第12話 携帯ネットの可能性
第12話:携帯ネットの可能性
4月17日、土曜日。桜花学園での最初の一週間を終えた俺は、週末だからといってペントハウスで昼まで泥のように眠りこけるようなことはなく、規則正しく朝の六時にスッキリと目を覚ました。それは前世で患っていた過労や強烈なストレスによる不眠症のせいではない。今日という一日に「自分のやりたいこと」が明確に存在しているからこそ自然に目が覚めるという、極めて健全で前向きな起床だった。
最高級のマットレスから身を起こし、寝室のドアを開けると、広いリビングの奥の方からカサカサという微かな物音が聞こえてくる。俺が静かな足取りでリビングに足を踏み入れると、一角に設置されたサークルの中で待機していた二つの小さな影が、俺の気配に一斉に反応した。
「ワンッ!」
「みゃぅ」
真っ白なポメラニアンのベルと、淡いグレーのスコティッシュフォールドのルナ。俺の愛すべき小さな家族たちだ。ベルは俺の姿を認めるなり尻尾が千切れんばかりに激しく振っており、ルナは二段ケージの柵にスリスリと自分の体を擦り付けて甘えた声を出している。
「おはよう、ベル。おはよう、ルナ。二匹とも、夜の間いい子にしてたか?」
俺は優しく声をかけながらサークルの鍵を開け、二匹を広いリビングへと解放した。途端に、静かだった空間は賑やかな運動会会場へと変貌する。ベルが弾丸のような勢いで走り出し、その後をルナが意外なほどの俊足でトテトテと追いかけていく。床の全面にコルクマットを敷き詰めておいて本当に正解だった。もし滑りやすいフローリングのままだったら、今頃あちこちでスリップ事故が多発して、小さな関節を痛めていただろう。
二匹がじゃれ合っている間に、俺はキッチンへ向かい、自分用の深煎りコーヒーと二匹の朝食を手早く用意する。消化器官が未発達な子犬と子猫は、成犬・成猫よりも頻繁に少量の食事を与える必要があるのだ。パピー用のフードを適温のお湯で柔らかくふやかし、隣のボウルには人肌に温めた子猫用の特製ミルクを注ぐ。準備をしている間も、足元には二匹が忙しなくまとわりついてくる。足の甲にちょこんと乗っかってくるルナの羽毛のような軽さと、俺の靴下を標的にしてじゃれつき、甘噛みしてくるベルの温かい感触。それは、どんな高級なマッサージサロンに通うよりも、確実に俺の神経の疲れを癒やしてくれた。
「ほら、お待たせ。どうぞ」
それぞれの定位置に皿を置くと、二匹は脇目も振らずに夢中で食べ始めた。その小さな背中を微笑ましく見守りながら、俺も淹れたての香り高いコーヒーでゆっくりと喉を潤す。南向きの巨大な窓の外には、土曜日の朝の澄み切った東京の空がどこまでも広がっていた。
平和だ。誰にも行動を監視されず、誰の顔色を伺って理不尽に頭を下げる必要もない。これこそが、俺が前世の最期まで求め続け、ついに手に入れることのできなかった「絶対的な自由と豊かな時間」の結晶だった。
食後、お腹が満たされた二匹はまた少しの間リビングでじゃれ合った後、俺が座っているアンティークのソファへと一生懸命によじ登ってきた。俺はコーヒーカップを置き、あぐらをかいて座り直して二匹の小さな体を受け入れる。ベルは俺の左膝の上でくるりと丸くなり、ルナは右膝の隙間に上手く潜り込んで目を閉じた。生き物の柔らかな体温が、じんわりと太ももを通して伝わってくる。
「さて、少し確認しておくか……」
俺は二匹の背中を交互に優しく撫でながら、サイドテーブルの上に置いてあった真新しい端末を手に取った。先日、身分証を使って契約したばかりの最新型携帯電話だ。アンテナが物理的に伸びるストレートタイプで、液晶画面はまだ小さく、当然のようにモノクロ表示しかできない。一見すると旧世代の遺物だが、この端末にはこれまでのただの「電話機」とは決定的に違う、歴史的な機能が搭載されていた。
『i-Net』。この1999年の初頭にサービスが開始されたばかりの、世界初の携帯電話向けIP接続サービスだ。
