第9話 運命の出会い
4月13日、火曜日。桜花学園での生活も一週間が過ぎ、少しずつ新しい環境のリズムが掴めてきた頃だった。放課後、俺はいつものように迎えの車に乗り込み、ペントハウスへと向かっていた。膝の上には、学校指定の鞄の代わりに愛用しているレザーのバッグがある。その中には、今日、学校のパソコンルームでプリントアウトした数枚の資料が入っていた。
「……酷いな」
車内で資料を見返しながら、俺は静かに呟いた。そこに記されていたのは、関東近郊にあるとあるブリーダーの飼育崩壊のニュースだ。経営破綻によって飼育放棄され、数百匹の犬猫が劣悪な環境にそのまま取り残されているという。昼休み、何気なく見ていたニュースサイトで目にした情報だったが、写真に写る惨状がどうしても脳裏から離れなかったのだ。
前世の俺なら、「可哀想に」と一瞬心を痛めながらもすぐに画面を閉じ、日々の業務に忙殺されて翌日には忘れていただろう。一個人が同情したところで、世界から不幸が消えるわけではないし、どうにもならない現実が山ほどあることを痛いほど知っていたからだ。
だが、今の俺は違う。手元には莫大な資産があり、それを自分自身の判断で自由に行使できる絶対的な権限がある。そして何より、今の俺は「ベル」というかけがえのない家族を迎え、手のひらに乗るような小さな命の温かさと重みを知ってしまっている。このまま見なかったことにして、ペントハウスのふかふかなソファで寛ぐことなどできそうになかった。
「運転手さん、悪いが行き先を変更してくれ。この住所へ」
俺はプリントアウトした資料の端にメモした住所を渡し、的確に指示を出した。向かうのは千葉県の山間部だ。ペントハウスとは全くの逆方向になるが、そこに躊躇いは一切なかった。
「かしこまりました。……ですが玲央様、このような場所へ何のご用で?」
「少し、買い物だよ。未来のためのね」
俺は短く答えてシートに深く背中を預け、流れる窓の外へ視線をやった。空は薄い灰色に重く覆われ、今にも泣き出しそうな天候だ。
現地に到着したのは、夕闇が迫る頃だった。舗装されていない山道の奥、森の中にポツンと建つ古びたプレハブ小屋の前に車が止まる。ドアを開けて車を降りた瞬間、ツンと鼻をつく強烈なアンモニアの異臭が漂ってきた。衛生管理などとっくに放棄された、荒廃しきった空気だ。
敷地の入り口付近には、すでに動物愛護団体のボランティアと思しき人たちが数名集まり、悲痛な面持ちでケージの搬出などの作業に当たっていた。俺はブレザーの襟を正し、その中で指示を出している中心人物らしき女性に声をかけた。
「すみません。ここの現場の責任者の方はいらっしゃいますか?」
「ええ、私ですが……あなたは?」
彼女は額の汗を拭いながら、怪訝そうな顔で俺を見た。無理もない。こんな劣悪な現場に、仕立ての良い制服を着た高校生が運転手付きの高級車で乗り付けてきたのだから、戸惑うのが当然の反応だ。
「西園寺玲央と申します。今日の昼にニュースを見て来ました。……ここにある命を救うために、微力ながら力になりたいと思いまして」
俺は単刀直入に切り出し、内ポケットから小切手帳を取り出した。金額欄に当面の医療費とフード代としては十分すぎる数字を書き込み、サインをしてから彼女の前に差し出す。
「こ、これは……!?」
女性は小切手に書かれた金額を見て絶句し、次いで慌てたように両手を振った。
「ちょ、ちょっと待ってください! 高校生ですよね? 親御さんはご存知なんですか? お気持ちは本当にありがたいですが、素性のわからない未成年の方からこんな大金を受け取るわけにはいきません!」
常識的な大人の反応だ。俺は一度小切手を引っ込め、落ち着いたトーンで説明を続ける。
「親の金ではありませんし、私の独断で動かせる資金ですのでご安心ください。ただし、無条件で寄付するわけではありません。これはあくまで当座の立て替え金です。後日、貴団体の活動実績と財務状況がわかる資料を私の代理人宛に送っていただきたい。私が監査を行い、適正に運用されていると判断できれば、残りの費用も全額継続して支援します。……それよりも今は、一刻も早くその子たちに適切な医療を受けさせることが先決でしょう。違いますか?」
