一日目「青空」
天高し、とはよく言ったものだ。
チリひとつない天球は、まるで海岸から見える水平線のように、広く、青く、どこまでも続いている。
刷毛で引いたような白い絹雲が、遠くでゆらゆらと浮かんでいた。
夏の終わりの湿り気を含んだ空気はどこやら、ひんやりと乾いた風が洋服を吹き抜けていく。
今日もこの国の青空は、とても綺麗だ。
王宮の廊下で、僕は思わず見蕩れてしまっていた。この場所から見る空が、僕は好きだった。
手を翳すと、指の隙間からきらきらと太陽の光が零れてくる。そよ風が、木々や花を優しく揺らしていく。
眩しい。けれどそのいつも通りの光景に、僕は安心していた。
「陛下」
「うわあああっ!?」
油断していたところに声をかけられたため、思わず悲鳴をあげてしまう。肩がビクリと跳ねて、勢いのまま振り向いた。
「な、なんだ…リーウェンか…」
後ろへ立つ人影を見て、ほっと胸をなでおろす。
僕の側近――リーウェンは、こちらを見つめ、その場に佇んでいた。
鷹のように相手を射すくめるような、目尻が上がった瞳は彼の特徴だ。
彼は僕の反応を見て少しだけ目尻を下げてやんわりと微笑んだあと、片手を胸の前に添え軽くお辞儀をした。
「申し訳ございません。驚かせるつもりはなく。」
「ううん、僕も少しぼーっとしてたから。」
青空に背を向けて、リーウェンと向き合う。首を横に振り、僕も彼の真似をするように微笑んだ。
確か、リーウェンはセイランと会議中だったはずだけど…こんなところで、何をしていたのだろう。
ちょうど終わった頃合なのだろうか? 彼の予定を偶然頭に入れていた僕は、そう不思議に思った。
僕は首を傾げ、素直に彼へ問いかける。
「リーウェン、セイランとの会議は終わったの?」
「いいえ、中断しているところです。」
「中断? どうして?」
ますます不思議だ。
腕を組み、今度は逆の方向に首を傾げる。リーウェンは後ろで手を組むと、苦笑した。その反応に、より困惑してくる。
「ところで、陛下。本日の予定通りであれば、今は職務の時間のはずでは?」
その言葉を聞いて、一瞬思考が停止する。
3秒ほどの沈黙。そして、ハッとした。
そうだ。書類仕事という退屈な職務をサボろうと、面倒見の近衛兵から逃げ回っていた途中だった。
青空に耽って、完全に忘れていた。
今の僕の顔は、きっととても間抜けた顔をしているだろう。
リーウェンは静かに溜息をつけば、やはりそうでしたか。と肩を下げた。
ぐるぐると頭を回転させ、思いつく限りの弁解――もとい、言い訳を述べた。
「ち、ちがっ。今日は早めに仕事が終わったから、少しだけ散歩をと思って!」
「職務が始まる予定時間から三十分。推定では二時間かかるはずの職務を、もう終わらせたと?」
「うぐ…! き、今日は休憩を早めに切り上げて、職務に移ったから…!」
「おや、さようでございますか。しかし…」
リーウェンは懐に手を伸ばし、二つ折りにされた一通の紙切れを取り出した。それを開き、書いてある文字をこちらに見せる。
その文字を見た瞬間、さあっと血の気が引いた気がした。
《シエロ様が予定通り職務に移られました。》
丁寧な字で、そう書かれている。しかし、そのたった一文が、僕の状況をジリジリと追い詰める。
いつの間にか、リーウェンとの距離も縮まっていた。物理的にも精神的にも追い詰められている。
その距離を離すように、少しずつ後ずさった。
「エフェメル様からは、この通りご報告のメモを預かっております。おかしいですね、陛下が仰ってることとは矛盾しておりますが…」
「…そ、それは…」
駄目だ。これは完全に詰んでいる。
そう、静かに悟った。
「降参です…」
「よろしい。」
白旗を上げる。
僕の観念した様子を見たリーウェンは、面白がっているのを隠すように、控えめに笑った。
彼は前屈みになりつつあった姿勢を戻すと、メモを懐にしまい、事の経緯を説明してくれた。