俺は親指で物理ボタンを押し込み、専用のメニュー画面を呼び出した。「接続中……」という無機質な表示と共に、画面右上のアンテナピクトが点滅を始める。通信速度はわずか9600bps。未来の超高速回線を知っている身からすれば、カタツムリが這うような絶望的な遅さにもかかわらず、俺の胸の奥ではかつてないほどの高鳴りを感じていた。
「……繋がった」
小さな画面にゆっくりと表示されたのは、文字テキストと簡素な線画だけのシンプルなニュースサイトだ。画像は極めて粗く、次のページを読み込むのにも数秒の時間がかかる。とはいえ、これは間違いなく世界を変える革命の第一歩だった。重たいパソコンの前に座らなくても、モジュラージャックに電話線を繋がなくても、今この瞬間、掌の中で世界中のネットワークと直接繋がることができる。「いつでも、どこでも」というこの新しい概念が、これから人類の生活様式を根底から覆していくのだ。
俺は親指で十字キーを操作し、証券会社の提供するモバイル専用サイトにアクセスした。まだ機能は非常に限定的で、リアルタイムの株価チェックと単純な成行・指値の注文が出せる程度であり、複雑なチャート分析やテクニカル指標の確認などできるはずもない。しかし、俺にとってはこれで十分だった。外出先のカフェで、学校の短い休み時間で、移動中の車の後部座席で。俺はいついかなる時でも、市場の激しい脈動を直接感じ取り、即座に億単位の資金を動かすことができるようになったのだ。
「……本当に、恐ろしい時代になったな」
思わず感嘆の溜息が漏れた。前世の俺は、この時代の劇的な変化を単なる「一人のユーザー」として受動的に消費するだけだった。「携帯でメールが送れて便利になったな」程度の感想を抱きながら、ただ時代の波に流されるままに新しい機種へと買い替えていただけだ。
反面、今の俺は未来を知る「投資家」であり「経営者」の視点を完全に持っている。この小さなモノクロの端末が、やがて高性能なカメラを搭載し、鮮やかなフルカラーになり、音楽を奏で、高画質の動画を映し出すようになる過程をすべて知っている。そして数年後には、あの『Fruits社』が物理ボタンのない板状の端末を発明し、この「携帯電話」という概念自体を過去の遺物へと変えてしまう未来が、すでに俺の掌の中に存在しているのだ。
「ベル、ルナ。よく見てごらん」
俺は点滅する画面を、膝の上でまどろむ二匹に向けた。もちろん、彼らにとってはただの緑色に光る眩しい板でしかない。ベルは不思議そうに首を傾げてクンクンと匂いを嗅ぎ、ルナは画面上で点滅するカーソルを虫か何かだと思ったのか、小さな前足でチョイチョイと触れようとしてくる。
「今はまだ、ただの文字情報の羅列だ。でも、あと10年もすれば、この薄い板の中から世界中の犬や猫の面白い動画がいつでも見られるようになるんだよ」
そう、ありとあらゆるコンテンツの覇権が、固定されたテレビやPCから、完全に個人のモバイル端末へと移行していく。着メロ、待受画像、勝手サイト、個人ブログ、そして巨大なSNS。これからわずか数年の間に、モバイルインターネット市場は人類史上類を見ない爆発的な成長を遂げる。市場を牽引する『Yahho!』などの株価が実体経済を無視して暴騰するのも、この未曾有のモバイル需要の取り込みが最大の鍵となるからだ。
俺は画面を見つめながら、静かに思考を巡らせた。今、手元にある膨大なキャッシュを単に株式市場への投資で増やすだけでなく、もっと能動的に、そして直接的にこの「波」に乗る方法はないだろうか。
最も確実なのは、自らコンテンツ事業に乗り出すことだ。現在、i-Netの「公式サイト」として認定されるためのキャリアの審査は非常に厳しい。しかし、一度その限られた枠に入り込むことさえできれば、携帯電話料金と一緒に代金を回収できる「キャリア課金」という、取りっぱぐれのない最強の集金システムを利用できるのだ。仮に月額300円のサイトに100万人が登録すれば、それだけで毎月何もしなくても3億円の現金が転がり込んでくる。しかも、一度システムを構築してしまえば、物理的な在庫を持たないデジタルコンテンツの原価は限りなくゼロに近い。まさに現代に蘇った錬金術だ。
「……WGGとしての最初の実業は、モバイルコンテンツのプロバイダーにするか」
