第10話 姉の友人は小悪魔
4月14日、水曜日。 昨夜、新しい家族である子猫のルナを保護して迎え入れた俺は、少しの寝不足と大きな充足感を抱えて登校していた。
まだ新しい環境に慣れていないルナは、夜中に何度か細い声で夜鳴きをした。その度にベッドから起き出し、パピー用の粉ミルクを人肌に温めて哺乳瓶で飲ませてやる。小さな前足で哺乳瓶を抱え込むようにして飲む姿や、背中を優しく撫でてげっぷをさせてやる時間は、かつての激務による殺伐とした徹夜作業とは比べ物にならないほど、心安らぐ愛おしいひとときだった。ベルも俺の足元に寄り添い、新入りの妹を心配そうに見守ってくれていた。
「おはよう、西園寺くん」
「おはよう」
クラスメイトたちへの朝の挨拶も板についてきた。自分の席に着いて鞄を下ろすと、隣の席の桜木マナが小鼻をひくつかせてこちらに顔を寄せてきた。
「……あれ? 西園寺くん、なんか甘い匂いしない?」
「そうかな? 柔軟剤を変えたつもりはないけど」
「違う違う、もっとこう……ミルクみたいな? 赤ちゃんみたいな匂いだよ」
彼女の嗅覚は異常に鋭い。今朝、慌ててルナにミルクを飲ませた際、ブレザーの袖口にほんの少しこぼしてしまったのかもしれない。だが、ルナの存在はまだ学園では秘密だ。ただでさえ目立つ今の状況で、ベルの時に続いてまた大騒ぎの種を提供するのは避けたい。
「朝食のホットミルクをこぼしたのかもしれないな。急いでいたから」
「ふーん……。ま、甘くていい匂いだから全然いいけどね」
マナはそれ以上深く追及することなく、自分の机に向かって教科書を開いた。どうやら納得してくれたようだ。
昼休み。俺はいつものようにカフェテリアの喧騒を避け、北校舎の図書室へ向かった。あそこには完璧な静寂と、もう一つの密かな楽しみがある。
「……ごきげんよう、霧島先輩」
書架の奥、日差しの差し込む窓際の席。そこに、今日も彼女はいた。長い艶やかな黒髪に、陶器のように滑らかで白い肌。彼女の周りだけ時間の流れが遅くなっているかのような、ひどく静謐で冷涼な空気を纏っている。
「あら、西園寺君。……また会ったわね」
彼女は手元の本からゆっくりと顔を上げ、薄く微笑んだ。今日彼女が読んでいるのは、古い装丁のボードレールの詩集だった。
「ここが一番落ち着くので。……向かいの席、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ。ここは誰のものでもないわ」
俺は彼女の向かいに腰を下ろし、持参した海外文学の文庫本を開いた。二人の間に明確な会話はない。ただ、古書特有の紙をめくるカサリという乾いた音と、開いた窓の外から聞こえてくる微かな春風の音だけが響いている。だが、その沈黙は決して居心地の悪いものではない。むしろ、中途半端な言葉を交わすよりもずっと深く、互いの存在を心地よく共有しているような感覚があった。
「静寂の共有」。それが、俺と霧島先輩の間に流れる、独特で心地よいコミュニケーションの形だった。
やがて、昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが鳴り響く。
「……行くの?」
俺が栞を挟んで本を閉じると、先輩がポツリと呟くように言った。
「はい。午後の授業がありますから」
「そう。……残念ね」
彼女は視線を詩集のページに戻したまま、静かな声で言った。その言葉に含まれた仄かな熱に、俺の胸が小さく高鳴る。上辺だけの社交辞令ではない、本音の響きがそこにあった。
「また来ます」
「……待ってるわ」
俺は軽く一礼して図書室を後にした。背中に感じる彼女の静かな視線が、春の木漏れ日のように温かかった。