俺の理詰めの言葉と、年齢に見合わない静かな威圧感に、女性は一瞬息を呑んだ。目の前にあるのは、喉から手が出るほど欲しい救済資金だ。彼女は俺の目と小切手を交互に見比べた後、深く頭を下げた。
「……わかりました。必ず、明細と活動報告をお送りします。本当に、ありがとうございます……!」
金で解決できる問題なら、俺はいくらでも出す。それが「持つ者」の義務であり、今の俺にできる最善の救済手段だからだ。俺は小切手を彼女の手にしっかりと握らせた。
「それと……一匹、引き取らせていただきたい子がいます」
「えっ?」
「実は、猫を探していまして。もし縁があれば、今日連れて帰りたいのですが」
俺の申し出に、彼女は驚きつつも「ご案内します」と頷き、プレハブの中へと通してくれた。
建物の中は、外見以上に悲惨な有様だった。狭いケージが天井近くまで無秩序に積み重ねられ、その中に犬や猫たちが押し込められている。怯えきった目、骨が浮き出るほど痩せ細った体。つい先日出会ったばかりのベルと同じ種類の生き物とは信じがたい凄惨な光景に、胸の奥がギリッと痛む。
「猫はこちらのエリアです。……状態の悪い子も多くて、すぐにはお渡しできない子もいるのですが」
案内されたのは、一段と薄暗く、空気の淀んだ部屋の隅だった。積み上げられたケージの中に、一匹の子猫がうずくまっていた。生後二ヶ月にも満たないだろうか。スコティッシュフォールド特有の折れ曲がった耳。毛色は淡いグレーのハチワレだ。
だが、その本来なら美しいはずの毛並みは汚れ、大きな瞳は極度の恐怖で見開かれている。他の猫たちが威嚇の声を上げたり悲しげに鳴いたりする中で、その子だけは一切声も出さず、ケージの奥で小さく震え続けていた。
(……この子だ)
直感がはっきりと告げた。ベルに出会った時の運命的な直感とは違う、もっと切実で、絶対に放っておけないという感覚。この子は、ここで俺が手を差し伸べなければ、過酷な環境に耐えきれずにきっと長くは生きられない。
「この子を、譲ってください」
「その子は……栄養状態も悪く、極端に人間を怖がっていますが……」
「構いません。最高の環境と医療を私が用意します」
俺はケージの扉をゆっくりと開け、中に手を差し入れた。子猫はビクッと身を縮め、さらに奥へと逃げようと壁に張り付く。俺は無理に掴み出そうとはせず、手のひらを上に向けて静止した。
敵意はない。もう怖くない。心の中でそう念じながら、ただ静かに待つ。
数分、あるいは十数分が経過した頃。子猫は恐る恐る、本当に数ミリずつ、俺の手の方へと小さな鼻を近づけてきた。クンクン、と匂いを嗅ぐ。俺の指先には、毎朝撫でているベルの匂いが残っているかもしれない。それが僅かな安心材料になったのか、子猫は俺の指先に小さな頭をすり、と擦り付けてきた。
「……いい子だ」
俺はそっと、壊れ物を扱うように両手で子猫を抱き上げた。軽い。羽毛のように軽く、そしてひどく儚い。俺の掌にすっぽりと収まってしまうほどの小さな命。だが、その胸の奥にある鼓動は、トクトクと確かに脈打っている。
「連れて帰ります」
必要な手続きを済ませ、俺は子猫を持参した新しいキャリーバッグに入れた。もちろん、感染症の検査はその場で団体の獣医師に済ませてもらった。幸い、栄養失調気味ではあるものの、命に関わるような深刻な病気は見つからなかった。簡単なノミやダニの駆除も済ませ、清潔なバスタオルにふんわりと包んでやる。
帰り道の車中、俺はずっとキャリーバッグを自分の膝に乗せていた。メッシュの隙間からそっと指を入れると、小さな温もりが吸い付くように寄ってくる。もう一人じゃない。俺がいるから安心しろ。そう伝えるように、俺は優しく指先を動かし続けた。
「名前は……『ルナ』だな」
月のように静かで、夜の闇のような美しい毛色を持つ君には、その名前が相応しい。ベルとルナ。俺の思い描く理想の家族が、これで揃った。