俺は静かに呟いた。俺自身が直接キーボードを叩いてプログラミングをするわけではない。前世の知識と経験があれば、これから「どのタイミングで何が当たるか」は完全に分かっている。最初はシンプルな占いサイトや着メロ配信から始め、デコレーションメール、そして最終的には莫大な利益を生むソーシャルゲームへと展開していく。優秀なエンジニアとディレクターを高給で雇い入れ、彼らに「未来の正解」となる仕様書を指示するだけでいい。そうすれば、株式投資でのキャピタルゲインとは別に、盤石で安定したキャッシュフローを生み出す巨大な自律型のエンジンが手に入る。その事業で得た莫大な利益を元手に、さらに将来の覇権企業の株を買い増していく。誰にも文句を言わせない、完璧な資産拡大のスパイラルだ。
俺の膝の上で、ベルが小さく身をよじって大きなあくびをした。
その無防備な振動で、俺はふと我に返った。いけない、休日の朝からついつい前世と同じような仕事モードの熱に当てられてしまった。俺の今世での最大の目標は「世界経済を支配すること」ではなく、誰にも脅かされない「優雅で平穏な隠遁ライフ」を謳歌することのはずだ。
その隠遁ライフを盤石なものにするために、この千載一遇のチャンスを見逃す手はない。それにもかかわらず、自ら現場の仕事に忙殺されてまた体調を崩すようなことがあれば、完全に本末転倒だ。あくまで俺はオーナーとして君臨し、実務は信頼できる優秀な部下にすべて任せる。「方針に口は出すが、自分の手と時間は決して奪わせない」。それが今世の俺の絶対的な経営ポリシーだ。
思考を切り替えようとしたその時、玄関の方から「ピンポーン」と控えめなインターホンのチャイムが鳴った。
モニターを確認すると、ラフなグレーのパーカーを着た早坂涼が立っているのが見えた。昨日、下の階に住んでいる隣人だと判明した、姉の親友だ。俺は膝の上で丸くなっている二匹をそっと起こさないようにソファのクッションに下ろし、玄関へと向かって重厚な扉を開けた。
「おはよう、玲央。休みの朝早くから悪いな」
「おはようございます、涼さん。どうしたんですか、こんな朝から」
涼は屈託のない笑顔で片手を上げ、すぐに本題を切り出してきた。
「今日すげえ天気いいからさ、屋上庭園に行かないかと思って。このマンション、最上階のさらに上に住民専用の広い緑地スペースがあるんだよ。ベルちゃん、まだワクチンプログラムが終わってないだろうから下の地面は歩かせられないけど、抱っこして外の空気を吸わせるくらいなら、すごく良い社会化の勉強になると思ってさ。ルナちゃんはまだ家に来たばかりで環境に慣れてないし、無理に外に連れ出すとストレスになるから、涼しい部屋でお留守番がいいかな。どうだ?」
彼女の提案を聞いて、俺は感心した。動物愛護のボランティアをしているだけあって、パピーの感染症リスクや、保護されたばかりの子猫のメンタルに対する配慮が完璧に行き届いている。動物の生態をよく理解している人間ならではの、的確で優しい誘い方だった。
「それは非常に良い提案ですね。ベルの社会化のためにも、安全な場所で日光浴をさせたいとちょうど考えていたところです」
「だろ? アタシも今日は一日暇だから付き合うよ。少し準備してっから、10分後に廊下でどう?」
「わかりました。こちらもベルの準備をしておきます」
涼はひらりと手を振って、エレベーターホールの方へと戻っていった。
俺はリビングに戻り、俺の足音に気づいてソファから顔を上げ、尻尾をパタパタと振っているベルの柔らかな頭を撫でた。
「少しだけ、外の空気を吸いに行くぞ、ベル」
俺の言葉がわかったのか、ベルは嬉しそうに「キャン!」と短く鳴いた。ルナはソファの隅の毛布に包まったまま、スヤスヤと穏やかな寝息を立て続けている。ルナが目を覚ます前に、少しだけ屋上を散歩してくるのがちょうどいいだろう。
俺はクローゼットから休日に相応しい上質なニットを取り出し、手早く袖を通した。パピーを安全に運ぶための専用のスリングを肩にかけ、ベルをすっぽりとその中に収める。静かに眠り続けるルナを驚かせないよう、俺は足音を殺して玄関へと歩き出した。




