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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第11話 お隣の女子大生

 4月16日、金曜日。

 夕暮れ時の渋滞に巻き込まれた黒塗りのセダンの後部座席で、俺は静かにネクタイの結び目を緩めた。


 今週は、西園寺玲央としての高校生活のスタートと、投資家としての本格的なポジション構築、さらにはベルとルナという二つの小さな命を迎え入れるなど、あまりにも多くの出来事が重なった。肉体的な疲労感は確かにある。だが、それは前世で感じていた、経営の重圧による鉛のような重苦しさとは全く違う。自分がコントロールできる範囲で物事が進んでいるという、心地よい充実感を伴うものだった。


 流れる東京の街並みをぼんやりと眺めながら、頭の片隅で今週仕込んだネット関連銘柄の株価推移をシミュレーションする。今のところ、すべてが想定の範囲内で動いている。来週からはさらに手持ちのキャッシュを分散し、ITバブルの波に確実に入り込んでいく予定だ。


 冷徹な数字の計算をひとしきり終えると、意識は自然と今から帰る場所へと向かっていった。誰にも干渉されない、俺だけの城。そして、そこで俺の帰りを待っているであろう、真っ白なポメラニアンのベルと、淡いグレーのハチワレ子猫、ルナ。二匹の小さな家族が待つペントハウスへ帰れると思うだけで、強張っていた表情筋が自然と緩んでいくのが自分でも分かった。


 やがて車は、高級住宅街に建つマンションの地下駐車場へと静かに滑り込んだ。


 運転手に短く礼を言い、帰りがけに寄った高級ペットショップの紙袋を提げて車を降りる。このマンションの最上階は、フロア全体を丸ごと占有するペントハウスになっており、そこへ向かうための居住者用とは別の専用エレベーターが存在している。


 静まり返った地下のエレベーターホールへと歩み寄ろうとした、その時だった。


「……あ、落ちた」


 ハスキーで、どこか聞き覚えのある声がホールに響いた。

 専用エレベーターの扉の少し手前で、一人の女性が屈み込んでいる。抱えていたコンビニの袋から何かを取りこぼしたらしい。俺は歩み寄り、彼女の足元のコンクリート床に転がっていたペットボトルのキャップを拾い上げた。


「大丈夫ですか? 落としましたよ」

「あ、わりぃ。サンキュ……って、え?」


 彼女は顔を上げ、キャップを受け取ろうと差し出した手を見つめた後、俺の顔をまじまじと見上げた。


 ショートカットの黒髪に、白いTシャツと色落ちしたデニムのショートパンツという極めてラフな格好。だが、その立ち姿には運動で鍛えられたようなしなやかな美しさがある。化粧っ気はほとんどないが、肌は健康的に白く、大きな瞳は真っ直ぐで嘘がない。


 俺もまた、彼女の顔を見て僅かに目を見張った。見間違えるはずがない。姉の摩耶、そして先日会ったばかりの天童くるみといつもつるんでいる、あの「悪友トリオ」の一人だったからだ。


「……涼さん?」


 俺が名前を呼ぶと、彼女――早坂涼は、パチクリと目を瞬かせた後、パッと表情を明るくして快活な笑い声を上げた。


「うわ、マジか! 玲央じゃん! 久しぶりだなー、ボン!」


「ボン」というのは、彼女が俺をからかって呼ぶ時の愛称だ。彼女は立ち上がり、俺の肩を遠慮のない力加減でバシバシと叩いた。竹を割ったようなサバサバした性格で、細かいことは一切気にしない。その飾らない人柄は、西園寺家の屋敷に遊びに来ていた数年前から全く変わっていないようだ。


「奇遇ですね。まさか、同じマンションに涼さんが住んでいたとは」

「アタシもびっくりだよ。ここのマンション、実家の親父が持ってる部屋があってさ。大学に通いやすいからってアタシが一つ下の階を借りてるんだ。摩耶から弟が一人暮らしを始めたとは聞いてたけど、まさか同じ建物のペントハウスの住人だったとはね。……ていうか、お前すっかり色男になっちゃって」


 涼さんは腕を組み、面白そうに俺の全身をジロジロと眺め回した。その瞳には、親戚の子供の成長を見るような温かさと、少しの懐かしさが宿っている。


「成長期ですからね。涼さんも、大学生になって少し雰囲気が変わりましたね」

「そ? ま、毎日楽しいよ。サークルとかバイトとかさ」


 彼女はケラケラと笑いながら、自分の首元を軽く掻いた。感情の起伏が激しい姉やくるみが周囲を振り回すタイプなのに対し、涼さんは常に自然体で、どんな場の空気もフラットに和ませるバランサーのようなタイプだ。だからこそ、昔から俺にとっても一番話しやすく、気を使わない相手だった。


 ちょうどその時、専用エレベーターが到着し、静かな音と共に扉が開いた。


「それじゃ、アタシは途中の階で降りるから。摩耶によろしくな」


 涼さんが先にエレベーターに乗り込もうとした瞬間、彼女の視線が、俺の手元にあるペットショップの紙袋でピタリと止まった。隙間から、パピー用の粉ミルクの缶と、犬猫用の高級なおやつのパッケージが覗いている。


「おい玲央。お前、それ……ペット用品だよな? もしかして、ペントハウスでなんか飼ってんの?」

「……ええ、ごく最近ですが」

「マジで!? 犬!? 猫!?」


 涼さんがものすごい圧で距離を詰めてきた。さっきまでのサバサバした気だるげな態度はどこへやら、瞳の奥に獲物を見つけたような鋭い光が宿っている。彼女の異常なほどの「動物好き」は筋金入りだったことを思い出した。昔、西園寺家の庭に迷い込んだ薄汚れた野良猫を、泥だらけになりながら必死に保護していた姿が脳裏をよぎる。