放課後。昇降口で革靴に履き替えていると、校門の方が何やら異常に騒がしいことに気づいた。女子生徒たちの黄色い歓声と、男子生徒たちの野太いどよめきが入り混じり、一種のパニック状態になっている。
「きゃー! 本物だ!」
「マジで!? すげぇ美人!」
「あの車もやべぇ!」
何事かと目を向けると、校門の真ん前に真っ赤な欧州製のオープンカーが堂々と停まっていた。そして、その運転席に座り、大ぶりのサングラス越しに校舎を見上げている派手な美女の姿があった。
(……くるみさんか)
天童くるみ。姉の高校時代からの親友であり、この学園のOG。現在、ファッション誌のモデルやタレントとして大活躍中の売れっ子だ。日曜日にペントハウスへ襲来し、俺を恵比寿のラーメン屋に連れ回したばかりである。まさか平日の学校にまで乗り込んでくるとは思わなかった。
俺は極力目立たないよう、生徒たちの人垣を避けて別ルートから帰りたかったが、彼女の鋭い「猫の目」をごまかすことはできなかった。
「あ、見つけた! こっちよ玲央ー!」
よく通るプロの声で名前を呼ばれた瞬間、その場にいた全校生徒の視線が一斉に俺へと突き刺さった。ざわめきが爆発的に広がり、ヒソヒソ声が波のように押し寄せる。俺は小さく息を吐き、観念して彼女のオープンカーへと歩み寄った。
「……目立ちすぎだよ、くるみさん。今日は何の用だい?」
「あら、つれないわね。可愛い弟分をわざわざ迎えに来てあげたのに。今日は撮影が早く終わったから、少し付き合いなさいよ」
くるみさんはサングラスを頭にずらし、悪戯を企む子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「……拒否権は?」
「あるわけないでしょ。乗った乗った」
強引に助手席に押し込まれる。周囲の好奇の視線が痛いほど突き刺さるが、もうどうにでもなれだ。俺がシートベルトを締めると、車は軽快なエンジン音を立てて走り出した。
車が幹線道路に出たあたりで、くるみさんはふと匂いを嗅ぐように俺の方へと顔を近づけてきた。
「ん? あんた、なんか甘い匂いがするわね」
「……え?」
「香水? いや、もっとこう……粉ミルクみたいな。そういえばさっき摩耶に『玲央借りるわよ』って電話したんだけどさ」
くるみさんは呆れたように肩をすくめた。
「あの子、『今忙しいから玲央は好きにしていいわよ!きゃー、るーちゃんこっちおいで!』って狂ったように叫んで一方的に切ったのよ。あんた、いったい何を飼い始めたの? まさか隠し子じゃないわよね?」
見事なまでの情報のズレだ。姉さんはどうやら約束通りペントハウスへ一番乗りしており、俺が保護した子猫のルナに完全に夢中になって親友からの電話すらまともに取り合わなかったらしい。
「……子猫だよ。昨日、事情があって保護したんだ」
俺は事情を短く説明した。どうせ摩耶経由で遅かれ早かれバレるのだから、隠す意味はない。
「なーんだ、猫か。……って、猫ォ!? あんた、ベルちゃん迎えたばっかりじゃない! すっごいペースね。どんな子? 種類は?」
「スコティッシュフォールドの女の子。名前はルナだよ。ただ、すごく怖がりな子だから、ペントハウスに大勢で押し掛けるのはしばらく控えてほしい」
俺が釘を刺すと、彼女は「ちぇっ、残念」と唇を尖らせた。「ま、楽しみはとっておくわ。……で、今日は私のお気に入りの場所に連れてってあげる」
車は都心を抜け、海沿いの古い倉庫街へと入っていった。到着したのは、使われなくなった倉庫をリノベーションしたような、隠れ家的なカフェだった。看板も極端に小さく、一見して店とは分からない。
「ここ、業界人がお忍びでよく使う店なの。静かでいいでしょ?」
店内は薄暗く、上質なジャズが静かに流れている。客の数もまばらで、それぞれがソファに深く沈み込み、自分の時間を楽しんでいるようだ。確かに、ここなら周囲の目を気にせず落ち着ける。俺たちは海が見える窓際の席に座り、コーヒーと特製のサンドイッチを注文した。