ペントハウスに戻ると、部屋の中は静まり返っていた。ベルは専用のサークルの中でおとなしく留守番をしてくれていたようだ。俺の帰宅に気づくと、千切れんばかりに尻尾を振って歓迎のジャンプを繰り返している。
「ただいま、ベル。……今日は新しい家族を連れてきたぞ」
俺はルナの入ったキャリーバッグを床に置いた。いきなり対面させるのはルナにとってリスクが大きすぎる。まずはケージ越しに、互いの匂いと存在を認識させることからだ。リビングの隅にあらかじめ用意しておいた、二階建ての豪華な猫用ケージにルナをそっと移す。
ルナは新しい環境に戸惑い、最初はケージの隅で小さく固まっていた。だが、ベルがケージの周りをクンクンと嗅ぎ回り、「キュウ?」と優しく鳴きかけると、ルナは少しずつ警戒を解き始めたようだった。ベルの持ち前の社交性の高さと穏やかな性格には、本当に助けられる。
「さて、ご飯にしようか」
俺はキッチンに立ち、子猫用のミルクと栄養価の高い離乳食を手早く用意した。人肌に温めたミルクの甘い香りが漂うと、ルナの小さな鼻がピクピクと動いた。ケージの中に皿を置くと、ルナはよちよちとした足取りで近づいてきた。
まだ足元がおぼつかないその姿は、歩くというより「転がりながら進む」という表現が正しい。あまりの頼りなさに、思わず手を差し伸べて支えたくなる。
「みゃぅ……」
か細い声で鳴きながら、ルナは皿に顔を突っ込んでミルクを飲み始めた。小さなピンク色の舌で一生懸命に舐めとる。口の周りをミルクだらけにしながら夢中で飲む姿は、反則級の可愛さだ。俺はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えながら、その様子を見守った。
守ってあげたくなる、庇護欲を激しく掻き立てる魔力がこの子にはある。一生懸命に皿を舐める小さな背中を、俺は指先でそっと撫でた。骨の感触が伝わるほど痩せているが、これからうちでたくさん食べて、遊んで、ふっくらとした健康的な猫に育て上げてやる。
食後、満腹になったルナは俺の膝の上で丸くなった。まだ完全に警戒心が解けたわけではないはずだが、満腹感と暖かさには勝てなかったらしい。スースーと規則正しい寝息を立て始める。俺はリビングのソファに深く沈み込み、膝の上の小さな重みを感じながらゆっくりと息を吐いた。
ベルは俺の足元にある専用のクッションで、遊び疲れて丸くなっている。膝の上には、安心しきって眠るルナ。この二つの小さな命の重みと温もりが、今の俺には何よりも心地よかった。
ふと、ローテーブルの上のパソコンが目に入る。画面には米国市場の株式チャートが表示されている。日中はこうして冷徹に数字を追いかけ、帰宅すれば小さな家族の世話をする。
「……あ、そういえば」
俺はポケットから携帯電話を取り出し、姉さんに手短なメールを送った。昨日の今日だが、報告しないわけにはいかないだろう。
『件名:家族が増えました
本文:
名前はルナ。スコティッシュフォールドの女の子です。
事情があって保護しました。
まだすごく怖がりだから、昨日のような大騒ぎは厳禁でお願いします。』
添付したのは、ミルクを飲んで口の周りを白くしたルナの写真だ。送信ボタンを押して数秒後、携帯が激しく震えた。
『件名:Re: 家族が増えました
本文:
ぎゃああああああああ!
なにその子! 犯罪級に可愛いじゃない!
保護ってなに!? 詳しく!
明日、学校終わったら速攻で行くから!
おやつ何がいい!?』
画面の向こうの喧騒が目に浮かぶような、予想通りの反応だった。俺は小さく息を吐きながら携帯を閉じた。明日の放課後も、このペントハウスはまた賑やかになりそうだ。だが、ルナにとっても、この世界には優しい人間がたくさんいることを知るのは悪いことではないだろう。
俺はソファから立ち上がり、ルナの小さな体をそっとケージの中のふかふかなベッドへと移した。間接照明だけの薄暗い部屋で、ベルとルナ、二匹の静かな寝顔を順番に見つめる。俺は明日の朝食の準備の段取りを頭の中で軽く確認し、静かに自分の寝室へと向かった。