「……犬と、猫です」

「両方かよ! 見たい! アタシ、動物には目がないんだよ! 頼む、玄関先からちょっとだけ! 拝ませて!」


 両手を合わせて本気で拝み倒してくる。ここでお断りしてエレベーターを閉めるのも大人げないし、彼女の動物に対する真摯な愛情は過去の経験から知っている。


「……散らかっていますが、少しだけなら」

「っしゃあ! サンキュな玲央!」


 俺たちはエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。


 重厚なカーペットが敷かれた内廊下を進み、ペントハウスの鍵を開ける。扉を少し開けた瞬間、「ワンッ!」という元気な鳴き声と共に、待ち構えていたベルがパタパタと足音を立てて玄関の三和土まで飛び出してきた。


「うわあああ……!」


 涼さんが歓喜の大声を上げそうになった瞬間、俺は咄嗟に人差し指を自分の唇に当てた。


「しーっ。昨日、劣悪な環境から保護したばかりの子猫がいるんです。まだ音や声に極端に敏感なので、絶対に大声は出さないでください」


 俺が真剣なトーンで告げると、涼さんはハッとして両手で自分の口元を塞ぎ、こくりと力強く頷いた。そして、忍び足で音を立てないようにそっと玄関を上がり、ベルの前に静かにしゃがみ込んだ。


「……ポメラニアンのパピーか。すげぇフワフワだ……たまんねぇ」


 涼さんは床に這いつくばるような体勢になり、囁くような小声でベルに話しかけた。ベルは初めて見る来客に少し驚いたようだが、涼さんがゆっくりと差し出した手の甲の匂いを確かめるように嗅ぐと、すぐに警戒を解いてちぎれんばかりに尻尾を振り始めた。


 俺は靴を脱ぎ、リビングの奥にある二段ケージの方へと視線をやった。案の定、ルナは一番奥のベッドの陰に隠れ、大きな瞳でこちらの様子を怯えたように伺っている。


「あっちは……折れ耳ってことは、スコティッシュフォールドの血が入ってるのかな。かなり怯えてるな。あの子は無理に近づかない方がいい」


 涼さんは遠目からルナの姿を確認すると、それ以上距離を詰めようとはしなかった。自分の欲望よりも動物のストレスを優先できる、彼女のその振る舞いを見て、俺は密かに安堵した。動物は人の本質を見抜くというが、撫でる場所や力加減など、ベルへの接し方を見ても手慣れたものだ。


「麦茶でも淹れますよ。どうぞ、ソファへ」

「悪いな。お邪魔するよ」


 涼さんはベルに足元をまとわりつかれながら、リビングのソファへと腰を下ろした。広々とした空間を見渡し、「広っ! なんもねーな!」と小声で正直な感想を漏らしている。


 俺はキッチンへ行き、グラスに氷と冷たい麦茶を入れてローテーブルに置いた。


「おう、ありがたい。喉がカラカラだったんだよ」


 涼さんはグラスを半分ほど一気に飲み干すと、ふうっと息を吐いた。そして、足元で丸くなり始めたベルの背中を、慈愛に満ちた手つきで優しく撫で続ける。ベルは彼女の手のひらの温もりがよほど心地よいのか、目を細めて完全にリラックスしきっていた。


「玲央、お前いい子たち迎えたな。このポメは毛並みも綺麗だし、大事にされてるのが分かるよ。あのケージの子猫も、今は怯えてるけど、この環境ならすぐに落ち着くさ」

「ありがとうございます。俺にとっては、何物にも代えがたい大切な家族ですから」

「家族、か。……いい響きだ」


 涼さんはグラスについた水滴を指で拭いながら、優しく微笑んだ。


「大学のサークルも動物愛護系でさ。ボランティアでシェルターの世話とかしてるから、パピーの扱いは慣れてるんだ。……アタシたち、腐れ縁だろ? またあの子猫ちゃんがこの部屋に完全に慣れて落ち着いた頃に、遊びに来てもいいか?」

「ええ、構いませんよ。ベルも涼さんにすっかり懐いたみたいですし、ルナが環境に慣れたら、また顔を見に来てやってください」

「約束だぞ! よし、今日はこれくらいにしといてやる。子猫を疲れさせちゃ悪いからな。邪魔したな、玲央」


 彼女はグラスの残りを飲み干すと、颯爽と立ち上がり、ベルの頭を最後にもう一度撫でてから玄関へと向かった。動物第一の引き際の良さも、彼女らしい。


「じゃあな。摩耶たちには内緒にしといてやるよ」


 涼さんは小さく手を振って帰っていった。

 重厚なドアが閉まると、広大なペントハウスには再び完全な静寂が戻った。だが、その静けさは、以前の空虚なものよりも少しだけ温かい色を帯びているように感じられた。


 俺はソファの足元にいるベルを抱き上げ、ケージの中のルナにゆっくりと近づいた。ルナは俺の姿を見ると、隠れていたベッドから少しだけ顔を出し、「みゃぅ」と細い声で鳴いた。


「怖かったか、ルナ。もう大丈夫だぞ」


 同じマンションの階下に、まさか涼さんが住んでいたとは。

 姉の摩耶とくるみに加え、涼さんまで身近にいるとなると、俺の隠遁ライフは完全な静寂とは程遠いものになりそうだ。だが、彼女たちの裏表のない明るさと、動物に向けられる純粋な愛情は、決して不快なものではなかった。


「ま、たまには来客があるのも悪くないか」


 俺はベルの柔らかな頭を撫でながら、ルナの今夜の離乳食の準備に取り掛かるため、キッチンへと歩みを進めた。

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