「先程、エフェメル様から陛下が逃げ出されたとご連絡を受けたため、探しに参ったのです。陛下ならば、ここにいらっしゃるだろうと思いまして。」
えっ。と思わず間の抜けた声が出る。
偶然じゃなかったってことか。彼にはやっぱり、なんでもお見通しらしい。
それがどこか悔しく感じた。眉間に皺を寄せ、拗ねた口調で呟く。
「どうして分かったの?」
「過去の実績です。」
「実績?」
「はい。」
リーウェンは片手を開くと、一つ一つ指を折り、数え始めた。
「書類仕事から逃走された際は三回。会議直前に逃走された際は二回。就寝前に姿を消された際は四回。全てこちらで発見しております。」
「なんで数えてるの!?」
「ちなみに二番目に多い場所は中庭です。」
「そんな統計聞きたくないよ! もう、リーウェンはそうやってすぐに僕をからかうんだから。」
腕を組み、体を背ける。そんな僕に謝る彼の声色は少しだけ弾んでいて、楽しんでいるように聞こえた。
自分のことを知られすぎている。というのは、妙に落ち着かない。彼のことだから、心配してるようなことは起きないだろうけれど。
しかし――そんな統計を取っているのも、さすがにおかしなことだとは思うが。
まあ、リーウェン本人は、そのくらいのことは知っていて当たり前だ、とでも思っているのだろう。
そんなことを一人で考えていると、あ。と言葉を零す声が聞こえた。その声に反応して、僕は彼を見る。
懐中時計の時間を見てか、彼はバツが悪そうに頬をかいている。
どうやら、話に花を咲かせすぎてしまったようだ。彼が想定していたよりも長い間、雑談をしてしまっていたらしい。
「いけませんね、私としたことが…。 陛下、執務室へ戻りましょう。 エフェメル様も、陛下のことがご心配だと思いますので」
「えー、もう少しくらい…」
「なりません。 私もセイラン様との会議がございますので。」
参りましょう。と彼は軽く僕の背を押した。これ以上粘るのはさすがに無理か。
諦めて気だるげに返事をし、歩き出す。彼は僕のことを見送ってから行くつもりなのか、数歩後ろを歩き、着いてきていた。
もう側近モードに戻ってしまったみたいだ。切り替えが早い。
ふと外の青空を見る。すると、色々考えてしまった。
責任感が強いことは、彼のいい所だ。そういう真面目なところに何度助けられただろうか。
けれど、それは裏を返せば少しだけ頑固すぎるということだ。
王である僕としては、まずは他人に頼ることを覚えてほしいとも思う。
そんな考えは、青空に吸い込まれるように消えていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
執務室の扉を開けると、慌ただしく書類の整理をしている姿が目に飛び込んできた。扉が空いた音に気づいたのか、驚いたようにこちらを振り向く。
この王宮の近衛兵――エフェメルだ。
彼の視界に僕が入ったからか、目を細めふわりと柔らかく微笑んだ。
「あ、シエロ君! よかったぁ、心配してたんですよ。」
「ごめんね、メル。 抜け出して」
「ほんとーだよ! 目を離した隙に居なくなってたから、メル、凄くびっくりして…」
書類の束を抱えながら、メルはこちらに駆け寄る。
両の手を合わせてへらりと謝ると、彼は怒るように頬をふくらませた。
すると、
「こほん。」
不意に後ろから聞こえた咳払いに、メルの肩がぴくりと揺れた。
彼は書類の束で顔を隠しながら、恐る恐ると言うように扉の外を覗く。そこにリーウェンが立っているのに気づいたのだろう。
彼はすぐに顔を引っ込めた。
咳払いの正体は、もちろんリーウェンである。
それには、多く語らないという意が込めてあるような気がした。彼らしい。
「り、リーウェンさん、もしかして、さっきから…?」
「はい。こちらにおりましたよ。」
この王宮で一番若く、新米であるメルは、未だに敬語の使い方に慣れずにいる。
僕としては、歳も近いんだし気軽に接してもらいたいところだけれど…。