「……ふぅ、生き返るわ」
くるみさんはコーヒーを一口飲み、アンティークのソファに深く体を預けた。その横顔には、華やかなテレビ画面では決して見せない、色濃い疲労の影が微かに滲んでいる。
「忙しそうだね。テレビで見ない日はないくらいだ」
「まあね。ありがたいことだけど、分刻みのスケジュールで動いてると、たまにこうやって息抜きしないと本当にパンクしちゃうわよ」
彼女は自嘲気味に笑った。華やかな芸能界の裏にある、過酷な生存競争と、常に結果を求められるプレッシャー。前世の俺も、IT業界という形は違えど似たような実力主義の過酷な世界に身を置いていた。だからこそ、彼女の抱える深い疲労と孤独感が痛いほどよく分かるのだ。
「無理はしないでくれよ。俺でよければ、愚痴くらいはいつでも聞くから」
俺が静かにそう言うと、くるみさんは少し驚いたように目を見開き、そして柔らかく微笑んだ。
「あら、生意気。……でも、ありがと」
その笑顔は、ただの「天童くるみ」という一人の女性としての、飾り気のない素顔のものだった。
「……あんた、本当に中身が変わったわよね。昔は私の後ろをついて回るだけの、おとなしい弟って感じだったのに。なんか、変に頼もしくなっちゃって」
「人は変わるものさ。守りたいものができれば、強くもなる」
「守りたいもの、ねぇ。……ベルちゃんやルナちゃんのこと?」
「それもある。……それだけじゃないけどね」
俺は言葉を濁し、ブラックコーヒーを喉に流し込んだ。守りたいもの。ベルとルナという小さな家族。そして、自分の裁量で生きられるこの「平穏な自由」。それらを理不尽な外力から守り抜くために、俺は強くなる。手に入れた莫大な資産の力を最大限に行使してでも、俺の城をより強固なものにしていくのだ。
店を出る頃には日が落ち、海風が一段と冷たくなっていた。くるみさんは少し寒そうに肩を抱き、身をすくめる。俺は無言で自分のジャケットを脱ぎ、彼女の華奢な肩にふわりとかけた。
「……ありがと。紳士ね」
「風邪を引かれたら、姉さんに俺が怒られるからね」
「ふふっ、素直じゃないわね」
車に乗り込み、帰路につく。カーステレオからは、流行りのバラードが静かに流れている。会話はほとんどなかったが、決して気まずくはない、心地よい沈黙の時間が流れていた。
やがて、ペントハウスの地下駐車場に到着し、俺は助手席を降りた。
「今日はありがとう、玲央。すごくいいリフレッシュになったわ」
「こちらこそ。美味しいコーヒーをありがとう」
「ふふ、また連れて行ってあげる。……じゃあね、摩耶によろしく」
くるみさんはサングラスをかけ直し、アクセルを踏んだ。排気音だけを残して、赤い車は夜の街へと軽快に走り去っていった。
俺はエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。鍵を開け、重厚な扉を開くと、中から「玲央、おっそーい!」という姉さんの抗議の声が飛んできた。
リビングに入ると、姉の摩耶がベルを膝に乗せ、ケージの中にいるルナに猫じゃらしを振って完全にメロメロになっていた。
「姉さん、ルナをあまり怯えさせないでくれよ」
「怯えてないわよ! ほら、ルナちゃんも私のこと大好きみたい!」
姉さんの親バカならぬ姉バカぶりに呆れながらも、俺はスーツのネクタイを緩めた。トタタタッとベルが足元に駆け寄ってきて、ケージの中のルナも小さな声で「みゃぅ」と鳴く。
俺は屈み込み、ベルの頭を撫で、ケージ越しのルナにそっと指先を差し出した。二つの小さな温もりが、冷えた指先から俺の心を満たしていくのを感じながら、俺はリビングのメイン照明を少しだけ落とした。




