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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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8/12

第8話 廊下の太陽

 4月11日、日曜日。昨日の春の雨が嘘のように晴れ渡った青空の下、俺はペントハウスのリビングのソファに深く腰を下ろし、これから訪れるであろう嵐の到来を待っていた。


 膝の上には、昨日ブリーダーの元から迎え入れたばかりのポメラニアン、ベルがいる。雪のように真っ白でふわふわの毛玉は、俺の指先を甘噛みしてみたり、膝の上でぐるぐると回転してポジションを探したりと、どれだけ見ていても全く飽きることのない愛らしさを振りまいている。


 インターホンが鳴るよりも先に、玄関の向こう側から聞き覚えのある高い声が響いてきた。嵐の到着だ。


 俺はベルをそっと床のコルクマットに下ろし、玄関へと向かった。重厚な扉を開けると、そこには対照的な雰囲気を持つ二人の女性が立っていた。一人は姉の摩耶だ。春らしい淡いシフォンのワンピース姿で、両手には入り切らないほどの大量の紙袋を抱えている。隙間から高級ペットショップのロゴが見えるあたり、犬用のグッズやお菓子を買い込んできたのだろう。


 そしてもう一人が、派手な大ぶりのサングラスをかけ、タイトなデニムに黒のレザージャケットという辛口のファッションを完璧に着こなす女性、天童くるみだった。姉の高校時代からの親友であり、現在はファッション誌のモデルやテレビのバラエティ番組などで活躍している売れっ子のタレントだ。この桜花学園のOGでもあり、昔から西園寺家の屋敷によく遊びに来ていたため、俺とも面識がある。


「おかえり、玲央! ……じゃなくて、ベルちゃんは!? どこ!?」


「ちょっと摩耶、玄関先で騒がないの。挨拶くらいしなさいよ。……久しぶりね、玲央。随分と背、伸びたんじゃない?」


 くるみさんは華奢な手でサングラスを頭の上にずらし、猫のように吊り上がった大きな瞳で俺を見上げた。テレビ越しに見る姿よりも遥かに整った顔立ちだが、その視線は鋭く、昔の泣き虫だった弟の姿からどう変化したのかを値踏みするような光を帯びていた。


「久しぶりだね、くるみさん。わざわざ来てくれてありがとう。どうぞ、入って」


 俺が落ち着いたトーンで招き入れると、二人は競うように靴を脱ぎ捨てて、広大なリビングへと突撃していった。


「きゃあああああ! いたあぁぁぁ!」

「うわっ、ちっさ! 白っ! なにこれ、動く綿菓子じゃないの!?」


 静かだったペントハウスに、鼓膜を劈くような黄色い悲鳴が響き渡る。俺が扉の鍵を閉めてリビングに戻ると、二人は既に床に座り込み、ベルを囲んでスマートフォンとデジタルカメラで撮影会を始めていた。


 ベルは最初こそ二人の高い声と勢いに驚き、サークルの隅に隠れて様子を伺っていた。しかし、二人が全身から発する「可愛い」という強烈にポジティブな好意を感じ取ったのか、恐る恐る短い足で近づいていき、くるみさんの差し出した指先にちょんと鼻を寄せた。


「っ……! 舐めた! 私の手、舐めたわよ摩耶!」

「ずるい! 私にも! ほらベルちゃん、お姉ちゃんよー! こっちおいで!」


 大の大人二人が、体重1キロにも満たない子犬一匹に完全に翻弄されている。なんとも平和で、そして騒がしい光景だ。俺は邪魔をしないように静かにキッチンへ立ち、二人分のブルーマウンテンと、姉が持参した有名パティスリーのショートケーキをテーブルに用意した。


「ほら、お茶が入ったよ。冷めないうちに少し落ち着いたらどうだい」


「落ち着いてなんかいられないわよ! 見てこの天使! 玲央に似て本当に美人さんねぇ」


 姉さんはベルを愛おしそうに抱き上げ、自分の頬をすりすりとおしあてている。くるみさんも連写の手を止めず、テレビで見せる「毒舌小悪魔キャラ」とは全くかけ離れた、とろけるような無防備な表情を浮かべていた。