リーウェンは普段は優しいが、目上の人と話す時のための練習の一環だと思ってか、礼儀に対しては特に厳しい。
近衛兵は王宮を守るものとしての職務がある。その中にはもちろん来客の対応や案内も含まれる。
そう考えると、少しだけ心苦しく思うが、これはメルが乗り越えるべき壁だと僕も思えてくる。
しかし…。
「…す、すみません…」
メルはしょんぼりと肩を下げていた。
表情がころころと変わるメルを見るのは飽きないが、こうも弟感のある反応を見せられては、ついつい甘やかしてしまう。
「まあまあ、メルもわざとじゃないんだし、リーウェンもそこまでにしてあげて。それに、僕はそのくらいラフな方がいいな。」
リーウェンは少し考えこむような素振りを見せたあと、腕を後ろに組み直す。
「陛下がそうおっしゃるのならば。…では、私はそろそろ職務に戻ります。セイラン様との会議の途中ですので。」
「あ、リーウェンさん! シエロく…じゃなくて、シエロ様のこと、ありがとうございました! すみません、リーウェンさんの代わりに、メルがと引き受けたのに…!」
「いえ、お気になさらず。エフェメル様に至らぬ点はございませんよ。」
メルがぺこぺこと頭を下げる。彼の表情は罪悪感と焦りで、完全にいっぱいいっぱいになっていた。
自責の念で、胸がちくりと痛む。そこまで迷惑をかけてしまうとは…反省だ。
せめて、抜け出す時はリーウェンの時にしよう。
リーウェンは彼の表情を見てか、安心させようと優しく微笑む。すると、メルはほっとしたように顔を破顔させた。
彼は本当にさりげないフォローが上手い。見習いたいところだ。
リーウェンはメルの表情を見て安心したのか、では。と姿勢をただすと、お辞儀をした。
「失礼いたします。」
「またね、リーウェン。会議頑張って。」
「恐れ入ります、陛下。」
リーウェンは背を向け、廊下を歩き出そうとしたところで、くるりとこちらを振り向いた。
どうしたのかと首を傾げると、彼はくすりと意地悪をするように微笑む。
「くれぐれも、職務から逃げ出されませんよう。」
「さ、流石に一日に何度も抜け出したりしないよっ!」
彼のお小言に勢いでそう返す。彼はまた愉快そうに笑うと、会議室へと向かった。
カツン、カツンと、リーウェンの几帳面な足音が廊下の向こうへ消えていく。
その気配が完全に無くなったのを見計らったように、メルは「ふはぁーっ!」と派手に息を吐いた。
「やっぱり、リーウェンさんとお話するのは少し緊張します…」
メルは笑って頬をかいた。彼の言葉につられて笑いながら、僕は執務室の椅子に座り直す。
置きっぱなしにしていた書類を片手に取り、内容に目を通しながら話を続けた。
「あはは、最初はそうかもね。でも、リーウェンは少し目付きが鋭いだけで周りをよく見てるから、気難しいやつだと思わないでほしいな。」
「あ、いいやいや! そんなこと思ったことはないですよ! どちらかというと…」
メルは書類の束を机に置きながら、ぶんぶんと首を振る。彼が言いかけたことが気になり、書類を読むのをやめて、聞き返した。
すると、視線を泳がしたあと、慣れない様子で僕の向かいへ立つ。指先を弄りながらたどたどしく言葉を紡いでくれた。
「…メルは、リーウェンさんみたいな、まっすぐで、かっこよくて、優しくて…強い人に、なりたい、です。」
メルは照れるように、へらりと笑った。
初めてメルの意志を聞いたような気がして、少しだけ驚く。今まで、控えめな彼がそうして夢を語ることは、数少なかったから。
不安そうに、けれど少しだけ嬉しそうに揺れる彼の瞳は、いつもより綺麗だと思った。
僕は席を立ち、彼と目線を合わせる。そして、拳を突き出し、にっと笑ってやった。
「きっと、メルならなれるよ。リーウェンみたいな、かっこいい人に!」
息を飲む音が聞こえる。
メルは一度目を伏せたあと、心から幸せそうに笑った。
「はいっ!」
コツン、と拳が合わさる。
その瞬間、今まで以上に、メルとの距離がぐっと縮まったような気がした。




