外交官は、口元を歪めて慇懃無礼な微笑みを浮かべた。
「はい。現在、我が国は貴国と深い友好関係にございます。我が国の宰相閣下は、高い倫理観を持つ貴国を信頼し、割譲することで、《人道的配慮》に基づく治安維持を委ねたいと考えております。」
倫理観、か。
嫌な言い方だ。遠回しに『都合の良い聖人君子であれ』と要求されている。
相手の外交官は笑みを崩さず、ぺらぺらと話を続けた。
「名君たる貴殿の慈悲に満ちた統治だけが、あの絶望に沈む貧民たちを救い、真の平穏をもたらすことができるのです。」
「…慈悲に満ちた統治、ね。」
僕が小さく言葉を零すと、彼はにっと口角を上げ、大袈裟に頷いた。
「そうですとも! シエロ様は、とても優秀な《能力》をお持ちだと伺っております。今こそ、その力を使うべき場面ではないのでしょうか。その力で救われる民が、千といるのですから。」
やっぱり、それが目的か。
目を閉じ、そう悟る。
彼が言っているのは、僕の固有能力――『空間操作』のことだ。無いものを具現化したり、移動させたり。確かに、できることは数多ある。
この世界には、誰もが生まれ持つ魔術の【属性】が存在する。炎、水、草、雷、風、毒、闇、――そして、それら全ての属性を兼ね備えた、極稀にしか存在しない『光』。
そして人々は、それらの属性とは別に、個人特有の【固有能力】を宿している。
開花の時期も内容も人それぞれだが、僕の持つ空間操作は、他国から見れば都合のいい利権に見えるのだろう。
どこから僕の能力の情報が漏れたかは分からないが、彼はその力に目をつけ、綺麗ごとで縛り付けようとしている。それが、目に見えてわかった。
「おや、不満げな顔をなさる。」
「…いえ、そのようなことは。」
指摘され、はっとする。いけない、隙を見せたらそこを突かれるだけだ。
顔をあげると、彼は頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように視線を這わせていた。まるで、品定めでもするかのように。
言葉に詰まりかけながらも、悟られまいと必死に微笑みを張り付かせた。
「シエロ様。これは貴国のためを思って申しているのです。」
「…この国のためを?」
『この国』という言葉に、意識を惹かれる。
僕が食いついたのを見て、気分を良くしたのだろう。彼は、愉悦を孕んだ笑みを浮かべ、さらに声を潜めて身を乗り出してきた。
僕は無意識に体を後ろへ傾け、目線が合わぬよう彷徨わせる。
「貴国のような身の丈に合った国には、お似合いの領土――《おもちゃ》だとは思いませんか?」
その歪んだ声音に、僕の身体が強張る。
おもちゃ、だって? 人の命をなんだと思っているんだ。
視線を合わせ、彼をキッと睨みつけた――その直後、ビクリと肩が跳ねる。
男の瞳から、先ほどまでの『猫かぶりの笑顔』が完全に消え失せていた。
そんな冷たく、残酷な瞳は、こちらの心を透かしているようだった。嫌な汗が、頬を伝う。
その瞳に吸い込まれるように、僕は身動きが取れなくなってしまった。
「――恐れ入りますが、これ以上の接近は、弊国の警備上の規定に抵触いたします。」
芯のある冷徹な声が上から振ってきて、強ばっていた体が反射的に動く。
先ほどまで、僕の椅子の後ろで静かに直立していたリーウェンが、一歩、前へ踏み出した。
礼儀正しい言葉遣いとは裏腹に、彼の鋭い瞳には、一瞬でも動けばその首を跳ね飛ばしかねないほどの、圧倒的な威圧が宿っていた。
「…失礼。」
これ以上は歩が悪いと察したのだろう。
外交官はふん、と鼻を鳴らすと、ゆっくりと背もたれに姿勢を戻した。
手元のティーカップを持ち上げ、何事もなかったかのように紅茶を口に運ぶ。しかし、その一瞬、邪気のある視線をリーウェンに向けたのを、僕は見逃さなかった。
カチャ、と食器の触れ合う音が、やけに響いて聞こえた。
先ほどの圧を受けてもなお、彼は懲りずに話を続けた。
「しかし、あそこは我が国にとってただの汚物入れであることは事実。放置すれば悪臭、つまり犯罪が我が国にまで漏れ聞こえてくる。それは治安維持の観点から看過できません。」
ご理解いただけますか? と、彼は静かに言い放つ。
もう猫かぶりはやめたようだ。まあ、あれだけ本性が見えれば、する必要もないだろう。
彼のスラム街を見下す発言に引っかかったが、僕は何も言わず、静かに頷いた。
すると、彼はまたニヤリと口角を上げる。
「そこで、国際社会への《人道的配慮》という綺麗なお題目のもと、あのゴミ溜め処理権を陛下に譲ろうというのです! とても素敵なお話でしょう? 貴殿の力を信用して、ご提案しているのですよ。」