 ひとしきりベルを愛で倒し、ケーキを食べ終えた頃、くるみさんが不意に自身の細い腕にはめられた腕時計を見た。


「さて、と。十分すぎるくらい癒やされたし、そろそろ行くわよ玲央」


「え? どこへ?」


「ご飯よ。高校の入学祝いに、私が奢ってあげるって昨日摩耶に言ったでしょ? 摩耶はここでベルちゃんのお守りしててくれるわよね?」


 くるみさんが悪戯っぽくウィンクすると、姉さんは「ええっ? 私も美味しいもの食べに行きたい!」と一度は不満げな声を上げたが、すぐに足元で尻尾を振るベルを見て「……ううん、やっぱり残る。今日はずっとベルちゃんと一緒にいたいし」とあっさり前言を撤回した。


「分かった。着替えてくるから、少し待っていてくれ」


 俺は寝室でシックなモノトーンの私服に着替え、くるみさんと共にペントハウスを出た。地下の専用駐車場には、彼女の愛車である真っ赤な欧州製のオープンカーが停まっていた。彼女のファッションと同じく、ひどく目立つ車だ。


「乗りなさい。助手席、あんたのために空けておいたんだから」


 くるみさんはサングラスをかけ直し、慣れた手つきでエンジンを吹かした。重低音が地下駐車場に響く。俺は小さく息を吐いてから、低い車高の助手席に乗り込んだ。


 車は都心の休日の道路を滑るように走り出した。オープンカーのルーフを開け放つと、春の柔らかな風が直接肌を撫でて心地よい。


「で、何が食べたい? フレンチ? 隠れ家的なイタリアン? それとも回らないお寿司にする?」


 細い腕で器用にハンドルを握りながら、くるみさんが聞いてきた。


「……ラーメンでいいかな」


 俺の即答に、彼女はカクッと崩れ落ちそうになり、慌ててブレーキを踏みかけた。


「はぁ? あんたねぇ……西園寺家の御曹司がラーメン? しかも私との初デートで?」


「無性に温かいスープの麺が食べたい気分なんだ。それに、高級な料理なら家でいつでも食べられるからね」


「可愛くないわねぇ……。ま、いいわ。あんたがそこまで言うなら、とびきり美味しい店に連れて行ってあげる」


 彼女は呆れたようにニヤリと笑うと、ウインカーを出してハンドルを切った。


 連れて行かれたのは、恵比寿の路地裏にある隠れ家的なラーメン屋だった。表には看板すら出ておらず、奥にはお忍びで来る芸能人御用達の個室があるという。


「ここ、豚骨醤油のスープと自家製のチャーシューが絶品なのよ。カロリー高いから普段は我慢してるんだけど、今日は特別」


 くるみさんは慣れた手つきで店員に注文を済ませると、テーブルに頬杖をついて正面から俺を見た。


「それにしても、あんた本当に変わったわね」


「そうかな?」


「そうよ。昔は摩耶の後ろに隠れてるような泣き虫だったのに。……さっきベルちゃんの世話をしてる時も思ったけど、なんか急に『男』になったって感じ。行動の端々に変な余裕があるっていうか」


 彼女の鋭い視線が、俺の表情の微細な変化を読み取ろうと観察してくる。芸能界という海千山千の大人たちがうごめく世界で生き抜いている彼女の直感は、鋭敏に他者の変化を察知するようだ。


「いろいろあったんだよ。……くるみさんこそ、テレビで見るよりずっと綺麗になったね」


 俺はお返しとばかりに、素直な称賛の言葉を投げた。これはお世辞ではない。自らの実力でポジションを勝ち取ってきた彼女の姿は、以前会った時よりも数段強いオーラを放ち、輝いて見えた。


「っ……! な、なによ急に。年下の男の子に口説かれても何も出ないわよ」


 くるみさんは一瞬完全に虚を突かれたように言葉に詰まり、すぐにふんと顔を背けたが、サングラスの下から覗く耳の先まで赤く染まっていた。ストレートな称賛には弱いらしい。テレビのバラエティで見せる完成されたキャラクターとは違う、年相応の反応だった。


 ラーメンが運ばれてくると、二人は無言で麺を啜った。濃厚な豚骨の旨味が溶け込んだスープが体に染み渡り、口の中でとろけるチャーシューは確かに絶品だった。


 店を出る頃には、すっかり日も暮れていた。


「送っていくわよ。ペントハウスでしょ?」


「ありがとう。助かるよ」


 帰りの車中、夜風に吹かれながら、くるみさんがふと真面目な顔で言った。


「ねえ、玲央。あんた、これから西園寺の跡取りとして大変なこともあると思うけど……無理して一人で抱え込んじゃダメよ。摩耶も心配してたし、私も……一応、姉貴分みたいなもんだしね」