あまりの言い草に、奥歯が軋んだ。
僕の大切な国を、そしてその土地に生きる人々を何だと思っているんだ。
スラム街にしたのは、追い詰めたのは、自分たちが勝手に引き起こした『内戦』が原因だろう。
怒りで視界が熱くなりかけた、その時。
「なるほど。貴国からそのように信頼していただけて、光栄です。」
隣に座るアレンが、ふわりと、それでいて凍りつくような柔らかい笑みを浮かべて、話を遮った。
「しかし、陛下にそこまでの重責を背負わせるわけにはまいりません。我が国の判断としても、それは同じです。」
アレンはまっすぐに相手の外交官を見据えた。
「よって、この請願の承認にあたりましては、貴国にも復興資源のご負担をお願いしたい。」
「…ふむ、資源負担ですか。」
外交官の顔から、すっと笑みが消える。
それに対して、アレンは始終変わらぬ笑顔を貼りつけていた。
「もちろん、全負担とは申しません。そうですね…4割負担、でいかがでしょう? 妥当な割り当てだと思いますが。」
「それは少々、我が国への要求が大きすぎるのでは? 今回はあくまで、治安維持能力に長けた貴国へ、人道的配慮から土地を譲るという話のはずでしょう。」
外交官は不満げに眉をひそめ、大国のプライドを滲ませながら反論してくる。けれど、アレンは全く動じず、流れるような手つきで手元の書類を指先で叩いた。
「ええ、ですから《4割》なのです。我が国がそのスラムを引き受け、治安を安定させれば、貴国の脅威は完全に消え去る。つまり、貴国にとってもこれは《国防費の削減》という大きなメリットになるのですよ。」
アレンの言葉に、外交官が小さく息を呑む。
「それに、国際社会への綺麗なお題目のためです。我が国だけでなく、親愛なる貴国と共にその義務を果たす姿を見せてこそ、真の友好国と言えるのではないでしょうか。」
「……っ…。」
さっき自分が言った綺麗事をそっくりそのまま盾に使われ、外交官の口がへの字に曲がる。
流石だ。彼の外交官としてのプロ意識には、味方ながらも恐ろしく思う。
これを断れば「人道的配慮がない」「イマティア国を友好国と思っていない」ということになってしまう。そうすると、今回の会談の前提が崩れてしまうだろう。
それをふまえた上で、アレンは笑顔のまま、相手が絶対に断れない外堀を完璧に埋めてみせたのだ。
「……分かりました。我が国が4割の資源を負担する方向で、前向きに本国と調整いたしましょう。」
外交官は忌々しそうに、けれどこれ以上の反論は歩が悪いと察して、苦渋に満ちた声を絞り出した。
「ええ、ありがとうございます。貴国のような素晴らしい友好国を持って、我が国は本当に幸せです」
アレンはどこまでも優雅に、完璧な外交官の礼を執ったのだ。
そして、現在。
その後の会談は、承諾内容の認識のズレがないかを確認し、僕が請願書にサインをすることで終了した。
外交官が部屋から退出した直後、僕を気遣うようにリーウェンがお茶菓子を出してくれたのをよく覚えている。
そのことを思い出しながら、机に突っ伏したまま呟く。
「…はあ。やっぱり、苦手だな…。」
その言葉に、アレンは肩を揺らしながら苦笑した。
彼はゆっくりと窓際に近づき、どんよりとした高い空を眺めながら、静かに言った。
その背中を、僕は呆然と見つめる。
「シエロは、国境画定に不満があるんじゃなくて、あの人の態度に納得がいかないんでしょ? こればかりは仕方がないよ。」
「…だって、おもちゃって、汚物入れって…。さすがに酷いよ。…人として、大切なものを失っている。」
僕は再び会談録に目を移し、ふてくされたように頬杖をついた。
アレンはゆっくりと振り返ると、腕を組んで僕を見つめる。
「手厳しいね。でも、俺も同感だよ。……だからこそ、シエロ。書類の上だけで不満を呟いていても、何も始まらない」
「え?」
「一度、実際に君の目で見て、何が必要かを確かめるのはどうだい? 現地を見ずに、今後のことを決めるのは危険だろう。」
アレンの提案に、僕は顔を上げる。
そうだ、悔しがっている暇なんてない。
僕には、あの場所を、そこに生きる人々を救うための力があるんだから。
そう考えると、どんどんやる気が湧いてきた。
「分かった。明日、すぐに行こう! 一日でも早く、安心してもらえるように。」
僕が椅子から立ち上がりそう告げると、彼は弟を見るかのような笑みで、大きく頷いた。
〇属性:誰もが生まれ持つ魔術の系統。主に、炎、水、草、風、雷、毒、闇の七つの属性を持つ。稀に全ての属性を兼ね備えた光属性が産まれる。
〇固有能力:一人ひとり異なる特別な能力。固有能力が開花する時期には個人差があり、生涯開花しない人間もいる。