「……ありがとう、くるみ姉さん」


 昔の呼び方であえて呼んでみると、彼女は一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに照れくさそうに笑った。


「生意気。……でも、悪くないわね」


 ペントハウスのエントランスで車を降りる。赤いテールランプが夜の闇へと遠ざかっていくのを見送り、俺はマンションを見上げた。最上階の窓には煌々と明かりがついている。姉さんがベルと一緒に待っているはずだ。俺はエントランスの自動ドアを抜け、エレベーターのボタンを押した。


★★★★★★★★★★★


 明けて翌日。4月12日、月曜日。

 週末の賑やかな余韻を残したまま、俺は登校していた。


 1限目の授業が終わり、次の移動教室へ向かうために廊下を歩く。すれ違う生徒たちからの好奇の視線にも、だいぶ慣れてきたところだ。


 軽く会釈を返しつつ、階段の踊り場の角を曲がろうとしたその時だった。


「あっ、やば……!」


 焦ったような声と共に、前方から女子生徒がバランスを崩して突っ込んできた。彼女が両手で抱えていた分厚い参考書やノートの山が、今にも床に崩れ落ちそうになっている。


 俺は反射的に半歩踏み込み、彼女の身体を倒れないように支えつつ、落ちかけた一番上の本を押さえた。


「っと……大丈夫ですか?」


「あ、ありがとうございます……! ごめんなさい、急いでて前を見てなくて!」


 彼女は顔を上げ、ほっとしたような安堵の表情を浮かべた。

 栗色の髪をハーフアップにし、少し垂れた瞳が親しみやすい愛嬌を感じさせる少女。その胸元には、2年生を示す青いリボンがあった。


「怪我がなくて何よりです。荷物、少し持ちますよ」


 俺は彼女の手から半分ほどの教科書を受け取ろうとした。その時、彼女が俺のブレザーの袖口をじっと見て、目を丸くした。


「あれ? 西園寺くん、その服の袖についてるの……もしかして、犬の毛?」


「え?」


 視線を落とすと、濃紺のウール生地に一本だけ、真っ白で極細の毛が付着していた。今朝、出かける前にベルを抱きしめた時の名残だろう。玄関で粘着ローラーを使って念入りに取ったつもりだったが、見落としていたらしい。


「あ、すみません。身だしなみのチェックが甘かったですね」


 俺は軽く肩をすくめてその毛をつまみ取ろうとしたが、彼女はそれを遮るように食い気味に身を乗り出してきた。


「待って! その毛……もしかして、犬飼ってる? すっごく細くて柔らかいから……ポメラニアンとか、スピッツ系じゃないかな?」


「……よく分かりますね」


「やっぱり!? 私、犬が大好きなの! 特に長毛種は毛の質感と細さでなんとなく分かるっていうか……あ、私、2年の花村結衣です。いきなり変なこと言ってごめんね」


 花村先輩は、周囲の空気をパッと明るくするような笑顔で自己紹介をした。屈託がなく、他人に警戒心を抱かせないオーラを持った人だ。


「1年の西園寺玲央です。……先輩の推測通りですよ。実は週末に家族に迎えたばかりなんです。真っ白なポメラニアンで、『ベル』という名前で」


「ベルちゃん! すっごく可愛い名前! いいなぁ、真っ白なポメちゃんかぁ……絶対可愛いじゃん」


 彼女は目をキラキラさせて、自分のことのように喜んでいる。打算や媚びの一切ない、純粋な動物好きとしての反応。俺は彼女のテンションにつられるように、自然と頬が緩むのを感じた。


「ええ、世界一可愛いです」


 親バカ全開の返答をしてしまったが、花村先輩は引くどころか「分かるー!」と激しく同意してくれた。


「私も実家でゴールデン飼ってるんだけどね、もう可愛すぎて毎日窒息しそうだよ。……あ、予鈴鳴っちゃった! ごめんね西園寺くん、助けてくれて本当にありがとう!」


 彼女は慌てて俺から教科書を受け取り直し、廊下を小走りで駆けていった。そして数メートル先で振り返り、大きく手を振る。


「またベルちゃんの話、聞かせてねー!」


 その元気な声に、廊下にいた他の生徒たちも振り返る。俺は軽く片手を上げて彼女の挨拶に応えた。


 花村結衣。人を惹きつける、快活で真っ直ぐな先輩だった。


 俺は袖口に残っていた白い毛を指先で丁寧に弾き飛ばし、次の授業が行われる教室へと向かって歩き出した。

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